夢で逢えたら
――これは、夢だ。
頭に霞がかかったような意識の中で、そう思った。
目の前に広がる光景はどれも美しかった。
雲ひとつない澄んだ青空はどこまでも続いていたし、真っ赤に燃え上がる太陽は空をオレンジ色に染め、宝石を散りばめたような夜空は手を伸ばせば届きそうなほど近い。
私は、色んな景色を見た。そして、そんな私の隣には必ず……彼が、居た。
彼は、私と同じ年ほどの少年だ。
闇に溶けるような黒髪と、夕焼けのように赤く赤く燃え上がる瞳。すっと高く伸びた鼻と、薄い唇。肌は陶器のようにつるりとしていて、切れ長の目。
少女漫画のヒーローが実際に居たらこんな感じになるんだろうな、という整った顔立ちをしていた。
彼はよく笑った。そして、私をよく見ている。じぃっと観察するように、温かく慈しむように、何かを訴えるように、私を静かに見つめてくる。
私は、彼を知らない。だというのに、不思議と彼の隣は心地が良かった。まるで生まれた頃からずっと隣に居たような、そんな錯覚に落ちる。
そもそも、これは夢なのだ。
頬を撫でる柔らかい風も、全身に降り注ぐ太陽の温もりも、全て脳が見せている虚像に過ぎない。
不思議な気分だった。夢だと自覚しているのに、時間が過ぎるのはゆっくりだった。
朝が来て、昼を迎え、夜に眠る。私は彼と旅をしていた。なぜなのか、どこに向かっているのか、何もわからない。ただ、彼と過ごす時間は穏やかだった。
春の陽だまりの下でうとうとと眠気に誘われるような、心も体も安心しきったような、そんな時間が過ぎた。
現実では一晩しか経っていない。けれど、夢の中では数ヶ月が経っているように感じた。
これは夢だから、起きたら忘れてしまうかもしれない。
そんなのは嫌だ、と心が悲鳴を上げる。
彼と過ごした時間を、温もりを、感情を、忘れてしまうなんて。
夢で会っただけの相手を好きになってしまうなんて、私はおかしいのかもしれない。
――それでも。
彼の横顔を見てトクトクと高鳴る鼓動を、笑いかけられて大きく跳ねる心臓を、私は否定したくない。起きたら忘れてしまうかもしれない、たかが夢。
そんな私の気持ちを見透かしたように、彼が笑った。
「ね、また会いたくなったら、僕の名前を呼んで?」
いたずらっ子のように目を細め、楽しそうに笑っている。
細めた目の奥で、赤色がチロチロと覗いている。獲物を定めた蛇の舌みたいだ、と思った。
「名前を呼んだら、また会えるの?」
期待を込めて、そう問いかけた。
これは夢だよ、と冷静な自分が告げる。わかってるよ、と感情的に返す。
「もちろん。会いに行くよ」
私の心をかき乱すように、彼は小指を差し出した。
指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます。
幼い頃、友達と交わした歌を思い出す。高校生にもなって指切りをすることになるとは、流石に思っていなかった。
クスリと小さく笑って、私は自分の小指を絡めた。
彼の小指に触れると、厚みのある空気の固まりのような感触が伝わってくる。
目の前に居る彼は実在する人間ではないのだと理解して、胸の奥がじんと痛む。
「約束。名前を呼んだら、会いに来て」
視界が歪む。
ゆらゆらと水面のように揺れ、目に張った涙の膜を拭おうと手を動かすと、彼の手がそれを遮った。
壊れ物に触れるような優しい手で、私の涙をすくい取る。
「いい? 僕の名前はね――」
ピントの合っていないぼやけた視界の中で、彼の唇が動いた。
耳に乾いた機械音が刺さり、眉を寄せる。
見知った制服が視界に入り、自分がまぶたを閉じていたことに気づく。
ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返し、だらしなく開いた口の端からよだれが垂れかけたところで、がばりと勢いよく体を起こす。
起こした体から飛んでいった布団はサイドテーブルに当たり、テーブルの上でけたたましい音を上げていた時計が床に転がり落ちた。
慌てて時計を拾い上げて時間を確認すると、家を出る五分前を指していた。
ギャー! と声にならない悲鳴を上げ、部屋着をベッドの上に脱ぎ散らかし、ハンガーにかけられた制服に着替える。
床に置かれた鞄をひっつかんで階段を駆け下りた。
一旦鞄をリビングのソファの上に放り投げ、洗面所に走る。台所に居たらしい母親の鋭い声が背後から飛んでくるが、反応している時間はない。
蛇口をひねり、勢いよく飛びできた水を手のひらですくって顔にぶつける。
水の勢いが強すぎて制服の襟が濡れたとか、前髪がビショビショになったとか、そんなことを気にしている場合ではない。
タオルで濡れた顔をこすり、前髪から落ちる雫を振り払ってソファに置き去りにした鞄を再びひっ掴み、靴のかかとを踏みつけながら玄関を出た。
走れば間に合う。走れば間に合う。
