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愛人のもとに向かう夫を送り出した後、妻はなぜ化粧したのか?(筒井筒「伊勢物語」)③(最終回)

◇「本文」(口語訳)・解説


「まれまれかの高安に来てみれば、初めこそ心にくくもつくりけれ、今はうちとけて、手づから飯匙いひがひ取りて、笥子けこのうつはものに盛りけるを見て、心憂がりて、行かずなりにけり。」


(たまたま例の高安の女の所に来てみると、男と出会った初めは奥ゆかしくよそおっていたが、今は気を許して、自分でしゃもじを持って、ご飯を器によそったのを見て、男は嫌になって、行かなくなった。)


貴族は自分で食事の支度をすることはない。それは召使の仕事であり、はしたないことだからだ。

女はよほどお腹が空いていたのか、だらしないタイプなのか、自分でしゃもじを持ち、椀にご飯をよそっている姿を、男に見られてしまう。

少しの油断が男女の破局につながる。

女の失敗は、「初めこそ心にくくもつくりけれ、今はうちとけて」にある。男に気に入られようと、最初は猫をかぶっていたが、後から化けの皮が剥がれてしまった。「初め」・偽装と、「今」・実体の懸隔が、信頼や期待の喪失につながった。

男の心が高安の女から離れてしまった理由が、その油断・気の許しにあったとすると、この男は、「初め」と「今」の一貫性を重要する人だということがわかる。

妻は、そのような相手だからこそ、たとえ夫が不在でも、ふだんから身繕いに気を遣っていたとも考えられる。また彼女自身、誰に言われずとも自然に身の回りをきちんとすることのできる人だったのだろう。そうでなければ、夫の不在時に、誰も見ていないのに、化粧という手間のかかることはしないだろう。

夫は妻の外見の美しさではなく、内面の美しさに感動している。自分の身を案じ、道中の無事を祈る妻の信頼と愛情が、男の心を強くとらえる。

高安の女は、男の期待を裏切ったのだ。初めは「つく」っていたが、その奥ゆかしさは、偽物だった。外見と内面、初めと今の相違。


しかもその裏切りのもとは食欲という人間の本能だった。男は高安の女の「動物性」を見、そこに下品・不粋を感じたのだ。

生きるためにはものを食わねばならぬ。しかし人には作法というものがある。身分から期待される振る舞いがある。

女の「動物性」への拒否感が、男を女から遠ざけた。


「さりければ、かの女、大和の方を見やりて、

君があたり 見つつを居らむ 生駒山 雲な隠しそ 雨は降るとも

と言ひて見出だすに、からうじて、大和人、「来む。」と言へり。」


(そういうわけで、例の女は、男が住む大和の方をはるかに見て、

あなたがいらっしゃるあたりを見続けています。雲よ、生駒山を隠さないで。たとえ雨は降ろうとも。

と歌って眺めていると、やっとのことで、大和の人(=男)が、「あなたのもとへ行くよ。」と言ってきた。)

ふたりの女性の和歌を比較すると、高安の女の和歌は単に男の来訪を待ちわびる歌になっている。自分はあなたが来るのをずっと待っている。そのために生駒山を眺めているという、自分の行動と感情を吐露した歌だ。自分中心の和歌。「雲な隠しそ 雨は降るとも」という、禁止と仮定による限定という2つの強意表現によって、強い意志を感じる歌だ。

これに対し妻の和歌「風吹けば 沖つ白波 たつた山 夜半にや君が ひとり越ゆらむ」は、男の身を案じ、その無事を祈る歌だ。夫中心の和歌。

強い愛を告白する女と、自分に心を寄せ心配する女。愛の深さと男の気持ちの傾きはどちらかは明らかだろう。


なおここには「大和」が明記・強調されており、大和と河内(高安)が対立的に述べられる。物語の人物関係だけでなく、政治・文化的対立がうかがわれる。


「喜びて待つに、たびたび過ぎぬれば、

君来むと 言ひし夜ごとに 過ぎぬれば 頼まぬものの 恋ひつつぞ経る

と言ひけれど、男、住まずなりにけり。」


(高安の女は喜んで待っていたが、その度に男は来ないで終わったので、

あなたが「行くよ」と言った夜はいつもむなしく終わったので、もうあなたの来訪をあてにはしていないものの、やはりあなたを恋しく思いながら時間だけが過ぎていく。

と歌って送ったが、男は、高安へ通わなくなってしまった。)


