再会
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「さ、佳奈も久弥もお婆ちゃんにお別れを言いなさい」
棺に入れられたお婆ちゃんは溶けた蝋のような色をして目を閉じていた。
妹の佳奈はそんなお婆ちゃんを見て泣き出した。
額に巻かれた三角のハンカチみたいな物が何なのか僕にはわからない。
けど、今、お父さんにそれを聞いたらいけない気がして黙って蝋人形のようなお婆ちゃんを覗き見た。
生きていた頃はいつも派手な色の服ばかり着ていたお婆ちゃんだったのに、どうして今は真っ白な服を、浴衣みたいなものを着せられているのだろう。
僕にはわからなかった。どっちみちお婆ちゃんの服は捨てられてしまうのだから、それなら着させてあげたらいいのに。
そっちの方が、多分お婆ちゃんは喜ぶと思う。
死んでからも生きている時のような意識があればの話だけど。
僕はお父さんに言われたように泣き出した妹の側に正座をして座った。棺の中のおばちゃんの組まれた手の側にそっと花を添えた。その後で妹を抱き抱え膝の上に座らせた。
「にいに。お婆ちゃんいつ起きる?」
あんなに泣いていたのに、妹の佳奈はそんな風に聞いてくる。
きっと死んだという意味は感覚でわかっていても言葉という形を取る事が出来ず、佳奈がわかっている事でしか表現出来なかったのだろう。
ま、単にお婆ちゃんの遺体が怖かっただけかも知れないけど。
「そうだなぁ。いつって聞かれてもお兄ちゃんにはわからないなぁ。だってお兄ちゃんはまだ……」
「久弥、他の方もお別れしに来られたから、話はその辺にしときなさい」
お父さんに言われた僕は妹を膝から下ろした。立ち上がり再び妹を抱き上げた。
生前のお婆ちゃんは豪快に笑う人だった。
よく鼻毛が飛び出していたけど、それを言うと
「こりゃまた失礼。けど、これでまだまだ生きていられるねぇ」
お婆ちゃんは決して鼻毛は抜かなかった。鼻毛だけじゃない。眉毛に生えた白髪も抜くような事はしなかった。髪の毛もそうだ。絶対に切っていた。
「抜くと余計に白髪が増えるとか、そんな事で抜かない訳じゃない。毛を抜くというのは人の命の一部が無くなるって事なんだ。無くなったものは戻って来ない。それが命に刻まれる。逆に切る方はどうかといえば抜くよりはマシだ。無くなった訳じゃないからな。でも切った事には違いないだろ?」
「そうだね」
「久弥も指を切った事くらいあるだろう?それと同じで毛を切るという事は痛みがあるって事なんだ。でもその傷は時間をかけて再生していくだろう?毛を切るという事は自分の命に傷跡がつくって事なんだ。で、ここで久弥、質問だ」
「何?」
「傷跡は一生残るが、それでも生きていく事が出来る。反対に生きて行く為の何かを無くしてしまうのと、久弥はどっちが、いい?」
「んー。何かを失うのは嫌かな。その何かってのがわからないのも嫌。だから傷跡が残った方がまだいい」
「婆ちゃんも久弥と同じだ」
「だから婆ちゃんは鼻毛は抜かないんだ」
「そうなんだ?」
「そういうもんさ。だから久弥も死ぬまで鼻毛は抜かずに切る事。いいか?」
「えー。マジで?……わかったよ」
僕が言うとお婆ちゃんはガハハと笑った。その笑顔が、2度と見れないだなんて。
改めて思うとやっぱり辛かった。お婆ちゃんの遺体を見ても涙は出なかったけど、お婆ちゃんとの思い出を思い返すと胸が締め付けられそうで、少し辛かった。
だから僕は佳奈を抱いたまま、弔問客を避けながら表へと出た。
外は少しだけ暖かかった。昼間は季節外れの寒さだったというのに。きっとお婆ちゃんの魂が、
「皆んなに私とお別れさせてやるんだ。外は寒くするんじゃないよ。良いかいわかったかい?」
と天気の神様に注文をつけたと思えてしまう程、暖かくそして緩やかな風が吹いていた。
遠くの街がまるで蛍のように柔らかな灯りを灯している。
