とんだ大豪邸
松本の契約している1LDKのアパートは、変形地に建てられたせいで、随分と縦長の構造になっている。専有面積自体は普通のアパートよりも少々広い程度だが、その構造のせいで、部屋間の移動距離が無駄に長い。夜中に喉が渇いて台所に水を飲みに行こうとしても、起き上がって冷蔵庫までたどり着くまでに必要な距離を考えると、やっぱりいいや、と目を閉じてしまう。
自分ならばここには絶対に住めないな。松本は屋敷の廊下を歩きながら、そう思った。
部屋間の移動距離が何メートルあるのか分からない。寝室から台所まで、もしかしたら徒歩5分はかかるのではないだろうか。大げさではなく、そう感じるほどに案内された屋敷は広大だった。
まず玄関の門から屋敷の入口まで、両脇を植え込みと彫像に囲まれた道を歩かされたのだが、優に50メートルはあった気がする。中学校時代は足が速いほうだったので、8秒もあれば完走できた距離だろう。しかし大人になってから改めて歩いてみると、案外50メートルというのは長く感じた。
執事の後ろをついて屋敷の中に入った後も、その内装に圧倒された。
長い廊下の先には大きな窓があり、そこからは屋敷の奥の庭の様子が見て取れた。きっちりと整えられた生垣と、色とりどりの花たち。きっと専属の庭師が、毎日丁寧に面倒を見ているのだろう。
松本は生き物を育てるのが苦手だ。比較的簡単に育てられると聞き、去年の夏に栽培セットを購入したサニーレタスは、知らない間に枯らしてしまっていた。増えすぎたからという理由で友人から譲り受けたハムスターも、ある朝突然冷たくなっていた。寿命が短いとは聞いていたが、飼い始めて2か月くらいだったので、おそらく寿命は関係ないだろう。
自分には庭の手入れなんて無理だなと、窓越しに見える庭を眺めながら思う。
洋館というと、中に入って最初に巨大な階段が出迎えてくれるイメージだったが、この屋敷の階段は控えめなサイズだった。映画などで見るたびに思っていた。あれほど無駄なスペースの使い方もないだろうと。まあ一般的なアパートなどと違い、機能性よりもデザイン性を重視した造りなので、その無駄もまた美しさなのかもしれないが。
大理石の廊下に、カツカツという自分の足音が響く。
殺しの時は動きやすいスニーカー。会社員の時はオフィススーツに合わせた安物のパンプスを履いているが、履物は今日のために新調しておいた。友人の結婚式くらいまでなら、ギリギリいつものパンプスで行ったかもしれない。しかし久世詩織からの招待状に書かれた住所をネットで検索し、屋敷の外観を見たときに、すぐに服も靴も新調しないといけないと感じた。
近所のショッピングモールに入っている店ではいけない。モールの中で一番高級なアパレルショップの、最も値段が高い商品でも、せいぜい会社員としての月給の四分の一程度だ。安物だと見抜かれては、久世詩織からなんと思われるか分かったものではない。
あれから久世詩織についてもネットで調べた。いわゆる資産家の家庭らしい。
資産家という言葉は必ずしも富豪を指すわけではなく、要するに資産を賢く運用していることが資産家の条件らしいのだが、久世詩織の家系はまぎれもなく富豪のタイプの資産家だった。
久世詩織は齢二十七の、うら若きご令嬢といったところだが、久世家の当主であるらしい。莫大な資産を築いた先代が亡くなったのか、存命しているが娘に当主の座を譲ったのかは、ネットに確かな情報が無かった。一般的な相続よりも複雑な仕組みが存在してそうだし、誰が当主であろうと富豪であることには変わりが無いので、松本はそれ以上調べるのをやめた。
ネットには久世詩織の写真も、数枚ではあるがアップされていた。SNSに自撮りを上げているわけではなく、何かの式典やパーティーの際に撮影されたものらしい。翡翠色のドレスがよく似合う女性で、二十七とは思えない大人びた優雅な雰囲気を纏っていた。
松本は今年二十八になるので、久世詩織は一つ下になる。だが年下には到底思えないような風貌に、パソコン画面越しでさえ圧倒された。
富豪の娘といえば勝手に美人をイメージしてしまうが、やはり現実もそうらしい。それはそうかと松本は考えた。きらびやかな世界にはきらびやかな人間しか似合わない。だって想像したら笑えるだろう。シャンデリアの光に照らされながら、平均以下の容姿の女性が恭しい態度で出てくるなど。
美しい世界に住む人間は、幼いころから身分に相応しい容姿になるように育てられるのだろう。
松本の前を歩く執事の足が止まった。
「こちらが食堂でございます」
板チョコのような色と凹凸のついた扉を、執事はゆっくりと開けた。
