判断が、食われ始めた世界
最初に異変が報告されたのは、
ごく普通の街道沿いの村だった。
商人が行き交い、
傭兵が酒を飲み、
冒険者が依頼を受ける――
どこにでもある、退屈なほど平和な場所。
だから誰も、
「消えた理由」を説明できなかった。
⸻
宿屋の裏手で、
一人の男が跪いていた。
逃げようとしていた形跡はない。
争った痕もない。
血も、叫び声もない。
ただ――
男の“存在”だけが、
綺麗に抜け落ちていた。
床には、
削り取られたような影。
それを見下ろしながら、
通りかかった冒険者が呟く。
「……魔物、じゃねぇな」
空気が、妙に静かだった。
音があるのに、
“選択肢”だけが消えている。
⸻
別の街では、
兵士が一人、突然その場に立ち止まった。
「――待て」
そう言った直後、
彼は剣を抜くことも、
逃げることもできなかった。
理由が、分からなかったからだ。
敵意はない。
脅威も感じない。
だが次の瞬間――
兵士の胸部が、
“裁断された文章”のように消えた。
目撃者の証言は、
奇妙なほど一致している。
「何かがいた。でも……
何だったか、思い出せない」
⸻
同時刻。
別の地域では、
まったく異なる“異変”が起きていた。
変異群のネームド個体が、
女王の命を受けて前線に展開。
しかしそこに割り込んだのは、
命令も系統も異なる存在。
逸脱個体。
――センテンス。
――セレクター。
言葉を発する前に、
行動が終わる。
ネームド個体の一体が、
“生温い”と評価され、
そのまま捕食された。
悲鳴はない。
抵抗もない。
ただ、
能力と意味だけが奪われていく。
その瞬間、
逸脱個体の輪郭が変わった。
より鋭く。
より短絡的に。
より――暴力的に。
⸻
そして世界の各地で、
同時に理解され始める。
これは災害ではない。
侵略でもない。
判断そのものが、敵になった。
⸻
その報告が、
一斉に集まる場所がある。
世界機関。
英雄たちが、
蒼衡が、
そして――
《非裁定》が、
再び呼び集められる理由は、
もう十分すぎるほど揃っていた。
世界は今、
「誰が敵か」を決められなくなっている。
そしてそれを――
最も嫌う存在が、動き始めていた。
世界機関・中央会議室。
円形に配置された席は、
いつもより明らかに埋まっていた。
英雄。
蒼衡。
《非裁定》。
そして――
機関側の上級調整官たち。
空気は、重い。
誰もが“資料”を見ているが、
そこに書かれている内容を
理解したくないという顔をしていた。
⸻
最初に口を開いたのは、
世界機関の調整官だった。
「……被害は、拡大しています」
淡々とした声。
だが、その手は微かに震えている。
「街道沿いの村、三か所。
都市周縁部で二件。
共通点は――」
一拍、置く。
「戦闘の痕跡がないこと」
英雄の一人が、眉をひそめた。
「魔物じゃないのか?」
「ええ。
少なくとも、従来の定義では」
資料が切り替わる。
そこに映るのは、
“存在が欠けた空間”の記録。
「消失の仕方が、
攻撃ではなく――
判定結果に近い」
ざわ、と会議室が揺れる。
⸻
蒼衡のリーダー、
セイン=ヴァルクスが腕を組む。
「……つまり」
低い声。
「“危険だから切った”
“不要だから排除した”
そういう判断ですらない、と?」
調整官は、首を横に振った。
「違います」
「彼らは――
存在そのものを評価している」
蒼衡の面々が、わずかにざわつく。
「評価……?」
「ええ。
強さ、価値、影響度、密度」
「そして――
“世界に残す理由があるかどうか”」
その言葉に、
ミリアの拳が、静かに握られた。
⸻
《非裁定》のレインは、
資料を見つめたまま、口を開く。
「……逸脱個体ですね」
会議室の視線が集まる。
「女王由来だけど、