つま先を地面に叩きつけ、かかとを靴に押し込む。
ふぅー、と息を吐いて吸って、キッと前を見据え私は地面を強く蹴った。
「間に、合った……」
ぜぇぜぇと息を切らして教室に滑り込んだ私は、席に素早く腰を下ろした。
疲労が溜まった体を机に支えてもらっていると、後ろの席の友達に背中を突かれた。
「珍しーじゃん、寝坊した?」
「うん……まぁね」
はぁ、と息を吐き出す。寝坊した原因を思い出して、きゅっと眉を寄せた。
夢の内容は、ハッキリと記憶に刻まれていた。
彼と見た美しい景色の数々と、彼への想いもバッチリ残っている。だからこそのため息だ。
目覚ましの音と彼の言葉がかぶってしまい、彼の名前を聞けなかったのだ。
これじゃあ、名前を呼んだら会いに来る、という約束をしても意味がない。
今でもまぶたを閉じれば、美しい景色と彼の笑顔がよみがえるというのに。
はぁぁ、今度はさらに深いため息をついた。
夢で会った男の子に恋をするなんて、どうかしてる。
彼は、名前を呼んだら会いに来ると言った。
しかし、夢を見ていれば彼とまた会えるんじゃないか、という希望があった。
昼休み、弁当を片付けた私は机に突っ伏していた。腕をクッション代わりに顔を乗っける。
まぶたを下ろし、身動ぎせずに睡魔を待つ。
教室の喧騒が耳に刺さる。話し声、笑い声、椅子を引く音。普段は気にならないような音がキンキンと頭に響き、酷く不快になる。
これじゃあ寝るに寝られない。授業を受けている時は頼んでもないのにやって来る睡魔は、こういう時に限って訪れる気配を見せなかった。
結局、昼休みに眠ることはできなかった。
授業中も、彼の笑顔が頭に浮かんだ。
島と島をまたぐ大きな虹、空を覆うオーロラ、降り注ぐ流星群。記憶に新しいそれらの景色を見る時、いつだって彼が隣に居た。
ぼんやりと窓の外を眺めていたせいで先生から当てられても何も答えられず、クラスメイトにクスクスと笑われることになってしまった。
恥ずかしいやら情けないやらで、うつむきながら椅子に座る。
教科書を机の上に立て、顔を隠すようにしてそっとまぶたを下ろす。
彼の笑顔が見えた。トクトクと心臓が跳ねる。
――会いたい。
またあの夢を見たい。彼と旅をした、物語のような素敵な夢を。
誰かの”特別”になるのは、自分以外の人間だと思った。
自分以外の人間はみんな良いところがあって、輝いて見える。
勉強ができる。歌が上手い。運動神経が良い。目が大きくて可愛い。モデルみたいにスタイルが良い。髪の毛がサラサラしてる。肌が白い。
特別勉強ができるわけでもなく、運動が得意というわけでもなく、可愛いと言えるほどの顔でもなく、自慢できることもやりたいこともない。
空っぽなのだ。
そんな自分を理解しているから、こんな私は誰かの”特別”にはなれないだろう、と思った。
夢で、彼と出会うまでは。彼と居る時、私は確かに彼の”特別”だった。
私を見つめるあの目が好きだ。
私に触れるあの手が好きだ。
私に向けるあの笑顔が好きだ。
全身で私に「好き」を伝えてくれる彼が、私も好きなのだ。
私を”特別”にしてくれた彼が、私にとっての”特別”になった。
彼に会いたい。
私をもう一度、誰かの”特別”にしてほしい。
「ねぇ、また寝てるの?」
呆れたような友達の声に、意識が浮上する。
まぶたを開けば、予想どおり呆れたような顔の友達が立っていた。
自分の顔が険しくなるのがわかる。
何のために騒がしい教室から離れて保健室に来ていると思っているのか。
お腹が痛いです。頭が痛いです。何だか体がだるくて。
言い訳のレパートリーはすでに枯渇している。
先生たちは最初こそ心配そうに見てくれたけど、同じような理由で保健室を訪れる私に顔をしかめるようになった。
いじめられているのか、悩み事があるのか、病院は行ったか、親には相談できるのか、先生たちから繰り返された言葉だ。
私は分かりやすい人間のようで、早い段階で友達は仮病だと気づいていた。
仮病を使って保健室で眠り続ける私に呆れたのか、心配したのか、わざわざ来てくれたらしい。
それすら鬱陶しい、と感じる。
「眠いの? 寝不足?」
「……そういうわけじゃ、ないけど」
「流石にそろそろヤバくない? 親にも連絡行くんじゃ――」
「っるさいな」
半分無意識に口をついた刺々しい言葉に、ハッと我に返る。
「……何、それ。あっそ、ならもういいわ」
氷のように冷え切った言葉を吐き出しベッドサイドの椅子から立ち上がった友達は、そのまま保健室を出て行った。
引き止めたかったのか、中途半端に伸ばした自分の腕を見つめる。
ああ、やっちゃった。
友達が心配してくれてるってわかっていたのに、イライラが先立ってしまった。
ぎゅう、と唇を噛みしめる。
そっとまぶたを下ろせば、変わらず彼の笑顔が見えた。
会いたい。会いたいよ。会いに来てよ。こんなにも好きなのに、どうして会えないの?
