(四)播州赤穂
(四)播州赤穂
急を知らせる早馬が山陽道を西へと疾走して行く。同時に早船が瀬戸内海を西へと進んで行く。陸路を行くのは萱野三平、海路を行くのは、早水藤左衛門。少しでも早く国元に変事を伝えるために、また事故に備えて、阿久里は二手に分けて使者を送っていた。
「ご開門、ご開門」
大石内蔵助邸の門が叩かれたのは、変事から二日後のことであった。
「朝っぱらから何だ」
まだ眠気の残っている大石は早朝の騒ぎが煩わしかった。あくびをしながら、しぶしぶ表へ出た。
門を開くと、全身汗まみれ埃まみれの男が、疲労困憊して息も絶え絶えでそこにいた。陸路をとった萱野三平であった。
平素「昼行燈」と言われている温和な大石だが、萱野の尋常ならざる様子に、一目で異変を悟った。
泣くばかりで言葉にならない萱野の差し出した書状を、乱暴に開いて食い入るように読み進んだ。
(何という理不尽な…)
平素感情をあらわにすることのない大石が、その場にしゃがみこんで呆然とした。大石はしばらくその姿勢のまま動けなかった。
大石は全ての家臣を登城させ、評定を開いた。
赤穂城の大広間は、男たちの汗くさい臭いでむせ返っている。畳が敷かれた上座には内匠頭の弟、浅野大学。そして一段下の板敷に家老の大野九郎兵衛と大石内蔵助。下座には多数の家臣たちがびっちりと座していて、ほとんど床が見えないほどだった。
すでに都の変事は知れている。大勢の家臣たちから発せられる殺気と血走った眼差しに、上座の浅野大学は圧倒された。
評議は紛糾したが、日暮れには方針が決定した。
幕府は浅野家に対し、領地の没収、お家断絶を命じてきた。それに対して、
「幕命を無視して、このまま赤穂に居座る」
という結論を得た。反対意見も少数ながらあったものの、最終的には満場一致であった。大石大野の両家老も、詰めかけた多数の家臣たちも、唯々諾々と都の言いなりになるつもりはなかった。「自分たちの土地は、自分たちで守る」それが源頼朝以来の武家のあり方だからだ。浅野家の家臣たちは、武家として自らの領国を断固守り抜く決意を固めた。
「御屋形様(内匠頭)の恩は、山よりも高く、海よりも深い」
大石が戦意高揚を呼びかける演説を行うと、詰めかけた家臣たちから歓声が上がった。涙を流しながら「来るなら来てみろ」「吉良の首を獲る」と絶叫する武者たちで溢れ、男たちの声が広間に大音響で響き、場は異様な興奮状態に包まれた。
浅野大学は頬を紅潮させた。兄内匠頭の後を継ぎ、今からは浅野家当主として室町幕府軍との戦に臨むのだ。大学の胸には「やってやろう」という高揚感と、同時に「勝てるだろうか」という不安感が同居していた。
大学の不安とは関係なく、赤穂城下は沸き立っている。武者たちは戦支度に忙しく、町人たちも忙しく動きだした。武具を手入れする者、弓を買い替える者、馬を買う者、刀を砥ぐ者。町は妙な活気に包まれた。
管領柳沢吉保は、室町幕府の威信をかけて浅野討伐を成功させなければならなかった。多数の守護大名に動員をかけ、大軍を赤穂へ向けて進発させた。先鋒は、隣国の播磨国の龍野に所領を持つ脇坂安照が任命された。脇坂の軍勢は四千人程度ではあったが、多くの守護大名が幕命で後詰を務め、総兵力は二万を超えた。
幕府の大軍が、山陽道をひた押しに押してくる。同時に、瀬戸内の水軍も赤穂への物流を封鎖すべく活動を始めた。
二万、という敵の兵力の大きさを聞いて動揺する者が現れた。評定の時には徹底抗戦を叫んでいた家臣たちが、である。
柳沢は力攻めだけでなく、調略も始めた。浅野家はそれほど大きくないとはいえ、内通者を作らなければ寄せ手の損害は大きくなり、容易に攻めつぶすことは出来ないであろう。長引けば幕府側も士気が落ち、幕命に背いて帰国してしまう大名も出て来るかもしれない。
柳沢は家老の大野九郎兵衛に狙いを定めた。
「初めから籠城することはない」との方針で、浅野軍は幕軍を迎え撃つべく出撃し、相生に布陣した。先鋒を務めるのは大野九郎兵衛である。
脇坂と大野が対陣している。遠望すれば互いの旗が林立しているのが見える。赤穂城での評定では、異常な高揚感の場の空気に流されて涙を流して決戦を誓った大野だったが、今、現実に敵の陣容を目の当たりにして、勝てない事を瞬時に悟った。おびただしい数の旗が風になびき、軍勢は狭い盆地を埋め尽くしている。
脇坂の軍勢だけなら、たいしたことはない。だが、「天下の兵を動員する、とは、こういうことなのか」という現実を知らされた。大野九郎兵衛は悩んでいる。そして悩んでいる事を知っているがごとく、柳沢からの「悪魔の誘い」が大野の心を捉えて離さなかった。
「浅野家を見限ってしまえ。貴殿の所領は安堵する」
古今東西、人間は自分自身の幸せのために生きている。他人のためではない。死んでしまえば全ては終わりだし、自ら苦しんだところで無意味である。他人から良く思われても、それをあの世に持って行くことはできない。
生きている時に自分が楽しければいい。人は誰のために生きているのか、自分自身のためではないか。それ以上いったい何が有るというのであろうか。
