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(五)逃亡

(五)逃亡

 浅野大学に逃げられた事を知った将軍だが、咎めだてすることはなかった。もうこれ以上浅野の事で心を煩わせるのは御免だった。

 敵将の身柄を確保することは出来なかったが、それでも無事赤穂城は接収し、一連の騒動はようやく終わったのだ。都にやっと平穏が戻ったのだ。

「ああ、やっと終わった」

 松の廊下の刃傷事件以来、晴れることのなかった将軍の心に、ようやく解放感が広がった。何しろ吉良、浅野両家とも一筋縄ではいかない。将軍家に対して色々と要求してきた。やれ浅野屋敷を襲撃するから後詰の軍勢を出せだの、幕府の決定に不満あり従えぬだの、奥方が自ら薙刀を振るって抵抗するだの、おとなしく城は渡さないと戦準備をするだの、もういい加減にして欲しい。

 守護大名たちは、武家の棟梁たる征夷大将軍を一体何だと思っているのだろうか。源頼朝公以来、日本全国の武士は将軍を戴くのではなかったのか。

(少しは将軍を敬え)

 将軍は心の底流に欲求不満を抱えている。が、ようやく浅野の件は一件落着し、今夜は久しぶりに心から楽しめそうである。

 浅野大学と大石内蔵助は姿をくらましているが、おそらく数日のうちに落ち武者狩りの網にかかって首が届けられるだろう。

 月が出て来た。

 将軍は盃の酒に満月を映して微笑んだ。今夜は酒が美味い。白拍子の舞台の準備が整いつつある。

 能楽堂に身を移そうとした、その時であった。

「申し上げます」

 早馬が到着し、汗臭いむさ苦しい武者が息せき切って現れた。せっかくの風情を台無しにされた将軍は、とにかく煩わしかった。今夜は政治を忘れて楽しみたい。

「何事じゃ。騒々しい」

「赤穂城、浅野の残党の襲撃を受けて奪われたとの事」

「は?奪われたとは、いかなる事になったのじゃ」

「今は浅野大学が赤穂城を占拠しているとの事。城受け取りの脇坂淡路守は、赤穂城を捨てて、命からがら所領の龍野へ逃げ戻ったもよう」

「えっ」

「赤穂衆は姿を消し、城受け取りの任は無事終了したのをもって、後詰の守護大名たちは国許へ帰国しました。これ以上赤穂に滞在する必要はない、と。敵はそれを見計らっていたようで、後詰の軍勢がいなくなるやいなや、夜襲したのでござる」

「な、何ぃ」

「脇坂の軍勢はすっかり油断して緩み切っていたようで、奇襲を受けて戦わずに逃げ去ったとの事」

「ば、馬鹿な」

 浅野は姿を消したのではなかったのか。もうこの問題は終わったのではなかったのか。手にした盃が闇夜の庭にこぼれ落ちた。

「馬鹿な、脇坂。富士川の平家じゃあるまいし」

(何時までも、しぶとい奴らめ)

 浅野衆の簡単に諦めない粘り強さに、将軍は心底閉口した。やがて追いかけて来るように脇坂から急使が来た。

「通せ」

 脇坂は「今回の失態を取り戻したい。全力を挙げて赤穂を奪回するから任せて欲しい」と強く懇願してきた。

 脇坂は、もし任を外されたとしても勝手に兵を動かすつもりではいた。他の者が代わりに行くようなことがあれば、これ以上の屈辱はない。

 そんな脇坂の意思を、将軍は敏感に察しとった。おそらく幕府の許可があろうがなかろうが関係ないのであろう。となれば、幕府としては、脇坂に命令を無視した形で勝手に軍勢を動かされては威信にかかわる。命令を下す形にしておきたかった。

 すぐに大軍が再び山陽道を攻めあがった。今度はどの兵も気を引き締めている。


「浅野武士の面目を世間に示すことができました。もうこれで十分でしょう」

 大石は再び城を捨てるべきと大学に進言している。

「うむ。やむをえまい」

 敵の油断を突いて城を奪い返したものの、幕府側の態勢の立て直しは予想外に早かった。もし幕府が腰抜けなら、このまま居座ってしまうつもりだった。だが、そう甘くはなかった。このまま敵の大軍が来ればひとたまりもない。大石は「あわよくば」と思っていたが、「やはりなあ」という気持ちで、悲壮感はなかった。今回は城を失っても、もともとなのである。

「一戦も交えずに逃げるのは武士として物笑いの種となるところじゃったが、計略でいったんは奪い返して見せた。吉良と柳沢の悔しがる顔が目に浮かぶわ。ざまあ見やがれ。愉快愉快」

「御意。あの世に行って亡き御屋形様へも申し開きが出来まする」

「たとえ誰に奪われようとも、ここは本来我らの城じゃ。そのことだけは一生忘れまいぞ」

「はっ」

 大石と大学は赤穂城に別れを惜しんだ。今度こそ、本当にこの城との今生の別れとなる。柱の一本一本、庭の樹木の一つ一つに多くの思い出がある。瞼を閉じても城の詳細を思い浮かべることが出来た。

「時がない。急ぎ船を出せ。我らは必ず生き延びる。決して吉良や柳沢の言いなりにはならない。どのような艱難辛苦があろうとも、生きて生きて生き抜いて、いつか必ず浅野家を再興してみせる。生きてさえいればなんとでもなる」

 翌日の早朝、まだ日が昇ったばかりの朝靄の中、大石と大学は浅野家の菩提寺である花岳寺にいた。

「御屋形様。仇は必ず討ち果たします。吉良の首、都大路に晒してみせます」

「兄上、浅野家はこの私が命を懸けて守ります」

 先祖代々住み続けた故郷、赤穂の地を、今まさに去ろうとしている。大石内蔵助は赤穂御崎に立つ老松を何度も見返り名残を惜しんだ。

 浅野家主従は再び姿を消した。


「またもや、もぬけの殻か。今度は油断すまいぞ」

 再び赤穂城本丸に入った脇坂は顔を引き締めた。

 大学と大石の行方は掴めない。それどころか浅野家臣を一人も捕らえることが出来なかった。

「やつら、いったいどこへ消えた」

 脇坂の不安は拭いされない。

「残党狩りを急げ。浅野大学と大石内蔵助を必ず捕らえよ。手に余れば討ち取ってもよい」

 脇坂は軍勢を龍野に帰すことなく占領体制を敷いた。山陽道と瀬戸内海には兵が溢れ、凄惨な落ち武者狩りが行われた。少しでも不審に思われる者は容赦なく捕らえられ厳しい拷問が架された。ほとんどの者が無関係であったが脇坂は頓着しない。黒か白か判別しにくい者はことごとく首を刎ねられた。脇坂の不安の現れであろう。

 自然、赤穂一帯は社会不安に陥った。市井の無辜の民が、意味もなく命を絶たれることが頻発すれば、もはや通常の日常生活もおぼつかない。怨嗟の声は、声なき声となり、山陽地方一帯に拡がって行った。何かあれば、たちまち一揆が起るだろう。


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