純白のテーブルクロスが敷かれた長机には、左右に二つずつ、合計四人分の椅子が並べられていた。テーブルの上には燭台が置かれており、ゆらゆらと黄金色の炎が揺れている。
壁にかけられた絵画は、おそらく著名な画家によるものなのだろう。ネットで見た久世詩織のように、鮮やかな翡翠色のドレスに身を包んだ女性が、鍔の長いハットを片手で押さえながら、明後日の方向を向いている。パステル調のパリッとした色彩は、見方を変えれば2000年代初頭の3Dポリゴンみたいな質感にも思えた。
「こちらへどうぞ、松本様」
執事が手前右側の椅子を引いた。随分と背もたれの高い椅子だ。
「あっ、どうもすいません」
腰を下ろしてみると、見た目より座り心地は悪くなかった。座面の部分がビロード生地になっており、肌にフィットするような感触だ。
まだテーブルには、松本の他に誰も着いていなかった。どうやら気合を入れて早く来すぎたらしい。暖炉の上に掛けられた時計は、午前十一時四十分を指している。約束の時間は正午だ。
これが取引先への訪問なら、早すぎると先方に怒られるかもしれない。昼の仕事は事務職なので、客先に伺うような業務はないが、来客対応は松本の仕事だ。約束の時間の五分前に来る人が多く、それは五分前行動を義務付けられている社会人として当たり前なのだが、たまに三十分以上前に来る者もいる。こちらの予定が狂うので勘弁願いたいと、常日頃から思っていたが、今それと同じことをしてしまっている。二十分前だろうが三十分前だろうが大差などない。五分前以外は迷惑なのだ。
きっと執事も上品な笑みを浮かべているが、内心では松本を毒づいていることだろう。
そう考えると居たたまれない気分になり、早く他の招待客が到着しないかと、意味もなく食堂を見回して過ごした。
二人目が到着したのは、午前十一時五十分のことだった。
「いやはや、ご立派な屋敷ですな。生まれてこの方、こんな家に招待されたのは初めてですよ!コートはどちらにかければよろしいかな?」
白髪交じりのくせ毛に銀縁の眼鏡。初老っぽい男性だが、その割には声があまりに明るく、快活な雰囲気だ。背筋も綺麗に伸びており、ストライプ柄のスーツを着こなしている。ただネクタイのセンスだけは頂けない。なんだあの眩しいほどの金色は。スーツとも合っていないし、首元だけ下手な合成のように見える。
男は松本の対面に座った。
「どうもどうも、お嬢さん。僕は岩井と申します。名刺をちょうど切らしてて申し訳ないんですが、まあ仕事は見ての通りのことをやっとりますよ」
「バーテンダー、とかですか?」
「ええっ、そんな格好いい職業に見えましたか!これは嬉しいな。でも違うんですよ。僕は高校の教師をしてましてね」
どこが見ての通りなんだろう。
岩井のマシンガントークが始まりそうになった瞬間、再び扉が開いて三人目が入ってきた。
昭和の刑事ドラマに出てきそうな、圧の強い顔立ちだ。眉毛は親指くらい太く、中学生の頃に初めて眉毛を描こうとして失敗したことを思い出させた。
歳は松本よりは上だが、岩井よりは下といったところだろう。
執事が引いた椅子に男が腰をおろすと、ぎいっと椅子が軋んだ。隣に座られて気付いたが、かなり筋骨隆々の肉体をしている。盛り上がった肩の筋肉は、スーツでも隠しきれていない。
男は唸り声のような低い声で言った。
「北村と、申します」
なんて短い自己紹介なんだ。クラス替えの当日に、全員が自己紹介をするというイベントがあったが、これくらいコンパクトにまとめる人はさすがにいなかった。名前だけでなく、せめて一つくらい情報を付け加えてほしいものだ。
「ええと、北村さんはお仕事はなにを?」
「ボディーガードをしております」
道理でガタイがいいわけだ。
「それって、SPっていうやつですか?」
「いいえ。SPは公務員ですが、私は民間の警備会社に所属するボディーガードです」
SPとボディーガードに違いがあるとは知らなかった。
聞けば北村は、芸能人や政治家など、様々な相手のボディーガードを務めているらしい。
「北村さん、ボディーガードなんですか!こりゃすごい。総理大臣の警護とか、そんなのも任されちゃったり?」
岩井が身を乗り出して尋ねる。
岩井にとっては、相手が誰であろうと興味の対象なのだろう。仏頂面で話しにくい雰囲気の北村相手でも、ぐいぐいと話しかけている。
ちょうど時刻が正午になった。午後の訪れを告げる鐘が、屋敷のどこかで鳴らされた。
「皆様、お集まりいただきありがとうございます」
入口は一つだと思っていたが、どうやら奥側にも扉があったらしい。そこから現れたのは、ネットで見たあのご令嬢。
久世詩織その人だった。




