届かない声
巣の最奥。
女王は、静かに目を閉じていた。
変異群の感覚網は、
本来――“生命の在処”を伝えるためのものだ。
獲物。
仲間。
環境。
それ以上のものは、不要だった。
だが今、
その網に――異質なものが混じっている。
(……これは)
情報ではない。
魔力でもない。
個体の消失でもない。
感情だ。
ざらついた、不快な波。
恐怖とも、怒りともつかない。
女王は、初めて“距離”を測れなかった。
(近い……?
いや、違う)
一つの地点ではない。
複数。
しかも、移動している。
映像が、断片的に流れ込む。
壊れた荷車。
燃え残った布。
泣き声を押し殺す人間の群れ。
――避難。
女王は、その概念を知っていた。
書物から得た、人間の行動様式。
だが、
そこに混じる“濁り”は、記録にはなかった。
(……争っている?)
同じ人間同士で。
水を巡って。
順番を巡って。
責任を巡って。
外敵がいなくても、
彼らは壊れていく。
その中心に、
“強い断絶”がある。
だが――
それが誰によるものか、分からない。
逸脱個体の思考は、ここにはない。
命令も、報告も、返ってこない。
あるのは結果だけ。
女王は、巣を揺らすほど強く、
息を吸った。
(……これは)
(私が、望んだ世界か?)
答えは出ない。
ただ一つ、確かなのは。
人間社会は、
まだ触れられただけで壊れ始めている。
女王は、触肢を震わせた。
(……制御が、必要)
(だが――)
初めて、
“自分では届かない領域”があることを知る。
その感覚は、
恐怖に近かった。
依頼書は、薄かった。
紙の質も、封蝋も、
どこにでもある冒険者ギルドの正式書式。
だが――
内容だけが、異様だった。
「……“原因不明の避難民増加”?」
ミリアが、眉をひそめる。
「魔物討伐でもなく、
盗賊でもなく、
疫病でもない?」
「うん」
レインは淡々とページをめくる。
「被害は出てる。
でも――」
一行、指でなぞる。
「何に襲われたのか、誰も説明できない」
リュカが、低く息を吐いた。
「……それ、嫌なやつですね」
「うん」
エルドも、盾を背にしたまま頷く。
「殴られたなら殴られたって言う。
噛まれたなら噛まれたって言う」
「でも」
視線を上げる。
「“分からない”って言うのは、
だいたい――」
「判断できなかった、ってことだ」
レインが、静かに継いだ。
ミリアが、顔を上げる。
「また、選ばせない系?」
「たぶん、違う」
レインは首を振る。
「これは――」
一拍。
「選ぶ前に、壊されてる」
沈黙。
依頼書の末尾には、
簡単な追記があった。
避難民の多くが、
「なぜ逃げたのか」を説明できない。
恐怖はある。
だが、記憶が曖昧。
ミリアが、無意識に腕を組む。
「……気持ち悪」
「蒼衡は?」
リュカが聞く。
「切れない」
レインは即答した。
「敵が“判断できる形”で存在してない」
「英雄は?」
「戦場じゃない」
エルドが、低く唸る。
「……だから、俺たちか」
「うん」
レインは、依頼書を畳んだ。
「ここは――」
《非裁定》
その名を、口に出さずに思う。
「裁く理由もない。
退く理由もない」
「ただ――」
視線を、窓の外へ。
遠く、
街道の向こうに、
仮設の天幕が見えていた。
避難民キャンプ。
「“起きてること”を、
確かめに行く」
ミリアが、小さく笑う。
「いつも通りだね」
「うん」
レインも、少しだけ笑った。
《模写理解》は――
この時点では、まだ沈黙していた。
だが、
“何も拾えない”という事実そのものが、
今までになく不穏だった。
そして彼らは、まだ知らない。
この依頼が、
ただの前触れにすぎないことを。
避難民キャンプは、想像よりも整っていた。
簡易天幕は規則正しく並び、
炊き出しの列も混乱していない。
泣き声はある。
不安も、疲労もある。
だが――
パニックがない。
「……静かすぎない?」
ミリアが、小声で言った。
「うん」
リュカも、視線を巡らせる。
「逃げてきた人たちの数に対して、
感情の揺れが少ない」
エルドは、無意識に盾の位置を直す。
「守る側が楽なのは助かるけど……
逆に、変だな」
レインは、キャンプ全体を見ていた。
《戦場演算》
――反応なし。
《模写理解》
――取得情報、ほぼゼロ。
(……ノイズがない)
(感情も、敵意も、
“強度”が足りない)
彼らは、炊き出しの近くにいた老人に声をかけた。
「すみません」
レインが、穏やかに言う。
「どこから避難してきたんですか?」
老人は、一瞬だけ考えた。
「……村だ」
「村の名前は?」
「……」
口が開く。
だが、言葉が出ない。
「分からん」
そう言って、困ったように笑った。
「分からんのだ。
気づいたら、歩いていた」
ミリアの表情が、強張る。
「魔物は?」
「見てない」
「音は?」
「覚えてない」
「じゃあ、なんで逃げたの?」
老人は、胸に手を当てた。
「……怖かった」
それだけだった。
次に話を聞いた女も、子どもも、
答えはほとんど同じ。
見ていない。
聞いていない。
思い出せない。
ただ、
“そこにいたくなかった”。
「……これ」
ミリアが、歯を噛む。
「心を殴られてる」
「うん」
リュカも頷く。
「しかも、
殴った自覚すら残さない」
その時だった。
キャンプの端で、
一人の青年が、急に立ち上がった。
「……あれ?」
足元を見て、
自分の手を見て、
周囲を見回す。
「俺……
なんで、ここに?」
次の瞬間。
青年の表情が、歪んだ。
恐怖ではない。
混乱でもない。
“理解できないことへの拒絶”。
「……気持ち悪い」
そう呟いた瞬間、
青年は膝から崩れ落ちた。
「っ!?」
人が集まる。
だが、誰も叫ばない。
助けようとして、
どう助ければいいか分からない。
「……来てる」
レインが、低く言った。
《模写理解》が、
一瞬だけ、反応する。
だが――
読み取れたのは、断片。
(……変異)
(……捕食)
(……“結果”だけが残る)
ミリアが、剣に手をかける。
「敵は?」
「……分からない」
レインは、正直に答えた。
「でも」
一歩、前に出る。
「ここは、もう安全じゃない」
エルドが、盾を構え直す。
「じゃあ――」
「守る」
レインは、はっきり言った。
「理由が分からなくても」
「正体が見えなくても」
「ここにいる人たちは、
まだ選べる」
遠くで、
誰かがまた、立ち止まった。
そしてまた一人、
“逃げる理由を思い出せないまま”、
崩れ落ちる。
変異群でも、影でもない。
だが確実に――
世界の外側から来た歪み。
《非裁定》は、
初めてそれを前にした。
裁けない。
切れない。
名前すら、まだない敵を。
そしてこの時点では、
まだ誰も知らない。
この“逸脱”が、
後に世界を揺らす存在になることを。