妹を抱きながら近くを歩いた。お婆ちゃんが、死んだ事も忘れたのか佳奈は楽しそうに星空を指差していた。
人の生きる強さとはこういう所なのかも知れない。僕は佳奈の楽しそうな姿を見てそう思った。
しばらくして戻るとお母さんが慌てた顔で僕らを探していた。
「黙って居なくならないで」
「ごめん」
お母さんは尚もぶつぶつと小言を言いながらも、妹の面倒を見てくれていた事に感謝した。妹は両手を広げてお母さんに抱きつこうとする。
その途中、急に佳奈の手が僕の顔に伸びて来た。
「にいに。これ長い」
佳奈はそう言って僕の髪の毛を引っ張った。
僕はその手を掴み髪の毛から離した。
「本当だ。これだけ異様に長いね」
「永瀬さん、その一本だけ切り忘れたのかしら」
「いや、それはないっしょ。だってお母さん、みてよ。散髪する前の髪より長くない?」
お母さんは、あら本当ね。どうしてかしら?と言った。
「目立たないかも知れないけど、その一本だけ長いのも変だから、お母さんが抜いてあげるわ」
「いや、良い。自分で切るから」
僕はいい家の中へと戻った。
その足で弔問客の町会の人達に軽く頭を下げた挨拶をする。部屋に入り鏡を前にした。
この髪を切る事で僕の命には新たな傷が出来る。ていうか、今朝散髪に行ったから、とんでもない傷がたったの数時間で僕の命の傷となった訳だ。
僕は一本だけ伸びた髪に鋏を入れた。切った髪をゴミ箱に捨てながら、お婆ちゃんのような歳になるまで生きて行くには、僕はどれだけの傷を受けて行かなければならないのだろう。考えたら少しだけゾッとした。
「たまには抜くのもありじゃね?」
思わず呟いた言葉にお婆ちゃんの顔が被さった。
僕は部屋から出て再びお婆ちゃんに会いに行った。
弔問客も落ち着いて来たのか、まばらになっている。
僕はお婆ちゃんの顔へ自分の顔を近づけた。さっき思った事をお婆ちゃんに聞いて欲しかったからだ。
その時、僅かだけど、ほんの少しだけお婆ちゃんの鼻から鼻毛が出ていた。僕は鋏を持って来てその出ている鼻毛を切ってあげた。
その後で、さっきの思いをお婆ちゃんに話した。
けど、お婆ちゃんから返事はなかった。当然だ。
お婆ちゃんは死んだのだ。返事が出来る訳がない。
「久弥、佳奈をお風呂に入れてくれない?」
僕はわかったといい、お婆ちゃんに向かって
「後で来るから」
と言った。
立ち上がり、棺に背を向けた瞬間、僕は聞こえた気がした。慌てて振り返った。お婆ちゃんが生き返ったのかと思ってしまったのだ。
けれどお婆ちゃんは相変わらず棺の中で眠っている。
馬鹿げた妄想だ。その時、又、声が聞こえた気がした。
その声がお婆ちゃんのものなのか、僕が作り上げた幻聴なのか、僕にはわからなかった。
でも、その声がどちらでも僕には構わなかった。
だってその声が言った言葉の中に、
「久弥、またな」
とあったからだ。
僕は何故か恥ずかしくなり、サッパリした頭を掻いた。
その髪に触れながら、僕はこれから自分が生きて行く人生の中で、それは言うなればまた死にゆく過程とも言える訳で、そこにいる限り傷つく事を怖がっちゃダメなんだなと思った。傷は命に刻まれるとお婆ちゃんは話してくれた。でもその傷は指を切った時と同じで、塞がるのだ。
けど傷跡は残るしもしかしたら僕は僕の人生で無様な傷ばかり作ってしまうかも知れない。
それでも良いと思った。
きっとお婆ちゃんもそう思っていたからこそ、
あんなにも豪快に笑えたに違いない。
そう。良いんだ。僕は僕として傷ついて行く。
その姿で生きることこそ人として生まれた意味なのかも知れない。
僕は大袈裟に考えた自分に恥ずかしくなって思わず周りを見渡した。そこには誰もいなかった。
ただほんのりとした笑顔のお婆ちゃんがいるだけだった。
了
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