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高校教師とお嬢様のダンス

 

 ナイフは岩井の腹部に刺さった。確かに松本の角度からはそう見えた。

 

 現に岩井は体を折って、左手で刺された部分を押さえている。しかし刺されたにしては、うめき声もなにも彼の口から漏れていない。声もあげられないほどの痛みなのだろうか。松本は立ち上がり、突然の暴行に及んだ久世との距離を取り、そこで気が付いた。

 

 岩井は刺されていなかった。ナイフの切っ先が腹部に届く寸前に、岩井の左手は久世の手首を掴んでいた。

 

 「いやあ、危ない危ない。ちょうど腎臓あたりをずぶっとやられるところでしたよ。健康診断で異常が出ないように普段の食生活には気を付けてるんですから、僕の健康な体を傷つけるのはやめてくださいな」

 

 ナイフを持っていないほうの手で久世が岩井を押しのけようとしたが、びくともしない。二人の歳の差は約三十で、岩井の歳なら普通は体力も衰えているころだ。娘ほどの若い女性相手では、いくら男女の力の差があろうとも分が悪いはずだが…。

 

 「そう暴れなさんなって。まずはその物騒なモノをこちらへ」

 

 岩井が久世の手首を捻る。

 

 「ううっ!」

 

 久世が苦痛に顔を歪め、ナイフを取り落とした。

 

 靴の先でナイフを手繰り寄せて、岩井はそれを踏みつける。刃と柄の部分が分離し、ナイフは使い物にならなくなった。

 

 武器を失った久世だが、まだ抵抗の意思は消えていない。ヒールの踵で岩井のつま先を踏もうと足を振り上げては床に叩きつけている。岩井はそれを最小限の動きでかわしており、それが妙にリズミカルなせいで二人が社交ダンスを踊っているように見えてきた。

 

 「これ、私たちが止めたほうがいいんですかね?」

 

 突然の出来事にも眉一つ動かさず、事態を静観していた北村に問う。

 

 「久世さんはどうも混乱されているようです。今は何を言っても無駄。ここは岩井さんにお任せしましょう」

 

 「じゃあそうしますか。下手に手を出して事をややこしくするのも嫌ですし」

 

 松本と北村は安全圏から見守ることにした。

 

 「放して!放せ!」

 

 久世の言葉遣いはもはやお嬢様のそれではなくなっている。額に浮き出た青筋が、陶器のように白い肌のせいで余計に際立って見えた。

 

 「埒があきませんな。こうなったらしょうがない。ちょいと失礼しますよっと」

 

 岩井が柔道技の容量で足をかけて久世を転ばせた。

 

 「ひっ!」

 

 久世は後頭部から大理石の床へ落ちていく。片腕を岩井に捉えられているので受け身も取れない。打ちどころが悪ければ大けがだ。

 

 「あらよっと!」

 

 岩井が手首ごと久世の腕を引っ張り上げたおかげで体勢が変わり、大惨事は避けられた。久世は床に尻もちをつく形になり、ぺたんと床に座る姿はまるでお人形さんだ。先ほどまで荒ぶっていた人間とは思えない。

 

 完全に主導権を握られたことで、久世はいくらか落ち着きを取り戻した様子だ。しばらく肩で息をしていたが、徐々に口呼吸へ、そして鼻呼吸へと戻っていった。

 

 北村のいう通り、岩井に任せて正解だった。久世に危害を加えることなく、スマートに事を収めてくれた。初老の高校教師の動きではなく、彼もまた殺しの世界に身を置いているということが松本にも分かった。

 

 

 「落ち着きましたか、久世さん」

 

 椅子に座らされた久世は、給仕係の女性に持ってこさせた水を飲んでこくりと頷いた。先ほどの出来事を執事は関知していないようで助かった。場合によっては、主人にセクハラと軽い暴行を働いた岩井が粛清される可能性もあったからだ。

 

 「しかし驚きましたな。どうして急に僕を刺そうとしたんです?」

 

 「セクハラしたせいじゃないですか」

 

 松本が口を挟むと、岩井は誤魔化すように笑った。その件についてはこれでおしまい、と言いたげだ。

 

 「いきなり触られそうになって気持ち悪かったのは認めます」

 

 「えっ」岩井が固まる。

 

 「でも岩井さんを殺そうとしたのは、それが理由じゃありません。でもひどいのは岩井さんじゃないですか」

 

 「なにを言うんですか。セクハラのほうじゃないなら、一体なにが原因だと」

 

 「だって…、だって…」

 

 久世が上目遣いで岩井を睨む。

 

 「殺してくれないんでしょう?私の執事を!」

 

 またボルテージが上がりそうなので、松本が間に入ってなだめる。

 

 「そのお話、もう少し詳しく聞かせてくれませんか。執事を殺すって結局どういうことなんです?」

 

 こういう時は同じ女性が寄り添ったほうが効果的だ。ひとまず岩井には退いてもらおうと、目線で下がれと合図を送った。岩井はぺろりと舌を出しておどけた表情を作り、大人しく自分の席に着いた。

 

 「私が殺し屋の皆さんを集めたのは、あの執事に対抗できる唯一の勢力だと思ったからです。お三方、いえ、一人消えたのも含めると四名ですが、皆さんの経歴を拝見しました。確かな殺しの実績をお持ちの方だけを集めたんです。みんなでかかれば、あの執事を殺すことが出来る。そう考えたんですよ」

 

 「問題はなぜ殺す必要があるか、なんです。私は殺し屋ですから、頼まれれば人を殺します。よっぽど条件が悪くない限り、基本的にお仕事は断りません。ですが不可解なのは、久世さんに仕えるはずの執事を殺害するという、その動機ですよ」

 

 岩井が「うんうん」と頷く。

 

 久世がうるんだ瞳で、まっすぐに松本を見つめてくる。思わず吸い込まれそうになる美しさだが、吸い込まれている場合ではない。

 

 「なぜです?なぜ私たちに殺させようとするんですか」

 

 松本の問いに、久世はこう答えた。

 

 「あの男は、私の父を殺したんです」

 

 久世はぽつぽつと語り始めた。

 

 静まり返った食堂に、久世の過去が渦巻き始めた。

 


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