(三)焼き討ち
(三)焼き討ち
吉良は傷を負ったものの気力は衰えていない。額の包帯に滲む血はまだ広がり続け、出血は完全には止まってはいない。
「平八郎、平八郎はおるか」
「はっ」
「今すぐ浅野の屋敷を焼き討ちにせよ」
小林平八郎は主君の命を受けると、即座に戦略が頭を駆け巡った。根っからの武人であり戦好きである。浅野屋敷は五条にある。御所からはすぐだ。
戦慣れした武者たちが手際よく軍装を身に着け始める。鎧を着て弓を持ち、旗指物を背負う。雑兵を集めて腹巻を身に付けさせた。
一方の浅野屋敷。
「御屋形様、ご無念にございます」
正室の阿久里には信じ難い知らせだった。いや阿久里だけでない。屋敷にいる誰もが嘘だと思った。というより信じたくなかった。が、まぎれもない事実であった。
阿久里は国元にこの変事を伝えねばならなかった。今、国元にいるのは筆頭家老の大石内蔵助である。
「昼行燈の大石か」
阿久里の表情が一瞬曇ったが、今は大石を信じるしかなかった。萱野三平と早水藤左衛門を呼ぶと、すぐに赤穂へ急行するよう命じた。二人は庭先で片膝を着いて阿久里に一礼するやいなや、すぐに手甲脚絆姿の旅装になり、草鞋の紐を強く締めると、屋敷を走り去って行った。二人の頬は真っ赤に紅潮し、眼光には悲壮感を宿していた。
萱野と早水が去ると、阿久里は戦支度を命じた。
「おのれ吉良め。今すぐ上野介の首を獲って参れ、御屋形様の弔い合戦じゃ」
阿久里の声は怒りに震えている。
「お方様。吉良の軍勢がこの屋敷を襲うかもしれませぬ」
「来るなら来てみろ。吉良の軍勢など恐るるに足らず。蹴散らしてくれるわ」
阿久里は緋縅の大鎧を身に付け、薙刀を持って床几に腰を下ろした。
室町御所では、吉良と柳沢が談判をしている。額の包帯には血がにじみ出ているが、吉良の気迫は衰えていない。
「管領殿、これは公方様への謀反に等しい。我らはこれから浅野屋敷を焼き討ちいたすが、幕府としても後詰をしていただきたい」
「都で騒乱を起こすは好ましからず」
「何を言う。わしは殿中で斬りつけられたのじゃ。黙っていられるか」
「吉良殿がやられるなら勝手にされよ。ただし幕府としては軍勢は動かさぬ」
「いや、幕府として内匠頭に切腹を申し付けたからには浅野は謀反人じゃ。しかも命に従わずに逃げようとした。この際、禍根を取り除いておくべき」
「では、これから公方様に拝謁してご意向をきいてみる」
柳沢も浅野には腹を立てている。吉良の意見に異論はない。ただ、柳沢自身は後日自分に責任が及ぶのを回避しようと思った。将軍も同じように浅野屋敷の襲撃を支持するであろう。ここは一芝居うって吉良が上申して将軍が決定した形にしておきたかった。
面子をつぶされた将軍は激怒している。将軍が二つ返事で出陣を許可すると、柳沢の動きは早かった。間髪を入れずに自ら鎧兜に身を固め、騎乗して兵を指揮し、浅野屋敷へと出陣した。
吉良の軍勢など撃退出来る、むしろ先手をうって吉良の屋敷を襲ってしまえ、と考えていた阿久里だが、柳沢軍が加勢すると知って、自らの運命を悟った。
「幕府の軍が動けば勝ち目はございません。お方様、今すぐ国元へ落ち延びください」
「逃げると言うても、あの柳沢のことじゃ、すでに京の七口は軍勢で固められておるに違いない」
詳しい状況はまだ分からない。だが今は出来ることをしておくしかない。荷物をまとめて旅支度をすると同時に、門を固めて来るべき敵に備えた。
屋敷にはそれほどの人数はいない。幕府の手勢が押し寄せればどれほどの日数を持ちこたえられるか分からない。武者たちはあわただしく軍装を身に付け始めた。
敵が来た。
思いのほか早い来襲である。防戦準備も逃亡準備もまだ十分ではなかった。