閉じたまぶたが、にじんだ涙で濡れた。
「具合が悪いなら病院に行きましょう? キチンと治療を受けたら、また学校に行けるから」
母親の機嫌を伺うような猫なで声が、尖った神経に触れる。
保健室での一件があって以来、私は学校に行くことをやめた。
友達があの子仮病使ってますよ、と先生に訴えたこともあって、突き刺さる視線に耐えきれなくなった。
どうしてこんなことになったのだろう。私はただ、彼に会いたかっただけなのに。
好きな人に会いたいと思って行動することが、そんなにイケナイことなの?
友達が好きな先輩に会うため、先生に叱られると分かりながら他学年の教室まで行くように、私も夢の世界で彼と会うために眠っただけだ。
人は声から忘れていくと聞いたことがある。
彼と夢の中で会ったのはもう半年前のことで、確かに私は彼の声が思い出せなくなっていた。
怖い。私の名前を呼ぶ、彼の声を忘れてしまうことが。
怖い。時間が経って、まぶたを下ろしても彼の笑顔が思い出せなくなることが。
「会いたい、よ……ユキ」
するりと自分の口からこぼれ出た名前に、ドクンドクンと心臓が大きく跳ねる。
ユキ。ユキ。ユキ。
そうだ、彼が最後に告げた名前は、ユキ。彼の名前を、私の耳はしっかりと拾っていた。
「ユキ、ユキ、ユキ。会いたい、ユキ。会いたい、会いに来てよ……ユキぃ!」
繰り返し彼の名を呼んだ。思い出すように、刻むように、縋るように。
ユキ、会いたい。名前を呼んだよ、会いに来て。約束、したもんね?
ユキと会った時は凍えるような寒い冬で、今はじんわりと熱がこもった暑い夏だ。
一年の半分が過ぎてしまった。長い、本当に長い時間だった。
ようやく会えるのだ。焦がれて求め続けたユキに。
嬉しくて涙がこぼれ落ちる。半開きになった口から「へへ」と抑えきれない喜びが漏れた。
扉の向こう側から母親のすすり泣く声が聞こえた。
「どうしてこんなことに……」
やったよ、お母さん。私、もうすぐ大好きな人に会えるんだ。
希望を胸にたっぷりと抱いて、私はベッドにもぐりこんだ。
「会いに来たよ、約束どおり」
目の前に、初めて会った時と変わらない笑顔があった。
「ユキ……?」
「うん。僕の名前」
「ユキ……」
「ふふ、泣きそうな顔してる」
そりゃそうだよ、バカ。とユキを責めたくなる。
でも、ユキと会えたことが嬉しくて、そんなことはどうでもよくなってしまう。
だから、代わりに「へへ」と小さく笑う。
「僕に会いたかったの?」
「うん、すっごく」
「そっか。僕も、会いたかったよ」
細めた目の奥で、赤色がチロチロと覗いている。ユキは口元をゆるめ、私を静かに見つめている。
「ユキ、私ユキとずっと一緒に居たい」
「僕も一緒に居たい。じゃあ、こっちに来る?」
近所に住む友達を家に誘うような軽い口調で、ユキは笑った。
来れるの? 夢なのに? そんな疑問が浮かんだけど、すぐにパチンと弾けた。
「うん!」
私は元気よく頷いた。
ユキはその返事を予想していたようにうん、と小さく頷いた。
「これからは、ずっと一緒だね」
そう言って、ユキは笑った。
赤色の瞳が、ゆらゆら、ゆらゆら、と揺れる。
私も、笑った。
ああ、幸せだなぁ。これでもう、ユキと離れることはないんだ。
『どうしてこんなことに……』
誰かが、泣いていたような気がした。
ちくり、と胸にかすかな痛みが走る。泣いていたのは、誰? 私の、知っている人?
霞がかかったような頭に、人影が浮かぶ。もやもやと揺れるその人影の輪郭が、少しずつハッキリとしてくる。
「それじゃあ、行こうか」
声にハッとしてユキの赤色の瞳を見ると、浮かびかけた人影が跡形もなく霧散する。
私はにっと歯を見せて笑った。
私はユキにとっての”特別”で、ユキは私にとっての”特別”
「うん!」
二度と失ってはいけない、この温もりを。