決着
北村という人格は、もうこの世にいない。そこに立っているのは、理性を失い、凶暴性だけが残った人狼だ。
口からは涎が垂れており、牙をむき出しにして獰猛な唸り声を上げている。今にも久世に向かってとびかかりそうな勢いだ。
ただ一つだけ、松本は細工をしておいた。変身の魔術をかける際に、悪魔、もとい森山のみを獲物として認識するように、理性に働きかけておいた。これで松本たちが襲われる心配はない。
人狼は鼻をひくつかせ、森山の匂いを探る。解体ショーの直後でも森山の体からは匂いがしなかったので、特殊な消臭剤でも使っているのかもしれない。人狼も匂いを辿るのに少し苦労したようだが、さすがに獣の鼻は誤魔化せない。大きな声を上げて、屋敷の内部へと人狼は突撃していった。松本たちもそのあとを追う。
人狼は四本の脚を激しく動かし、廊下を駆け抜けていく。人間の要素が残っているので、二本足でも走れるはずのだが、どうやら野性的な動きのほうがスピードが出るらしい。おかげで追いかけるのも一苦労だ。
早くも松本は息が上がっており、心臓が信じられない速度で動いている。中学校で持久走を走り切った時以来だ。心臓がこんなにも働いているのは。
「…っ、ま、待って。もう、無理…」
「なんですか、若いのに体力がない!初老のおじさんはまだピンピンしとりますぞ」
岩井はスーツに革靴というスタイルのくせに、三人の中で一番足が速く、持久力も高かった。
「これでもサッカー部の顧問をしとりましてね。若いもんにはまだまだ負けられませんよ」
森山の心臓を狙ってかけた呪いが自分に帰ってきたかと思うほどに、胸が痛い。息も絶え絶えの松本の横で、久世もそこそこ疲れ切っていた。
「はぁ…はぁ…、うっ…、マジ吐きそう」
久世の言葉から上品さが失われるときは、感情が昂っているか、ピンチのどちらかだ。この場合はピンチのほうだろう。
「ほらほら、二人ともぐったりしてないで、行きますよ!」
岩井に肩を叩かれたが、これ以上走ると何かが口から出そうだ。家の中を動き回るだけでここまで体力を消耗するとは、改めて久世家の広大さを思い知った。
談話室のほうから、ガラスが割れる音がした。それに続き、人狼が威嚇するように吠える。
「始まりましたな。さあ、私たちも急ぎましょう。人狼VS悪魔の世紀の大決戦が見られますよ。これは見逃すわけにはいきません。高校サッカー決勝よりも見ごたえがありますよ!」
談話室に到着した三人を出迎えたのは、世にも恐ろしい光景だった。
人狼が森山に馬乗りになり、腕を食いちぎっている。肩から下が無くなった森山は、血だまりの中に組み伏せられていた。腕がないなら抵抗のしようもない。仮に腕が残っていたとしても、出血多量でまともに動くことも出来ないだろう。
命の灯がまさに消えようとしている執事を前にして、久世は安らかな表情を浮かべている。それは安堵とも取れるが、どこか寂しそうな、複雑な感情がないまぜになった顔だった。殺してほしいとは言っているものの、自分に尽くしてくれた森山への情は残っているのだろう。人狼がとどめを刺した後、しっかり弔ってやればいい。
人狼が森山の腹に爪を突き立て、クリスマスプレゼントを開ける子供のような勢いで開腹する。腸を引きずり出し、床に放り投げつけ、森山の体に開いた穴に顔をうずめた。血液を吸い出しでもするつもりだろうか。自分で生み出しておいてなんだが、人狼の味の好みはよく分からない、と松本は思った。
「北村さん、もういいんじゃないですかね?やりすぎというか、あんまりにもグロテスクですよこりゃ」
岩井の声は人狼には届かない。
「あれはもう北村さんじゃないですよ。理性のタガが外れた、ただの獣です」
「でも戻れるんでしょう?松本さん、変身って言ってましたよね。僕は仮面ライダー世代なんでその言葉はよく聞いたものですけど、変身ってのは戻れる前提なんですよ。変わるに、身と書いて変身。女性のお化粧と同じで、好きなタイミングで戻れるものだと、僕はそう解釈してるんですけど」
「えーと…」
罰が悪そうに頭を掻く松本に、岩井が「えっ?」と怪訝な声を出す。
「まさかとは思いますけども、あれって戻らない?」
こくりと無言で頷く。
「マジで?」
久世もさすがに驚いた様子だ。
「久世さん、こりゃ大変ですよ。本物の悪魔はここにおりました。人を一生化け物に変える呪いをかけた方こそ、こちらの松本さんですよ」
「いや違うんです」
何も違わないので、それ以上言葉は継げなかった。
「まあいいじゃないですか。久世さんの願いは達成されたわけですし、見事に森山さんは死にました。見てください、原型ないでしょ。もうただの肉塊ですよ。ああほら、また人狼が食った!微妙に残ってた足まで!」
三人が話している間に、談話室は血の海と化していた。
「片付けが大変そうですねえ。メイドさんたちに特別手当を出してあげてもいいんじゃないですか?」
岩井が久世家の待遇改善を提案したのとほぼ同時に、人狼が吠えた。
いや、吠えたのではない。今にして思えば、あれは悲鳴だったのかもしれない。
その一声を最後に、人狼は動かなくなった。天を仰いだ姿勢のまま硬直し、後ろ向きに倒れた。口からは涎が相変わらず垂れていたが、変身直後の獲物を求める食欲全開の涎ではなく、だらしなく漏れ出たそれは、人狼にもう意識がないことを示していた。
森山がむくりと起き上がる。
食いちぎられたはずの腕はすっかり再生しており、手には人狼から引っ張り出した臓物が握られていた。