「すでに屋敷の四方を囲まれております」
「抗っても勝てぬ。とりあえず今は偽りでも降るしかあるまい。生きていさえいれば、他日必ず御屋形様の仇を討つ。吉良と柳沢の首を獲る。だから今は屈辱を耐え忍ぶ」
阿久里の眼から一筋の涙が落ちた。だが、その視線は強い光を放っている。
(臥薪嘗胆)
阿久里は何度も胸の内で繰り返した。
(御屋形様、これは一時の方便です。必ず吉良の首を獲ります)
開門して阿久里が自ら敵前に姿を現すと、伝統的な大鎧を着て弓を持った大将らしき騎馬武者が二人、こちらを睨み付けている。
「それがしは、吉良上野介が家来、小林平八郎」
「同じく清水一学」
亜久里は二人を一喝した。
「小林とやら。無礼であろう。なんのゆえ有ってこのような物々しいことをなされる」
「公方様の命でござる。謀反人の屋敷を成敗いたす」
「馬鹿も休み休み言え。何が謀反人じゃ、この阿呆たれ」
男たちを圧倒する気迫である。阿久里は敵の全容を冷静に見渡した。背後に柳沢家の旗が風になびいている。その傍らに栗毛の馬に乗った大将がいる。それを見て阿久里は大音声を発した。
「そこにおわすは柳沢美濃守殿であろう。そのような後ろにいるとは、何とも臆病なことよ。よっぽど浅野の武威が恐いと見えるのう」
柳沢も武士である。大勢の前で、女にここまで言われて前に出ないわけにはいかない。柳沢はわざと余裕の表情を作って、威厳を見せながら、ゆっくりと駒を進めて最前列に出た。
「これはこれは浅野の奥方様。お勇ましいことで」
馬上の柳沢は、緋縅の大鎧を身に付けた阿久里を見て不敵な笑みを浮かべた。
阿久里は小林や清水のような雑魚には用はない。天下を牛耳る管領に、浅野家への謝罪と名誉回復、そして吉良への処罰を求めるつもりだった。そうでなければ理不尽に殺された夫の面目が立たない。恨みが晴らされない。許されることではないし、耐えられることでもない。阿久里には泣き寝入りをするつもりは毛頭無かった。
だが敵は天下を治める幕府の管領である。そしてこれは交渉事である。兵力からいって浅野側は弱者であり最終的には妥協しなければいけない立場にはある。
それでも、少しでも有利な条件を勝ち取るため、強気な所も見せておかなければ舐められてしまう。
「すでにご存じとは思うが、浅野殿は殿中で不始末を起こしたゆえ、討ち果たした。謀反人である。ゆえに、謀反人の巣窟である当屋敷を焼き払う。これは公方様の命である」
「我らをどうするおつもりか」
阿久里は交渉に入った。
「討ち果たすのみ」
「当家にも言い分はある。亡き殿に代わって公方様と吉良殿に申し開きをさせていただきたい。公方様に拝謁したい。それまでの間、しばし軍勢を動かすのは待っていただきたい。まして領地没収など、到底受け入れるわけに参らぬ」
「何を寝言を言っておる。ここにおるのは謀反人じゃ。問答無用」
「問答無用と申すならば、こちらにも覚悟がある。それでもよろしいかな」
薙刀の刃を煌めかせながら、阿久里はドスのきいた声で凄みをきかせた。お歯黒に真っ赤な口紅そして眉毛を剃って天上眉を描き、真っ白な白粉で顔一面を覆った伝統的な化粧には一部の隙もなく、その表情は悪鬼羅紗そのものだった。
「この屋敷の者は、みな死を覚悟している。最後の一兵になるまで戦い続けるつもりじゃ。死にたくなかったら今のうちに手を引かれよ」
「勝手にされよ。我らは公方様の命に従うのみ」
阿久里の恫喝にも、柳沢は動じない。
「都で騒乱を起こせば、帝や公方様が黙っておられるかな」
柳沢は冷笑を浮かべて言い返す。
「すでに公方様のお許しももらっておる。浅野には大層ご立腹じゃ。公方様が認めた事なら、今の帝は何も言わぬ」
