消えたあの日の父
温室育ちだった久世は、いきなり常温の現実世界へ放り出された。
勉学の成績は悪いほうではなかったが、学年で一番というほど頭抜けているわけでもなかった久世。上位には食い込んでいるので良いだろうと高をくくっていたのは事実で、仮に点数が振るわなくても自分には優れた容姿がある。
にこりと笑うだけで全てがうまくいく。そんな自負があった。
だが久世を甘やかして育ててきた父が、母の死をきっかけに豹変した。
朝の目覚ましで起きられなければ、乱暴に叩き起こしてくるようになり、家の中での服装にもいちいち文句をつけてくるようになった。久世家の娘としての品格を持て、と耳にタコができるほどに言われた。
学校の成績に関しても、上位に入るだけでは不満どころか、一位を取らないと父の雷が落ちるようになった。二位でもダメ。必ず一位を取ること。それが久世家として当たり前のことだ。父にそう言われるたび、久世はプレッシャーに押しつぶされそうになった。
眠い目を擦りながら机に向かう毎日。それでも成績は思うように伸びないどころか、内容が難しくなるに伴って成績は落ちていく一方。父の怒りも日に日に増していった。
久世はある日、精神的に限界を迎えた。
久世が取った行動は、父への犯行でも自殺でもない。家出だった。
家と学校と、かつて家族で行った場所以外はろくに知らない久世にとって、近所を歩くのも大冒険だ。お金は持っていないので、電車には乗れない。大きなショッピングモールに行き、フードコートから漂う匂いに腹の虫が鳴る。
初めて見る庶民向けのアパレルショップでは、箸にも棒にも掛からぬ面白味のないデザインの服が並んでいた。壁に貼られたポスターではスタイルのいい外国人モデルが着こなしているのでマシに見えるが、ショッピングモールにいる大半の人間が着たところで同じにはなれないだろう。
久世の冒険は約三時間続いた。
父が警察に通報し、監視カメラの映像などを辿って久世の居場所が特定されたのだ。
パトカーに乗って帰ってきた久世は、父に怒られるとは思わなかった。よく帰ってきたと抱きしめられるかと思ったが、殴られた。それも頬を思いっきり。
頬を打たれて五秒後、じわりと涙が溢れてきた。赤くなった場所が熱い。そこだけ熱湯をかけられたような感覚だ。
「お前には監視役が必要だ。もう勝手な行動は許さん」
父がそう言って翌週に連れてきたのが、執事の森山という男だった。
執事といって世間が抱くイメージは、主に二種類だ。
ドラマなどで見る、若くてイケメンの執事。人気アイドルが演じており、ドSだったりと、濃いキャラ付けがされている事が多い。
もう一つは、白髪で初老のベテラン執事。丸眼鏡をかけた、燕尾服の似合う紳士。
大体イメージとしてはこのどちらかだろう。
しかし森山はどちらでもなかった。年のころは三十代。容姿は平凡で、執事というよりもサラリーマンが似合う。それも営業などではなく、事務職っぽい見た目だ。つまりはきわめて地味というわけである。
せっかくなら、イケメンかベテランのどちらかが良かったと久世は思った。自分と釣り合う容姿レベルでないと、人前で堂々と紹介できないではないか。
森山を連れてきた父に対して、控え目にそう伝えたこともある。
父は言った。
「執事に求めるのは容姿の端麗さではなく、いかに忠実に仕事をこなすかだ。森山はお前を守ってくれる。いついかなる時も、最も近くにいてサポートしてくれるんだ。彼の仕事ぶりは確かなものだと、以前の雇い主からも聞いている」
こうして久世は、森山という冴えない執事をお目付け役として押し付けられた。
「よろしくお願い致します。お嬢様」
森山が執事に就任してから三週間。これが父の言う通り、仕事の出来る男だったと判明した。久世の要望を事前に察知し、紅茶が飲みたいと思えば、それにあうスイーツと共に供されるし、その日の気分に合わせたベストな服装も提案してくれる。
いつしか久世は森山に心を許すようになり、森山もまた、久世への忠誠心を確かなものにしていた。久世の通うお嬢様学校には、本当にドラマのようなイケメン執事を連れている生徒もいたが、別に羨ましくはない。森山を自分の執事だと、堂々と人に言えるくらいの信頼関係は構築されていた。
問題は学業成績のほうだ。いくら勉強しようとも上がらない成績。上がらないどころか落ちていく一方。もちろん父の怒りは日に日に増していく。いくら勉強を頑張っている姿勢を見せたところで、結果が出なくては意味が無いのだ。
ある晩、勉強机に向かっていた久世のところへ父がノックもなしにやってきた。
そして、思い切り頬をぶった。
「どうしてお前は勉強が出来ないんだ!親の血か?俺が悪いのか?いや違うな。俺は頭が良いし成績だってトップだった。じゃあなんだ。母親か。そういえばあいつは頭のいいほうじゃなかった。だからろくに名前も通っていない保険代理店なんかに務める羽目になったんだ。ああそうだ、全部あいつが悪いんだ!」
母を侮辱するな、と声をあげかけた久世を、父はまた殴った。今度は腹部を思いきり。
胃の中身が逆流し、自室の床が吐しゃ物まみれになる。
騒ぎを聞きつけた森山が、拳を振り上げる父を羽交い締めにした。
「放せ!俺はお前の雇い主だぞ。俺がこいつをどうしようと勝手だ!」
「おやめください、久世様。お嬢様に手を上げるなど、あってはなりません」
森山は燕尾服で隠れているが、肉体はかなり筋肉質なほうだ。五十代になった父が抵抗できる相手ではなかった。
「いいの、森山。殴られたのは私がバカだから。お父さんは悪くない」
「しかしお嬢様…」
「お父さんを放してあげて。あと悪いけど、床を掃除してもらえるかしら?」
久世は晩御飯に食べたシチューやらサラダが、まだ消化されずに残っている吐しゃ物を指さして、悲し気に笑った。




