感情が消える音
依頼は、
どこにでもあるものだった。
街道沿いの小さな集落。
最近、人の動きが鈍い。
大きな被害はないが、念のため調査。
危険度は低。
報酬も、控えめ。
「……平和だね」
ミリアが、あくび混じりに言う。
「こういう依頼、
久しぶりじゃない?」
エルドが苦笑する。
「影の後だと、
拍子抜けするな」
レインは答えず、
集落の入口を見ていた。
家は並び、
人もいる。
子どもが走り、
商人が声を張り上げている。
――なのに。
(……何も、引っかからない)
《模写理解》が、
沈黙している。
違和感がない。
危険もない。
それが、
一番おかしかった。
「……ねえ」
ミリアが、足を止める。
「どうした?」
リュカが振り返る。
ミリアは、少し困ったような顔をしていた。
「……何も、感じない」
「え?」
「嫌だとか、
怖いとか」
「そういうのが、
全然ない」
レインが、静かに問い返す。
「それって、
いいことじゃない?」
ミリアは、首を振った。
「違う」
「私、
こういう場所だと」
「何かしら、
引っかかる」
剣の柄に、
無意識に触れる。
「でも、
今日は――」
言葉を探す。
「……空っぽ」
エルドが、周囲を見回す。
「確かに、
変だな」
「人はいるのに、
緊張がない」
「安心とも、
違う」
リュカが、低く呟く。
「……感情の起伏が、
均されてる」
その瞬間。
集落の奥、
広場の中央で、
一人の人間が立ち止まった。
老人だ。
杖を突き、
空を見上げたまま動かない。
「……おじいさん?」
誰かが声をかける。
返事は、ない。
心配そうに近づいた青年が、
肩に手を置いた――
次の瞬間。
老人は、
その場に崩れ落ちた。
悲鳴が、上がらない。
人々は集まるが、
叫ばない。
泣かない。
ただ、
立ち尽くす。
「……っ!」
ミリアが、思わず前に出る。
だが、
胸の奥が、妙に静かだ。
怒りが、湧かない。
焦りも、ない。
「……なに、これ」
レインの《模写理解》が、
ようやく反応する。
だが、
そこにあるのは
敵意でも殺意でもない。
(……感情遮断)
(……局所)
(……女王直属――)
一つの名前が、
演算結果に浮かぶ。
《沈黙》
レインが、低く告げる。
「……みんな」
「来てる」
ミリアは、
自分の胸に手を当てる。
鼓動はある。
意識も、はっきりしている。
なのに――
戦う理由が、湧いてこない。
「……嫌だ」
絞り出すように、呟く。
「これ、
すごく嫌なのに……」
感情が、
言葉に追いつかない。
広場の影で、
“何か”が動いた。
姿は、
はっきりと見えない。
だが、
そこに立つだけで、
場が静まる。
《沈黙》は、
前線に出た。
戦うためではない。
――人が、
何も感じなくなるかを
確認するために。
広場を包む空気は、
奇妙なほど穏やかだった。
悲鳴はない。
怒号もない。
ざわめきすら、薄い。
人が倒れたというのに、
場は“収束”している。
「……どいてください」
誰かが言う。
声は、丁寧だった。
だが、焦りも感情もない。
倒れた老人を囲む人々は、
指示を待つように動く。
「医者を……」
「いや、
もういいんじゃないか」
「でも、
何をすれば……」
言葉は交わされる。
だが、決断が生まれない。
ミリアは、歯を噛んだ。
(……違う)
(いつもなら、
飛び込んでる)
剣を抜く理由が、
胸の奥に見つからない。
怖い。
嫌だ。
そのはずなのに、
体が動かない。
「……ミリア」
レインが、異変に気づく。
「無理に、
前に出なくていい」
ミリアは、首を振る。
「違う」
「無理とかじゃなくて……」
拳を握る。
力は、入る。
意志も、ある。
だが――
衝動が、起きない。
《沈黙》は、
