(二)処分
将軍は激怒した。
「浅野内匠頭を切腹させよ。すぐじゃ、今すぐじゃ」
「ははっ」
「それから、浅野家は領地没収、お家断絶じゃ」
血走った眼を見開いて、甲高い声で絶叫した。
「うけたまわって候。公方様のご威光に傷を付けた不埒な浅野は許せん」
管領、柳沢吉保は将軍の機嫌をとるのに必死だ。
奥の間に軟禁された内匠頭は興奮冷めやらぬまま叫び続けていた。
「吉良上野介、生かしてはおけぬ」
やがて襖が開いて柳沢が現れた。
「公方様の命である。浅野内匠頭、切腹申し付ける」
「な、何ぃ」
「今すぐこの場で腹を切れぇ」
「阿呆抜かせ。喧嘩両成敗じゃろうがぁ」
「それから、浅野家は領地没収、お家断絶じゃ」
「ふざけるな。そんな命に従えるか」
「公方様の命に従えぬと申すか」
「領地没収など笑止千万。馬鹿も休み休み言え。何が公方様の命じゃ。おぬしの言葉など信用できぬ。今すぐ公方様に会わせろ」
「浅野殿、神妙にいたせ。畏れ多くも勅使を迎えた神聖な儀礼での乱暴狼藉、許すわけにはいかぬ。領地は没収。おぬしは切腹せい。今すぐ腹を切れ」
「うるさい。こんな所で死んでたまるか」
内匠頭は瞬時に頭を巡らせた。どうすれば生きて帰ることが出来るかを。御所の間取りを思い出す。どこにどの部屋があり、廊下はどこに通じているか。庭に出て門を突破するか、それとも塀を乗り越えるか。御所から出てしまえば、あとは五条の浅野屋敷まで運を天にまかせて走るだけだ。
とにかく今は死ぬわけにはいかない。死んでしまえば「死人に口なし」で「浅野は阿呆だった」といわれなき不名誉を子々孫々まで言われ続けるかもしれぬ。
内匠頭は立ち上がって部屋を出ようとした。周囲の者が二人がかりで押さえつける。しかし内匠頭は暴れて抑えきれない。
腰にしがみつく者に膝蹴りを喰らわせると、そいつは鼻血を出して崩れ落ちた。もう一人の顔面に拳を叩き込むと、内匠頭は襖を蹴り倒して廊下に飛び出した。
「逃げるぞ、追え。捕まえろ」
柳沢が絶叫する。
周囲の者たちを薙ぎ払いながら、浅野内匠頭は姿を消した。
「門を閉めよ。何人も外へ出してはならぬ。狼藉者を逃がしてはならぬ」
遁走したとはいえ、御所の外へは出ていないはずである。武者たちは、急ぎ脛当と籠手を着けて軽武装となり、薙刀を持って内匠頭を探し始めた。
「どこへ消えた」
「隈なく捜せ。乱心者を逃がすな」
御所内に緊張した怒声があちらこちらで聞こえた。
捜索はさほど時間がかからなかった。
「いた。いたぞ」
御所内に緊張が走る。軽武装した武者たちが声のするほうに走る。弓を携えている者もいる。
塀を乗り越えようとしていた内匠頭は、十人ほどの追手に囲まれた。
「こんな所で死んでたまるか。わしを殺したら怨霊になって憑りついてやるわい」
内匠頭は叫びながら短刀を煌めかせて討手に向かって行った。もはや自殺的な戦闘といえるだろう。
抜き身の短刀を持った半狂乱の男に近づいて怪我をしてもつまらない。いかに将軍の命とはいえ自分の生命は惜しい。これだけの人数がいるのだから自分が闘わなくても乱心者を取り押えることは出来るはずだ。
誰もが同じことを思った。誰か他の人がやってくれるだろう、と。内匠頭を取り囲んだ追手は見ているばかりで手を出さない。
駆け付けた柳沢はその光景を見て眉間にしわを寄せた。
「お前ら、何をしている。早う討ち取らんかい」
管領の言葉を耳にしても、誰もが様子を見ているだけだ。やがて弓矢を持った武者が五人ほど駆け付けた。彼らは重藤の弓を満月の如く引いて狙いを定めた。乾いた弦音が御所に鳴り響いた。
胸と肩と顔面に矢が突き刺さる。血が滴り落ちて庭の土を汚した。内匠頭は、血走った眼を見開いて武者たちを睨み付けた。その瞳には怨念が込っている。
再び弦音が響き、二の矢、三の矢が突き刺さる。いにしえの弁慶のような姿になった浅野内匠頭の肉体が音を立てて崩れ落ちたのを見ると、さっきまで様子を見るだけだった武者たちが、我先にと首を獲りに殺到した。