この和歌も、自分の気持ちを表すことに重きが置かれている。この女は、自分がこうだから、相手の男もそれに応えなければならないと考えている。


◇「待つ女」と和歌の教養

恋愛において当時の女性ができることは、「待つ」ことだけだった。自分から積極的に男のもとに行くという行動をおこすことができない社会。だから、自分の愛を伝える手段は、上手な和歌を作り送ることだけ。和歌の知識と作歌の才能が、男女ともに求められた。良い交際相手をゲットするためには、作歌の能力が不可欠だ。

ただ、この物語に登場する和歌は、いくつかの技巧が凝らされてはいるが、作者である女の心情が素直に読み込まれている。男への愛がとても分かりやすく表現されており、作歌の巧みさよりも心情の素直な表現に重きが置かれている。


◇夫不在時の妻の化粧の理由

先ほども述べたとおり、男の心が高安の女から離れてしまった理由が、その油断・気の許しにあったとすると、この男は、「初め」と「今」の一貫性を重要視する人だということがわかる。高安の女は、男の期待を裏切ってしまった。初めは「つく」っていたが、その奥ゆかしさは、偽物だった。

妻は、そのような夫だからこそ、たとえ夫が不在でも、ふだんから身繕いに気を遣っていたとも考えられる。また彼女自身、いつも身の回りをきちんとする人だった。そうでなければ、夫の不在時に、誰も見ていないのに、化粧という手間のかかることはしないだろう。

自分が去った後に美しく化粧をする妻を見て、夫は、別の男を迎え入れる準備のためだと邪推する。しかし彼女は夫の身の安全を祈る歌を詠じた。これを素直に読むと、夫の在不在にかかわらず、妻は常に自分を美しく保つ人だということだ。美の維持により、いつか夫の心が自分のもとに帰って来ることを、彼女は祈っている。いつ夫が帰って来てもいいように、美しく化粧する妻。その様子を見、歌を聞き、夫は、自分を思う妻の愛の深さを知る。


以上とは全く違う解釈も可能なところが、この物語の面白い所だ。つまり、妻は、夫が前栽の陰に隠れて自分の様子をうかがっていることに気づいていたパターンだ。この場合、妻は大女優ということになる。居住まいをただし、美しく化粧する自分の姿を夫に見せつけ、常に美の努力を怠らない女だという印象を強く刻みこませる。また、その身を案ずる和歌をわざと詠むことで、後に一人残された自分よりも夫の身を心配している健気な妻を演出する。

ただ、この解釈は、物語の情趣を壊してしまうので、私は採らない。現代のわれわれの目から見た妄想ということだ。私たちはただ、妻の健気さと愛の深さに感動すればいい。


◇あとがき

この物語の流れを再度見てみると、


一途に思い続けた相手との結婚の喜び。

夫の疑念の醜さ。

妻の心の美しさと献身。

夫の反省、妻の愛の再認識。

愛人のだらしなさによる破局。


となり、よく構成が考えられた物語であることがわかる。

しかも挿入される和歌が分かりやすく、そこから人物の心情を素直に理解することができる。

王道を行く物語だ。


妻の様子を見てみると、彼女は高安の女と同じように、初めは自分の心情が中心の和歌を詠んでいた。親の勧めに従わず、自分の意志で男を選び、夫婦となる。

夫との時間を重ねることで、彼女の和歌は夫を心配する内容に変わる。自分中心から他者中心への変化。愛の成就よりも、相手を心配する気持ちへの移行。

男がよりを戻そうと思ったのは、妻の深い愛を感じたばかりではない。ふたりでこれまで過ごした時間の尊さ、妻の愛の深化に気づいたからだろう。

妻の愛は、求めるものから与えるものへと深化したのだった。


(終わり)

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