交渉の余地はなかった。彼らは初めからこの屋敷を殲滅するつもりで軍勢を繰り出してているのだ。
死ぬしかない。
ならば、一人でも多くの敵を倒して冥土への道連れにするしかない。同じ死ぬのならば、浅野家の武威を天下に示すしかない。
阿久里は覚悟を決めた。
「おのれ柳沢、吉良。浅野武士の恐ろしさを目にもの見せてくれるわ。覚悟せい」
阿久里が矢をつがえて弓を引き絞ると、柳沢は慌てて後方へ退いた。
「臆病者め」
亜久里は高笑いすると矢を射ずに、門を閉じるよう兵に命じて屋敷内に戻った。
天下を治める管領がこんな所で矢に当たるわけにはいかない。たとえ臆病者と女にののしられようとも、戦に勝ってしまえばいいのだ。柳沢は右手を大きく上げて攻撃命令を発した。
「掛かれぇ」
足軽八人が持つ巨大な丸太が門に叩きつけられた。蝶番がわずかに緩んだがまだ揺るがない。丸太は後ろに後退し、改めて第二撃を加える。三度、四度、五度目に丸太の直撃を受けた時、閂と蝶番が破壊されて門が開いた。
鬨の声を上げて寄せ手が屋敷内に足を踏み入れた瞬間、矢の雨が降り注いだ。前列の数人が倒れた。
しかし寄せ手は大軍である。後続の兵たちが次々と押し寄せて来る。たちまち激しい矢戦が始まった。
兵力の差ははっきりしている。浅野勢が十本の矢を射る間に、吉良、柳沢勢は百本の矢を返してくる。その中でも小林平八郎は驚くほどの早技で次々に矢を放ってくる。しかも正確に敵を射抜いていく。浅野武士は平八郎の矢を受けて次々に倒れていった。
やがて燃え盛る松明を手にした足軽たちが現れて屋敷内へ投げ入れた。さらに火箭も放ってきた。
あっという間に火の手があがる。紅蓮の炎が屋敷を包み、黒煙が立ち込めた。炎が阿久里の頬を赤く照らしていた。その中で浅野の武者たちは次々に討ち死にしていった。ある者は矢に眉間を射抜かれ、またある者は薙刀で首を落とされ、燃え上げる屋敷には浅野兵の死体が転がり、血が床を濡らした。
阿久里は自ら薙刀を振り上げて敵を倒した。その姿は鬼神に似ていた。阿久里の鎧に矢が刺さる。だが貫通することはなく、刺さったことさえ気が付かずに暴れ回っている。
これが清水一学の目に留まった。吉良家一の強弓を自認する一学は、自慢の大弓を大きく引き絞った。
「この距離で、あの鎧」
貫通させる自信はあった。が、もし貫通できなかったら「吉良家一の強弓」の名が廃る。気が強いあの女は、これ見よがしに言い触らすに違いない。清水は強弓の誇りを捨てて、矢の強さよりも正確さを優先し、顔面を狙った。
矢が放たれた次の瞬間、阿久里が転倒した。頬には一筋の矢が立っている。
阿久里は自らの最期を悟った。
「介錯を…。首、渡すな…」
矢が刺さった醜い顔を衆目にさらされるなど、女として耐え難かった。
鉢巻を締めて鎧兜を着た侍女が、薙刀で主君の首を落とすと、白布で包んで屋敷を脱出しようと庭へ走り出た。
だが吉良の足軽数名に囲まれた。
「それは奥方の首じゃな」
「知らん」
「討ち取れ」
足軽どもは女といえども容赦はしなかった。侍女を一刀のもとに斬って捨てると、阿久里の首を奪って歓声を挙げた。
浅野屋敷が燃えている。紅蓮の炎が天を突くほどの高さまで上がり、黒煙が辺り一面を覆い尽くした。都人たちは類焼を恐れて家財道具を荷車に載せて逃げる準備をする者も多かった。この日は風がなかったのが幸いして都を焼き尽くす大火にならずにすんだが、炎は遠く東山からも見えたという。
日が暮れる前に浅野屋敷は焼け落ちた。焼け残った柱も真っ黒に炭化し、黒焦げの死体は顔を判別することができないほどだった。
柳沢吉保は焼け跡を検分すると、悠々と兵を引き上げた。
続く