世界を不要と断じたもの
その場所に、名前はなかった。
地図に記される以前に、
人が立ち入ることをやめた地下遺構。
かつて都市の基礎だった空洞は、
今や「巣」と呼ぶ以外にない形へ変わっていた。
――変異群。
無数の個体が、脈動する壁面に沿って静止している。
眠っているわけではない。
待っているわけでもない。
ただ、存在している。
その中心。
他の個体より一回り大きく、
異様なまでに整った輪郭を持つ存在が、
石造りの台座に腰を下ろしていた。
女王個体。
だが、そこにあるのは
本能的な支配者の威圧ではない。
静かな――
思考の気配だった。
女王の前には、一冊の本が置かれている。
紙は古く、文字はかすれている。
だが、内容だけは鮮烈だった。
戦争。
飢饉。
支配と反乱。
正義と正義の殺し合い。
人間の歴史書。
女王は、ゆっくりとページをめくる。
理解している。
比喩ではなく、完全に。
「……繰り返している」
声は低く、感情を伴わない。
「判断し、
選び、
間違え、
正当化し、
殺す」
ページを閉じる。
「世界は、
これを必要としていない」
その言葉に呼応するように、
周囲の変異群が一斉に動いた。
だが、騒がしくはない。
咆哮も、興奮もない。
秩序だった反応。
女王の背後に、
五体のネームド個体が姿を現す。
まず一体。
巨大な外殻を持ち、
空間そのものに重さを与える存在。
定着個体《錨定》
――能力《存在定着》。
次に、
複数の眼を持ち、
常に周囲を記録し続ける細身の個体。
観測個体《観測》
――能力《情動記録》。
影のように揺らぎ、
位置が定まらない存在が一体。
代替個体《代替》
――能力《戦術置換》。
さらに、
周囲の音と魔力を削ぎ落とすような沈黙を纏う個体。
遮断個体《遮断》
――能力《戦場遮断》。
最後に、
常に形状が変化し続ける、不定形の個体。
進化個体《変転》
――能力《自己再構築》。
女王は、彼らを見回した。
「人間は、
世界を“選ぶ”ことで
破壊してきた」
「ならば――」
静かに、結論を告げる。
「選ばせなければいい」
「判断を、
歴史を、
必要としない世界へ」
女王は立ち上がる。
「人間は、
排除対象とする」
命令ではない。
宣言でもない。
ただの方針だった。
変異群は、一斉に動き出す。
まだ、侵攻ではない。
まだ、戦争ではない。
だが確かに――
世界は、新しい捕食者に
見られ始めていた。
そのことを、
人間たちはまだ、知らない。
その村は、地図の端にようやく名前が載る程度の場所だった。
街道から外れ、
魔物被害も少なく、
冒険者が立ち寄る理由もない。
――だから、選ばれた。
夜明け前。
霧が低く垂れ込める中、
村の外れの牧草地に“それ”は現れた。
角も牙もない。
獣に似ているが、どこか違う。
変異群・雑魚個体。
本来なら、
群れで動き、
本能のままに襲うだけの存在。
だが――
今回は違った。
個体は、村を見下ろす丘で立ち止まる。
動かない。
吠えない。
ただ、観察している。
村の中では、
人々が目を覚まし始めていた。
「……なんだ、あれ」
見張り役の青年が、霧の向こうに影を見つける。
武器を取るべきか。
鐘を鳴らすべきか。
――判断が、遅れる。
「魔物……か?」
「いや、近づいてこないぞ」
「様子を見よう」
その一言が、
致命的だった。
変異群は、
“逃げない人間”を記録する。
“判断を先送りにする集団”を、
成功例として刻む。
やがて、個体が一歩、前に出た。
走らない。
跳ばない。
歩く。
まるで――
怖がらせる必要がないと知っているかのように。
「……来るぞ!」
誰かが叫ぶ。
だが、叫びは遅い。
個体は、
村の柵を越え、
最初の家の前で止まった。
扉を、壊さない。
ただ、触れる。
次の瞬間。
木製の扉が、
内側から崩れ落ちた。
力ではない。
魔力でもない。
構造を理解した上での破壊。
中にいた男が、
悲鳴を上げる間もなく――
霧が、赤く染まる。
変異群は、
人を食らった。
初めてではない。
だが今回は――
意味を理解した上で。
数分後。
個体は、再び丘の上に戻っていた。
血に濡れた口元を拭うこともなく、
ただ、静かに立つ。
そして、
体表の一部が変化した。
骨格が、わずかに再編され、
視覚器官が増える。
――適応。
「……記録、完了」
巣の奥深く。
女王は、その情報を受け取る。
人間は、
恐怖よりも先に、
判断を迷う。
集団になればなるほど、
責任を分散し、
決断を遅らせる。
「……効率がいい」
女王は、淡々と結論づける。
「この方法で、
十分に削れる」