一寸先は闇、それが足利将軍治世のこの世の中である。主君内匠頭の粗暴の振る舞いが家臣たちを存亡の危機に放り込んだ。新しい主君の大学の力量はまだ未知数である。そして天下の管領、柳沢様から直々にお誘いが来ているのである。
赤穂城に残って全体の総指揮を採っているのは大石内蔵助である。大石は総大将の浅野大学の傍にひかえている。大学は紺糸縅の華麗な大鎧を着て床几に鎮座しているが、その視線は落ち着きがなく常に左右に動いていた。実質的な軍事指揮官としての権能は大石が代行している。
総大将浅野大学自らが軍勢を率いて東へ出撃すべし、という意見もあった。しかし幕府水軍に制海権を握られており、敵が海から上陸する可能性もある。赤穂城は海に近い。城主が城を出た途端に城を獲られてしまう可能性を大石は危惧した。
相生の前線からの斥候が、息せき切って戻って来た。
「申し上げます。大野九郎兵衛殿の軍勢、敵方に寝返りましてござる」
「何ぃ!」
大石が憤怒の表情で地面に鞭を叩きつけた。大学は絶句して天を見上げている。
「脇坂淡路守の軍勢、大野めの軍勢と合流して山陽道を進み、相生を過ぎ、赤穂に迫っております。その数、少なく見積もっても八千。さらに後詰が少なくとも一万」
「おのれぇ。大野九郎兵衛。地獄へ墜ちろ。閻魔に舌を抜いてもらえ」
大石は今すぐに軍勢を発して大野九郎兵衛の首を獲りに行きたかった。だが、それが現実には不可能であることも分かっていた。
(お城が危ない。大学様が危ない)
敵が来れば赤穂城は落ちる。間違いなく落ちる。大学様も首を獲られる。そして浅野家は断絶する。ならば降伏開城するしかない。無駄に兵たちを死なすわけにはいかない。
しかし、大石には懸念があった。
京五条の屋敷は焼き討ちに遇い、お方様自らが薙刀をとって戦い、討ち死にしたという。御屋形様が討たれたその日のうちに、である。
(降伏したとて、大学様は首を刎ねられ、浅野家再興は出来ないのではないか。多くの家臣がみな路頭に迷うのは、開城しても戦っても同じではないのか。ならば、どうせ同じなら戦って果てるほうがいいのではないか)
大石は迷っている。時間がない。敵は刻一刻と迫って来る。筆頭家老として決断しなければならなかった。それは、どちらに決めるにせよ辛い決断となる。
日が暮れると、ますます陰気な心持になっていく。闇に落ちた漆黒の空は、大石の心をますます重くした。大石はこの夜、寝付かれなかった。
体も心も疲れている。極限まで疲労しているといっていい。だが、臥所に横たわって目を閉じても眠れない。
何やら城中で物音がするような気がする。いや、この深夜に、夜戦の準備の下知など出ていないし、敵の夜襲なら見張りがすぐに知らせるはずである。
(気のせいか。疲れているのだ)
胸騒ぎがしながら、一睡も出来ずに大石は朝を迎えた。
夜の間に驚くべきことが起きていた。
兵たちの半数近くが脱走してしまっていた。
だが、それだけではなかった。城内に蓄えてある金銀と兵糧米が無くなっている。逃げた連中が持ち去ったのだ。
(何ということだ)
大石は頭を抱えた。
脇坂淡路守安照は、大軍を率いて悠々と赤穂に進軍している。お味方はこれだけの大軍だ。おそらく戦にはならないであろう。後は何事もなく無難にお役目を果たすことだ。天下に脇坂の武威を示したい気持ちもあるが、浅野の遺領がそっくりもらえるわけでないのなら、そんなに懸命に戦う気もしない。
(この際、ドサクサに紛れて播州の一群でも奪う機会がないか)
脇坂はそんな事を考えながら、「奪えそうな地」と見ている播州東部を今まさに進軍している。今は「来るべき時」のための偵察ともなりうるだろう。捕らぬ狸の皮算用ではあるが。
脇坂安照を先鋒とする幕府軍は、ついに赤穂城を包囲した。城には幟が風にひるがえり、篝火が焚かれ、城壁の上には無数の盾が並べかけてある。浅野方は籠城の意思を固めたのかもしれない。
(おかしい)
脇坂は、ここまで浅野の兵を一兵も見ていない。物見も見張りも姿が見えない。そういえば、この戦には前哨戦がなかった。大野は戦う前に調略され、山陽道を進む道筋でも、浅野方の武者は皆無だった。
脇坂は城への突撃を命じた。兵たちが一斉に鬨の声をあげて駆けだす。丸太を城門に激突させて破壊する。
やはり、予想通り赤穂城は既にもぬけの殻だった。人っ子一人残っていなかった。
「浅野大学、どこへ消えた」
山陽道も瀬戸内海も幕府の軍勢が抑えていたはずである。忍びの者も含めて多くの物見を放ち、彼らの動向を見張っていたはずである。
忍びの報告によれば、兵たちが多数脱走しているという。だが城主浅野大学は城内にいた。少なくとも昨日の朝まではいた。
忍びの目を盗んで、いつの間に、どうやって遁走したのだろうか。実質的に指揮を執っているのは大石内蔵助であるという情報は掴んでいる。大石は「昼行燈」と呼ばれているという。そんな人物なら簡単に降伏してくるだろう、と楽観していたのだが、何ということだろう。
今回の戦で脇坂が命じられたのは、赤穂城を接収すること、浅野大学の身柄を拘束して生きたまま京へ移送すること、この二つだった。
赤穂城の接収は無血で難なく成功した。だが、もう一つの、浅野大学の身柄確保は出来なかった。管領柳沢様にどう申し開きをすればよいのか、脇坂は頭を抱えた。
(つづく)