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残された逃げ道

 

 森山がかつての北村、もとい人狼の頭を踏みつけた。北村だった頃の面影は眉毛くらいしか残っていなかった人狼の顔が、ぐちゃりと音を立てて潰れた。人間としての北村。そして怪物としての人狼も、こうしてあっけない最後を迎えた。悪魔と人狼の戦いは、プロ野球と草野球以上に実力差があったと見える。

 

 森山は臓物を投げ捨て、久世にゆっくりと目線を合わせた。

 

 「お嬢様、お怪我はありませんか?」

 

 先ほどまで四肢を食いちぎられていた森山は、自分の体よりも主人の安否を確認する。既に森山の体は再生していたが、腕と足は生えても燕尾服までは再生できないらしく、半袖半パンの執事という奇妙な恰好になっていた。

 

 「なんだあの斬新なファッションは」と岩井がつぶやくので、思わず松本は笑いそうになったが、笑っている場合ではない。人狼をけしかけたのは松本だ。つまり今この状況で、森山が最も敵視しているのは松本に違いない。

 

 松本の知る限り、黒魔術で変身させられる怪物の中で最も強い生き物を選んだはず。それなのにこうもあっさり返り討ちにあってしまっては、もう手の施しようがない。万策尽きた。

 

「え、ええ、私は大丈夫よ。森山こそ、その、平気?いや平気じゃないわよね」


「私はこの通り、何も問題はございません。ああ、服を仕立て直す必要がありますね。すぐに手配いたしましょう」

 

 てっきり森山は自分の服のことを言っているかと思った。だが久世の足元に跪いて、ドレスの裾についた血を指でなぞりながらそう言っているのを見て、燕尾服ではなく主人のドレスのことだと遅れて理解した。

 

 「平気よこれくらい。ドレスの替えはいくらでもあるんだから。それよりも部屋の掃除をお願いできるかしら」

 

 「かしこまりました」

 

 森山が掃除用具を取りに引っ込んだ途端に、久世はこちらを振り向いた。

 

 「あいつやばいって!早く逃げましょう!」


 

 また走る羽目になるとは。

 

 せっかく乾き始めていた汗がまた噴き出す。ドレスがこんなに汗まみれになることなんてあるのだろうか。

 

 ヒールで走るのは限界なので、松本はせっかく新調した靴を、そのあたりに乱雑に脱ぎ捨てた。

 

 ストッキング越しにも、大理石の床の冷たさが伝わってくる。少しは走りやすくなったが、持久力の無さは変わらない。殺し屋だからといって、身体能力の全ステータスが高いわけではないのだ。松本の場合は特に、肉弾戦や近接戦闘よりも黒魔術が主な武器なので、相手を殺害するのに平均以上の身体能力は求められない。学生時代の体力テストの結果なんて、常に平均より少し下だったくらいだ。

 

 お嬢様のプライドからか、頑なにヒールを脱がない久世のほうが、今度は力尽きるのが早かった。がくりと膝から崩れ落ち、ぜえぜえと喘いでいる。

 

 先ほどとは状況が違い、自分が標的にされていると感づいた森山が追ってくる可能性がある。出来るだけ距離を取らないといけないが、久世がどうにも足手まといだ。

 

 岩井と松本が駆け寄ると、久世が片手を伸ばしてきた。この手を掴んで立ち上がる手伝いをしろという意味だろう。しかし立ち上がったところでどうせ動けまい。

 

 岩井はその手を掴もうとしなかった。


 「冷たいことを言うようですがね、久世さん。こういう時は『私を置いて先に行って』なんてセリフを言ってもいいもんじゃないですか。そっちのほうがカッコイイですよ。自己犠牲も時には大切ってもんです」

 

 「置いてかないでよ!」

 

 久世に叫ぶだけの体力はまだ残っていた。

 

 「じゃあおんぶでもしろって言うんですか。いやだなあ、そうしたらまたセクハラだなんだって言うんでしょ。この歳でお縄にかけられるのはごめんですよ。せっかく法律ギリギリの生き方をしてきたっていうのに」

 

 岩井はもう久世を見捨てる方向で意思を固めているらしい。さすが殺し屋。情よりも合理的な判断を優先する生き物だ。

 

 「じゃあそういうことで!」

 

 久世に背中を向けて立ち去る岩井。全力で森山から逃げるつもりらしく、クラウチングスタートの体勢になる。

 

 「無理無理無理!ほんと無理だから!」

 

 久世にはもう、プライドも品格もへったくれもない。情けなく涙を流して、岩井に伸ばした手が震えている。

 

 「さすがに可哀そうじゃないですか。久世さんも連れて行ってあげましょうよ」

 

 「じゃあ松本さんがおんぶします?」

 

 「それは無理ですよ。久世さんのほうがちょっと身長高いですし」

 

 クラウチングスタートの姿勢のまま、顔だけを捻って会話する岩井。危機的状況なのに、まるで緊張感が感じられない。

 

 「分かった。分かりました。分かりましたよ岩井さん。おんぶしてもいいです」

 

 「してもいい?」

 

 「今回ばかりは状況が状況ですから、セクハラとして訴えるようなことはしません。だから私をおぶって逃げてください」 

 

 「嫌だな、久世さん。頼み方ってもんがあるでしょう。おんぶして欲しいなら、それなりの態度で示してくれませんと」

 

 久世が唇を噛む。さぞかし屈辱的な気分だろう。自分に尻を向けた姿勢の男性に、上から目線で懇願するように指示されているのだから。

 

 「…お願いします。私をおぶって逃げてください」

 

 「よし来た、乗りなさい!」

 

 岩井がそのままの姿勢で尻を振る。ちょうど乗りやすい体勢だった。

 

 

 ヒールを脱いでスピードアップした松本と、久世を背負った岩井は屋敷の外へと出ようとした。しかし扉は固く閉ざされていた。

 

 「な、なんで閉まってるんですか?」

 

 松本は扉を押したり引いたりしたが、びくともしない。まるで外側から閂がかけられているかのようだ。

 

 「あいつの仕業ですね」

 

 もう自分の執事のことを、名前ではなくあいつ呼ばわりし始めている。

 

 「悪魔は遠隔操作で扉をロックすることも出来るんですか。まるで車の電子キーみたいだ。こりゃ厄介ですな」

 

 「松本さん、黒魔術でなんとか開けられませんか?」

 

 「黒魔術は魔法じゃないんですよ。万能だと思わないでください。それより他の出口は?」

 

 「裏口があるにはありますけど、正面玄関を閉めたということは、相手が裏口で待ち伏せしてる可能性が高いです」

 

 「ふむ、八方塞がりですな」

 

 三人の間に沈黙が落ちた。

 

 「いや待って、一つ逃げ場があるかも!」

 

 沈黙は一瞬で久世によって破られた。

 

 「この屋敷には地下室があるんです。地下から外へ通じる抜け穴があって、そこに森山は立ち入ったことがないはず。祖父の代に作られた抜け穴だそうですが、父も祖父も使用人を地下へ入れることはしなかったんです。もちろん私も、使用人は誰一人として入れていません。あそこなら!」

 

 

 

 


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