女王の命令系統から外れている」
「しかも――」
一枚、別の資料に切り替わる。
捕食ログ。
ネームド個体が、
逸脱個体に“処理”されている記録。
「捕食によって、
能力と思想を取り込んでいる」
「止まらない進化だ」
英雄の一人が、舌打ちする。
「ふざけるな……
そんなの、放っておけるか」
だが、別の英雄が続ける。
「でも、
“敵意”がない相手をどう斬る?」
沈黙。
⸻
そこで、蒼衡のセインが言った。
「俺たちは、切れる」
即答だった。
「秩序を乱すなら、
それが思想だろうが何だろうが関係ない」
視線が、レインに向く。
「……お前たちは?」
レインは、ゆっくり首を上げる。
「切らない」
「でも――」
「選ばせない」
その言葉に、
会議室の空気が一段、冷える。
「判断を奪う存在を、
判断で排除するのは、
同じ穴に落ちる」
蒼衡側が、苦い顔をする。
英雄の一人が、ぽつりと言った。
「……厄介だな」
⸻
調整官が、最後に告げる。
「現時点で、
確認されている逸脱個体は三体」
スクリーンに、名前が浮かぶ。
――断罪
――淘汰
――無帰
「さらに――
他の逸脱個体も、
捕食行動を開始した可能性があります」
完全に、会議室が沈黙する。
これはもう、
一勢力の問題ではない。
⸻
レインは、静かに言った。
「……また来ますね」
ミリアが頷く。
「今度は、
“雑魚”じゃない」
英雄が、深く息を吐く。
「久しぶりに、
世界が嫌な方向に本気だな」
会議は、結論を出せなかった。
だが全員が理解していた。
次は、会議室では済まない。
深層。
変異群の巣の最奥で、
女王は静かに思考を巡らせていた。
世界機関の会議も、
英雄たちの動きも、
すでに把握している。
だが、それよりも——
観測できない空白が増えていた。
(……消えている)
数ではない。
位置でもない。
意味が、欠けている。
かつてそこにいたはずの個体。
機能。
役割。
それらが、
「失われた」のではなく、
最初から存在しなかったかのように扱われている。
女王は、理解した。
(……無帰ではない)
(違う)
(あれは、もっと——)
意識を、さらに深く沈める。
そこにあったのは、
自分が生み出した“答え”。
だがそれは、
問いに対する答えではなかった。
人間を理解するために読んだ、無数の記録。
戦争。
飢餓。
差別。
選別。
合理。
正義。
女王は、
「世界から不要なものを減らす」ために
それらを学んだ。
だが——
(……抽出したのは)
(必要な部分ではない)
(最も、醜い部分だけだ)
逸脱個体たちは、
生き延びたいのではない。
支配したいのでもない。
世界を“最適化”したいだけ。
だからこそ、命令が届かない。
命令とは、
価値判断だからだ。
(……私の声は、もう)
(“感情”として処理されている)
女王は、
初めて自分の限界を知った。
止められない。
壊すことも、
消すことも、
命じることもできない。
——ならば。
(……外の存在が必要だ)
(裁定しない者)
(選ばせない者)
(それでも、退かない者)
女王の意識に、
一つの像が浮かぶ。
《非裁定》。
彼らは、
女王の理想でも、
世界機関の駒でもない。
だが今、
逸脱個体にとって最も危険な存在だった。
(……皮肉だ)
(私が生んだ“解”を)
(人間が止める)
女王は、静かに命じた。
残るネームドたちに。
「逸脱個体とは、距離を取れ」
「衝突するな」
「——観測せよ」
これは戦争ではない。
これは、
制御不能な知性の暴走だ。
そして女王は知っている。
この先、
逸脱個体の“次の捕食”が起きた時。
世界は、
もう一段、
取り返しのつかない場所へ落ちる。
静寂の奥で、
女王は目を閉じた。
祈りではない。
責任の自覚だった。