「英雄も、
裁定者も不要」
「これは――」
「狩りではない」
静かに、告げる。
「管理だ」
その頃。
まだ誰も、
この村で起きたことを
正確には知らなかった。
報告は、遅れる。
判断は、さらに遅れる。
そして世界は、
“静かに始まった脅威”に
一歩、近づいていた。
異変の報告は、噂として届いた。
「牧草地の村で、
魔物被害があったらしい」
「でも、生存者の話が曖昧で……」
「襲われたっていうより、
“いつの間にか死んでた”って」
冒険者ギルドの受付で、
そんな会話が交わされているのを、
レインは黙って聞いていた。
《非裁定》の四人は、
掲示板の前に立っている。
依頼内容は、簡素だった。
【調査】
北西部・小規模村落
原因不明の死亡事案
危険度:低〜中
「……軽いね」
ミリアが言う。
「軽すぎて、逆に嫌なやつ」
「同感」
リュカも頷く。
「被害報告の文面が、
“決断を避けている”」
「判断できない文章だ」
エルドは、盾を背負い直す。
「行くなら、今だな」
「放っておくと、
被害の“形”が定着する」
レインは、短く頷いた。
「行こう」
⸻
村に近づくにつれて、
空気が変わった。
戦闘の痕跡はない。
破壊も、派手な血痕もない。
だが――
音がない。
「……静かすぎる」
ミリアが、自然と声を落とす。
「昼なのに、
家畜の声もしない」
《戦域把握》を広げたリュカが、眉をひそめる。
「……敵意反応、なし」
「魔力反応も、
戦闘クラスじゃない」
「なのに」
視線を、村の中央へ向ける。
「……生活反応が、薄い」
広場には、
数人の村人がいた。
立っている。
歩いている者もいる。
だが――
動きが、遅い。
何かをしようとして、
途中で止まる。
話しかけても、
返事が一拍遅れる。
「……これ」
ミリアが、小さく呟いた。
「嫌だ」
理由は、出てこない。
魔物だから嫌、
被害があるから嫌――
そういう理屈ではない。
もっと根源的な、
拒絶。
レインは、《模写理解》を起動する。
反応は、弱い。
だが確かに、
“何か”が残っている。
(……判断剥奪)
(微弱)
(群体型)
(でも……)
眉が、僅かに動く。
(……戦う前提じゃない)
その時。
村の外れ、
壊れた柵の向こうで、
影が動いた。
ミリアは、反射的に前に出る。
《踏越位》
だが――
剣は、振るわれなかった。
現れたのは、
角も牙もない、
異様に“落ち着いた”魔物。
変異群・雑魚個体。
威嚇しない。
襲ってこない。
ただ、
こちらを見ている。
「……なに、あれ」
ミリアの声が、低くなる。
レインは、即座に演算する。
(……戦闘力、低)
(単体なら、脅威じゃない)
(でも――)
違和感が、消えない。
「エルド」
「任せろ」
盾を構え、
前に出る。
変異群は、
逃げなかった。
エルドの盾に、
軽く触れる。
――次の瞬間。
ミリアが、叫んだ。
「離れて!」
エルドが、即座に後退。
レインが、間に入る。
《因果遮断》
“接触の結果”だけが、切り取られる。
変異群は、
抵抗もなく崩れ落ちた。
――あっけない。
戦闘は、
数秒で終わった。
「……弱い」
リュカが、困惑したように言う。
「なのに」
ミリアは、剣を下ろしたまま、動かない。
視線は、倒れた個体に向いている。
「……嫌だ」
再び、同じ言葉。
レインが、そっと聞く。
「何が?」
ミリアは、少し考えてから、首を振った。
「分かんない」
「でも」
一拍置く。
「こいつ、
“戦うため”に来てない」
「……そうだね」
レインは、静かに答える。
「これは、
試しだ」
「人間が、
どこまで迷うか」
《模写理解》が、
初めて“方向”を示す。
遠く。
とても遠く。
だが確かに――
統率する意思。
「……始まってる」
リュカが、息を吐く。
エルドは、盾を強く握った。
「今までの敵とは、
違うな」
ミリアは、レインを見る。
「ねえ」
「こいつら」
少しだけ、声を落として。
「……止められる?」
レインは、即答しなかった。
だが、視線を逸らさない。
「止めるよ」
「裁かずに」
「退かずに」
ミリアは、少しだけ笑った。
「それなら、いい」
村を出る時。
誰も、
自分たちが救われたとは
気づいていなかった。
だが確かに、
“選ばせる前の段階”は
断ち切られた。
その頃。
巣の奥で、
女王は新たな記録を受け取っていた。
――人間の中に、
“迷わず立つ個体”がいる。
女王は、静かに思考する。
「……調整が、必要」
次に送り出すのは、
雑魚ではない。
判断を、
壊すための存在。
変異群は、
次の段階へ進んだ。




