女王は書を読む
静寂の底で、
紙をめくる音だけが響いていた。
巣の最奥。
肉と殻と骨で組み上げられた空間の中心に、
変異群の女王は座している。
巨大でもなければ、
禍々しくもない。
ただ――
過剰なほどに整った存在。
その前に積まれているのは、
人間の書物だった。
紙は黄ばみ、
角は擦り切れ、
ところどころに血と煤の痕が残る。
戦記。
年代記。
英雄譚。
「……ふむ」
女王は、文字を“読む”。
音にせず、
感情も挟まず、
ただ情報として。
――戦争。
――飢饉。
――粛清。
――革命。
同じ単語が、
何度も、何度も繰り返される。
「判断」
「選択」
「正義」
「犠牲」
ページを進めるたび、
同じ構造が浮かび上がる。
誰かが決める
誰かが従う
そして、
誰かが死ぬ
女王は、指先で一行をなぞった。
「英雄は、
必要悪である」
別の書には、こうある。
「英雄なき世界は、
混乱する」
女王は、ほんのわずか首を傾げる。
「……逆」
小さな声。
「英雄が必要な時点で、
世界は破綻している」
英雄とは、
判断を一極に集める装置。
判断とは、
迷いの総量。
迷いが多いから、
英雄が生まれる。
英雄が生まれるから、
他者は考えなくなる。
「……効率が悪い」
女王は、静かに結論づける。
「人間は、
判断を手放したがる」
「だが、
判断を手放した瞬間、
責任を他者に押し付ける」
次のページ。
処刑の記録。
粛清の理由。
“必要だった”という言葉。
「判断が、
暴力を正当化する」
女王の視線が、
ゆっくりと上がる。
巣の壁に、
無数の情報が脈動している。
村。
街。
国。
迷い。
停滞。
先送り。
「……理解した」
女王は、書を閉じた。
「この世界は、
これを必要としていない」
戦争も。
英雄も。
裁定も。
「必要なのは――」
一拍。
「迷わない管理」
女王の意識が、
巣全体に行き渡る。
直属個体たちが、
静かに応答する。
《観測》
《遮断》
《代替》
《変転》
「次は、
“殺すため”ではない」
「迷わせないために、
配置しなさい」
「人間が、
判断する前に」
女王は、最後に一言だけ告げる。
「――排除する」
その頃。
まだ誰も、
この結論を知らない。
だが世界は、
すでに一歩、
取り返しのつかない方向へ
進み始めていた。
女王の命は、
言葉ではなく“状態”として伝わった。
巣の各層で、
変異群のネームド個体たちが動き始める。
争わない。
競わない。
命令に疑問を挟まない。
それが、
この群体の完成形だった。
最初に反応したのは――
《観測》。
視界は無数。
人の街、村、街道、広場。
英雄が立つ場所。
裁定が行われた跡。
“決断が集中した地点”。
それらを、
危険度ではなく
**「判断依存度」**で分類する。
「……集中率、高」
《観測》は、
一つの都市を候補から外す。
英雄が多すぎる。
判断が一極化している。
「……非効率」
次に、《遮断》が応答する。
魔力ではない。
結界でもない。
“行動選択の流れ”を、
局所的に止める準備。
「……先送り可能領域、複数」
《遮断》は、
村と村の間。
街道の分岐点。
「どちらへ行くか迷う場所」を選ぶ。
《代替》は、
それらの情報を受け取り、
静かに配置を再構築する。
「人は、
選択肢が多いほど
動けなくなる」
それを、
“模倣”ではなく
設計として実行する。
最後に――
《変転》。
戦闘用個体。
だが、
今回は前線に出ない。
骨格を変え、
感覚器を減らす。
威圧を捨て、
存在感を薄める。
「……人は、
敵意が見えない方を恐れる」
変転は、
“雑魚個体と見分けがつかない形”に落ち着いた。
女王の意識が、
再び巣に満ちる。
「目的を忘れるな」
「これは、
戦争ではない」
「人間は、
自ら選ばなくなるまで
追い込めばいい」
英雄を倒す必要はない。
街を壊す必要もない。
ただ――
判断を、奪う。
その頃。
遠く離れた街道で、
《非裁定》は
まだ、この動きを知らない。
だが、
レインの《模写理解》は
微かに“方向”を捉え始めていた。
(……同じだ)
(村で感じた違和感)
(数が、増えている)
ミリアが、
何気なく呟く。
「ねえ」
「最近さ……」
「“嫌な静けさ”、
多くない?」
レインは、即答しなかった。
だが、
その沈黙が答えだった。
変異群は、
すでに前線に出ている。
戦うためではなく。
人間が戦わなくなるために。
異変は、
事件としては成立していなかった。
被害は少ない。
魔物の死体も、
戦闘の痕跡も、
派手な破壊もない。
だから――
報告は、後回しにされる。
《非裁定》が異常を察知したのは、
“数字にならない部分”だった。
「……人の流れが、変だ」
リュカが、地図を指でなぞる。
「街道の利用率は落ちてない」
「でも、
分岐点での滞留時間が伸びてる」
「決められずに、
立ち止まる人が増えてる」
エルドが、低く唸る。
「戦闘じゃないな」
「恐怖でもない」
「……迷いだ」
ミリアは、腕を組んだまま、黙っている。
視線は、街の入口。
人々が行き交い、
立ち止まり、
また歩き出す。
だが、その動きには
芯がない。
「……やっぱり」
ぽつりと、言う。
「嫌い」
レインが、横を見る。
「まだ?」
「うん」
即答だった。
「理由、分かんない」
「でも、
これ――」
ミリアは、足元の石畳を見つめる。
「戦う前に、
人をダメにするやつだ」
レインの《模写理解》が、
微かに反応する。
対象は、見えない。
だが、
“配置された意思”がある。
(……遮断)
(……代替)
(……観測)
(……女王)
初めて、
“中心”という概念が浮かび上がる。
「……なるほど」
レインは、静かに息を吐いた。
「これは、
敵じゃない」
「思想だ」
リュカが、眉を上げる。
「思想?」
「うん」
「人が、
判断すること自体を
無駄だと切り捨ててる」
エルドが、盾を握る。
「それは……」
「否定されてるな」
ミリアは、歯を噛んだ。
「ふざけんな」
「迷うのは、
生きてるからでしょ」
「決めるのが怖いのも、
間違えるのも」
一歩、前に出る。
「それを、
“効率悪い”で済ませるのは――」
剣を、抜かない。
だが、
はっきりと言い切る。
「私は、
許さない」
その言葉に、
場が引き締まる。
レインは、全員を見渡した。
「裁けない」
「でも」
「放っておけない」
それが、
《非裁定》の立ち位置。
英雄のように、
世界を背負わない。
蒼衡のように、
切り捨てもしない。
ただ、
迷うことを奪わせない。
遠く。
巣の奥で、
女王は新たな反応を受け取る。
――拒絶。
――理屈ではなく、感情。
女王は、ほんの僅か、思考を修正した。
「……想定外」
「感情を、
切り捨てきれない個体」
「――優先排除対象」
世界は、まだ静かだ。
だが、
次に動くのは
“仕込み”ではない。
判断を壊すための個体が、
前線へ送られる。
ミリアは、何も知らないまま、
ただ一言、呟いた。
「……次は、来る」
レインは、頷く。
「うん」
「今度は、
ちゃんと“立つ”相手だ」
裁かず。
退かず。
だが――
迷う自由だけは、
奪わせない。
《非裁定》は、
静かに次の戦場へ向かう。




