止まるために、生まれたもの
光はなかった。
だが、闇とも違う。
地の奥深く――変異群の巣は、音もなく“脈打って”いた。
湿り気を含んだ壁面。
骨とも菌糸ともつかない構造。
その中心に、ひとつ。
卵があった。
大きいわけではない。
派手でもない。
ただ、周囲の変異群が無意識に距離を取っている。
近づけばいいのに、近づけない。
触れればいいのに、触れない。
――まるで、“判断を先送り”するように。
卵の表面が、ひび割れた。
ぱき、と乾いた音。
それだけが、この巣の最奥で不自然に響く。
割れる。
粘液が広がる。
中から現れたのは――幼体。
だが、それは泣かない。
鳴き声も上げない。
体を震わせることすらしない。
ただ、目だけが動いた。
周囲の個体を見た。
巣の壁を見た。
空気の流れを見た。
距離と数を“並べ替える”ように。
(……数)
(……距離)
(……止まっている個体が多い)
言葉ではない。
だが、“理解”だけがあった。
そのとき、巣の奥へ一体が戻ってくる。
体表に血が付いていた。
乾きかけた、赤黒い色。
人間のものだ。
だが、肉は少ない。
ほとんど食っていない。
――それでも、十分だった。
幼体は、血の匂いを嗅ぐのではなく、
その付着の“結果”を読む。
どこから来たのか。
何が起きたのか。
なぜ戻ってきたのか。
(……これは)
(……効率が悪い)
(殺す必要はない)
(追う必要もない)
(迷わせれば、止まる)
巣の空気が、わずかに変わった。
周囲の変異群が、焦れたように動く。
指示を待っているわけではない。
ただ、何かが“生まれた”ことを本能で理解している。
幼体は、命令を発さない。
声もない。
詠唱もない。
威圧もない。
ただ、その場にいるだけで、周囲の個体の挙動が揃い始める。
壊さない。
追わない。
囲む。
攻撃ではない。
捕食でもない。
“選ばせる”ための配置。
幼体は、満足もしない。
喜びもしない。
ただ、確信する。
(……これは)
(食事ではない)
(配置だ)
巣の奥で、
“女王”と呼ばれるものが――静かに生まれていた。
世界機関・中央観測局。
窓はない。
だが、外の状況はすべてここに集まる。
魔導投影に映し出されるのは、
数値でも戦況図でもない。
空白だった。
「……被害件数は?」
統括補佐の問いに、分析官が即答する。
「減少しています」
「死者数は?」
「同様に」
「では問題は?」
一拍。
「“回復”が起きていません」
投影が切り替わる。
村落。
集落。
交易路の分岐点。
どれも共通している。
壊れていない。
焼かれていない。
奪われてもいない。
それでも――
人が戻らない。
「避難解除は?」
「完了しています」
「支援物資は?」
「届いています」
「治安部隊は?」
「駐留済みです」
それでも、
空白は埋まらない。
別の分析官が、低く言った。
「……判断が、戻らないんです」
「何をしていいか分からない」
「戻る理由が、見つからない」
「誰かが決めてくれるのを待っている」
統括官が、椅子に深く腰掛ける。
「……つまり」
「敵は、何をした?」
沈黙。
やがて、分析官が答える。
「何も、していません」
「正確には」
「“決めさせない状態”を置いていった」
資料が投影される。
変異群の討伐報告。
すべてが、既知の雑魚個体。
知性反応なし。
指揮系統なし。
特異能力なし。
「……なら偶然だ」
誰かが言う。
「いいえ」
分析官は、首を振る。
「配置が一致しすぎています」
「蒼衡の切断線を避け」
「英雄の即応圏を外し」
「非裁定が来なければ、
“止まったまま”になる位置」
統括官が、目を細める。
「……非裁定か」
名を出しただけで、室内の空気がわずかに変わる。
「彼らは、どう処理した?」
「討伐数は最小」
「被害はゼロ」
「復旧は――」
一拍。
「始まっています」
沈黙が落ちる。
「……同じ雑魚個体なのに?」
「はい」
「違いは?」
分析官は、短く答えた。
「“人が動いた”かどうかです」
統括官は、ゆっくりと息を吐いた。
「……敵は」
低い声。
「戦う気がない」
「支配する気もない」
「ただ――」
言葉を選ぶ。
「世界を、止めに来ている」
誰も反論しなかった。
英雄の火力では測れない。
蒼衡の裁断では切れない。
そして――
世界機関の規則でも、定義できない。
統括官は、最後に一言だけ記録に残させた。
《変異群行動変化:
指揮個体未確認。
知性は断定不可。
だが、意図は明確。
――判断阻害型。》
報告は、そこで止まった。
だが誰もが理解していた。
これは前兆だ。
“女王”という言葉を、
まだ誰も使っていないだけで。
巣は、変わらず静かだった。
争いはない。
奪い合いもない。
命令も、号令も存在しない。
だが――
揃っていた。
変異群たちは、
まるで“待っている”かのように動かない。
巣の最奥。
生まれたばかりの存在は、
座るでも、伏せるでもなく、
ただそこに在った。
呼吸は浅い。
脈動は微か。
それでも、
巣全体の流れが“そこ”を中心に整っている。
一体の変異群が、外から戻る。
体表に、わずかな血。
人間のもの。
だが、肉はない。
殺していない。
追っていない。
ただ、近づき、
迷わせただけだ。
女王は、それを“見る”。
匂いではない。
味でもない。
残っているのは――
判断の痕跡。
逃げるか。
留まるか。
助けるか。
見捨てるか。
その一瞬の停滞。
女王は、理解する。
(……これが)
(人間が、止まる理由)
周囲の変異群が、自然と同じ挙動を取り始める。
囲む。
遮る。
立つ。
壊さない。
殺さない。
奪わない。
“選択肢”だけを減らしていく。
女王は、命令を出さない。
それでも、
巣全体が同じ方向を向く。
(……戦う必要はない)
(……支配する必要もない)
(……ただ)
(止めればいい)
遠く。
人間の世界では、
会議が開かれ、
報告が積まれ、
名前のない異変が議題に上がる。
だが、
そのすべては“後追い”だ。
女王は、すでに次を見ている。
人が最も迷う場所。
決断を委ねたくなる瞬間。
そして――
**非裁定**という存在。
女王は、まだそれを“敵”とは認識しない。
ただ、
“止まらなかった個体”として
記録する。
巣の奥で、
静かに。
世界が、
次に止まる場所を選びながら。




