プロローグ
神代禊乃が退院したというニュースは、まるで死人が甦ったかのように世間を騒がせた。
病に伏せ、十年以上も屋敷の奥で眠るように生きてきた神代財閥の一人娘。
その両親が、奇妙な変死を遂げたわずか三日後──彼女は、誰もが信じられないほど健康な姿でパーティーに現れたのだ。
白磁のような肌に、目を吸い込まれるような漆黒の髪。そして、冷たいほど整った微笑。
「これからは、わたくしが神代を継ぎます」
そう告げた瞬間、会場に走った寒気を、誰も言葉にできなかった。
——そして、その夜から人が死に始めた。
最初は使用人の一人。次に庭師。
続いて、料理人、運転手、弁護士──彼女の身の回りにいた者たちが次々と不幸な死を遂げていった。
彼らを金で雇い禊乃の殺害を命じ、財産を狙っていた遠縁の親族たちは慄いた。
毒、銃、事故、炎——手段を問わず彼女の命を奪おうとした者たちは、皆なぜか自分の方がが死んでいったのだ。
警察は事件性を否定し、彼らの死は自殺として処理された。
けれど、誰もが噂した——神代禊乃は、人ではないのではないか、と。
神代禊乃の正体を探ろうと、好奇心旺盛なジャーナリストや、彼女の親戚が雇った人間が彼女の情報を得ようと近づいた。
そして、そう言った者たちは決まって忽然と姿を消した。
生きているのか、死んでいるのか。
それさえ誰にも確かめられないまま、ただひとつ共通しているのは——彼らの携帯やパソコンのカメラに残された、最後の映像だった。
ぼんやりとした逆光の中に、白いドレスの少女が立っている。
微笑んでいる。
頬を、涙のような何かが伝っている。
そして画面が、黒く塗りつぶされたように途切れる。
***
夜の神代邸。
数百年の歴史を持つ洋館は、闇の中でゆっくりと息づいていた。
風もないのに、カーテンが揺れる。
誰もいないはずの廊下を、足音が通り過ぎる。
その中心の部屋で、禊乃はひとりピアノを弾いていた。
指先は陶器のように白く、鍵盤に触れるたびにかすかな音が鳴る。
旋律は優しく、けれど、どこか祈りにも似ていた。
夜の神代邸は、まるで巨大な棺のように沈黙していた。
灯りはひとつもなく、月光だけが、薄い血膜のように窓を覆っている。
その光を浴びながら、禊乃の指が白鍵と黒鍵の境界をゆっくりと往復する。
音は、確かに優しかった。
しかしその優しさの奥で、何かがひっかいている。
耳の奥に、爪でガラスをこするような、きぃ……という異音が混じっていた。
誰もいないはずの部屋で、もう一つの手が、彼女と同じ旋律を追っていた。
音の重なりが、ほんの一瞬だけ遅れて響く。
——鏡像のように。
禊乃は弾きながら、ふと視線を上げた。
広間の壁に掛けられた肖像画たちが、静かに彼女を見下ろしている。
亡き父母、祖父母、そしてもっと古い時代の神代の血筋たち。
どの顔も、絵の中で口角をほんのわずかに上げていた。
生前の肖像にはなかった笑みだ。
“歓迎されている”
そんな錯覚が、ぞっとするほど自然に胸に落ちる。
背中に、冷たい息がかかった気がした。
反射的に振り返るが、そこには誰もいない。
ただ、ピアノの上に飾られた銀の燭台が、ひとりでに揺れていた。
——生きている、のではない。
——生かされている。
禊乃は、鍵盤の上に指を置いたまま、微笑を浮かべた。
微笑んでいるのに、頬の筋肉が動いていない。
それでも唇は形をつくる。
まるで、別の何かが彼女の顔を操っているように。
指先に宿る感覚は、確かに生そのものだった。
触れれば音が鳴り、押し込めば震える。
だが、心臓の鼓動だけが、どこか遠くのもののように感じられた。
鍵盤を叩くたび、どこかで水音のような響きが返ってくる。
それはまるで、血の底から響く記憶の音だった。
目を閉じれば鮮明に脳裏に過ぎる、母が弾いていた曲。
彼女が病室で最後に聞いた、あの旋律。
——そして、呼吸が止まった直後に聞こえた“もう一つの音”。
ピアノの音が止む。
禊乃の白い手が、ゆっくりと膝の上に落ちた。
その瞬間、屋敷の奥で銃声が響いた。
まるで、誰かが起こしてしまった合図のように。
屋敷の警備システムが赤く点滅する。
誰かが、また彼女を殺しに来た。
禊乃は目を開く。
瞳の奥に、光はなかった。
月光を反射するだけの、空洞のような眼。
けれどその唇は、微笑んでいた。
「また、来たのね。」
ピアノがひとりでに鳴った。
鍵盤の上を、見えない指が踊る。
奏でられるのは、あの旋律。
——優しく、祈るようで、どこまでも不気味な“神代の子守唄”。
そして再び、夜が血の匂いを帯びて動き出した。