広場の縁に“立っていた”。
姿は曖昧。
輪郭は、霧に溶けるよう。
それでも、
そこに“何かいる”ことだけは分かる。
《感情遮断》。
空間そのものが、
感情の起伏を均している。
怒りは、尖らない。
恐怖は、拡散する。
嫌悪は、言語化される前に消える。
「……っ」
エルドが、一歩前に出た。
盾を構える。
「俺が行く」
「……理由は?」
リュカが、思わず問う。
エルドは、少し黙ってから答えた。
「分からん」
「でも、
立たないといけない気がする」
《沈黙》は、動かない。
代わりに、
周囲の人々が一斉に視線を逸らす。
エルドを、
“見ない”。
敵意でも拒絶でもない。
ただ――
関わらない。
「……なるほど」
リュカが、低く呟く。
「これ、
排除じゃない」
「孤立だ」
レインの《模写理解》が、
必死に解析を回す。
(……攻撃意図、なし)
(……殺意、なし)
(……排除対象は、
“感情を基点に行動する個体”)
ミリアが、はっとする。
「……私だ」
自分の直感が、
敵にとって“不要なもの”だと理解する。
《沈黙》は、
ミリアを見ていない。
いや――
最初から、対象としていない。
「……っざけんな」
声に、力が入らない。
怒りたい。
拒絶したい。
なのに、
胸が静かすぎる。
レインは、
一歩、前に出た。
剣も、魔力も構えない。
ただ、
場に“立つ”。
「……分かった」
静かに言う。
「君は、
感情を消せば
人は止まると思ってる」
《沈黙》が、
初めて反応した。
わずかに、
空気が歪む。
「……正しい」
音のない声。
言葉は、
直接頭に届く。
「感情は、
誤差だ」
「誤差があるから、
人は争う」
「だから――」
「消す」
レインは、否定しない。
「合理的だ」
その一言に、
ミリアが目を見開く。
「レイン……?」
「でも」
続ける。
「それは、
生きてる計算じゃない」
レインの演算が、
初めて“詰まり”を見せる。
感情を数値にできない。
だが、
切り捨てると何かが壊れる。
《沈黙》は、
それを理解していない。
理解する必要が、ないから。
「……次の段階へ移行」
《沈黙》の存在感が、
さらに薄れる。
《衝動無効》。
今度は――
行動そのものが鈍る。
「……まずい」
リュカが、歯を食いしばる。
「このままだと、
戦う前に――」
「動けなくなる」
ミリアは、
剣を強く握った。
感じない。
でも――
「……それでも」
絞り出すように言う。
「嫌なものは、
嫌だ」
その小さな感情が、
場に“歪み”を生んだ。
レインは、
その歪みを見逃さなかった。
(……感情は、
消えてない)
(……抑えられてるだけ)
(……なら)
演算が、
新しい前提を組み上げる。
「……行ける」
レインは、短く告げた。
「感情を、
取り戻す方法がある」
《沈黙》は、
初めて“警戒”を示した。
戦闘は、
ここから始まる。
世界は、
一瞬だけ止まったように見えた。
音が遠い。
色が薄い。
《沈黙》の存在感が、
さらに希薄になる。
それは、
“勝利条件に到達した”ことを示していた。
人々は動かない。
叫ばない。
誰も、逃げない。
――判断が、完全に鈍化している。
「……っ」
ミリアの指先が、わずかに震えた。
剣を握る力はある。
身体も、無事だ。
だが――
踏み出す理由が、見つからない。
《衝動無効》。
感情が生む“最初の一歩”を、
根こそぎ奪う力。
「……終わりだ」
《沈黙》の声が、
頭の中に直接落ちてくる。
「抵抗は、
不要」
「人間は、
これで安全になる」
その瞬間。
レインは、
一歩、前に出た。
剣も抜かない。
魔力も展開しない。
ただ、
“立った”。
「……違う」
静かな声。
《沈黙》が、
初めて明確に反応する。
「説明せよ」
レインは、
ゆっくりと言葉を選んだ。
「君の計算は、正しい」
「感情は、
確かに誤差だ」
「恐怖は暴走を生むし、
怒りは判断を歪める」
ミリアの視線が、
レインに向く。
「でも」
レインは、
そのまま続けた。
「感情がなければ、
人は“立てない”」
《沈黙》は、
理解を拒否しない。
拒否する理由がないからだ。
「立つ必要はない」
「最適化された状態では、
行動は不要」
レインは、
静かに首を振る。
「違う」
「行動しない世界は、
最適化じゃない」
「停止だ」
その言葉に、
ミリアの胸の奥で、
小さな“何か”が弾けた。
(……そうだ)
(動きたい)
(立ちたい)
理由は、
まだない。
でも――
嫌だ、という感覚だけは
確かに残っている。
《沈黙》が、
再度《感情遮断》を強める。
だが。
レインの《模写理解》が、
初めて“異常な数値”を吐き出した。
(……感情)
(……数値化不能)
(……誤差:無限)
「……組み込むしかない」
レインは、
小さく呟く。
「完璧な計算は、
ここでは失敗する」
《因果遮断》――
ではない。
因果を切らない。
無効化もしない。
レインは、
結果を変えないまま、前提を書き換えた。
《感情補正》。
――演算に、
“理由なき嫌悪”を組み込む。
その瞬間。
ミリアの胸に、
熱が戻った。
「……っ!」
息を吸う。
鼓動が、
一気に早まる。
怒りでも、
恐怖でもない。
ただ――
拒絶。
「……やっぱり」
剣を、
しっかりと構える。
「お前、
嫌い」
《沈黙》の空間が、
初めて揺らいだ。
「……不合理」
「理由が、存在しない」
「だからだよ」
ミリアは、
前に出る。
《踏越位》。
感情が、
距離を無視する。
《沈黙》は、
《衝動無効》を再展開しようとする。
だが――
間に合わない。
感情は、
計算より先に動く。
《断戦ライン・ブレイク》。
剣閃が、
“静かな空間”を切り裂いた。
《沈黙》の輪郭が、
初めて露わになる。
「……理解不能」
《沈黙》の声に、
微かなノイズ。
「誤差が、
勝因になるはずがない」
レインは、
はっきりと言い切った。
「誤差じゃない」
「それは――
生存条件だ」
次の瞬間。
エルドが、
前に立つ。
盾を、
地面に叩きつける。
「ここは、
人が立つ場所だ」
《沈黙》の存在が、
崩れ始める。
感情を消せば、
人は止まる。
だが――
一度取り戻した感情は、
もう消えない。
《沈黙》は、
後退を選ばなかった。
撤退という判断を、
持たないからだ。
だから――
破綻した。
霧が、
静かに晴れていく。
人々が、
息を吸い直す。
誰かが、
泣き出す。
誰かが、
怒鳴る。
感情が、
一気に戻ってくる。
《沈黙》は、
何も言わず、
崩れ落ちた。
完全な消滅ではない。
だが、
前線個体としての機能は失われた。
ミリアは、
剣を下ろす。
「……気持ち悪かった」
レインは、
深く息を吐いた。
「うん」
「でも――」
視線を、
遠くに向ける。
「女王は、
この結果も計算する」
リュカが、
静かに言った。
「次は、
もっと酷い手で来る」
エルドは、
盾を背負い直す。
「それでも、
立つ」
ミリアは、
少しだけ笑った。
「うん」
「嫌なものは、
嫌って言う」
裁かず。
退かず。
だが――
感情まで消される世界は、
絶対に選ばせない。
《非裁定》は、
女王にとって
**初めての“計算外”**となった。
そして。
巣の奥で、
女王は静かに思考を更新する。
「……修正が必要」
「感情を、
排除するだけでは足りない」
「ならば――」
「共存を拒否する個体を、
次に送る」
世界は、
さらに静かに、
次の段階へ進もうとしていた。




