想いの魔法
書き直し
「な、渚……どうしてそれを……」
「ふふーん、聞きたい? しょーちゃん、聞きたい?」
渚の手に持っているは、黒塗りの催眠術の本。
さっきの変な紋様は、本に描かれた催眠手段の一つだった。
確かな重さを感じるであろう、百科事典かと思える程の厚みを持つソレを、渚は優に振り回している。
幼馴染はまた催眠をかけようと目論んでいるようだ。
それはもう、有り得る筈の無かったもの。
「おかしい、何故だ……催眠術の本は、この手で……ッ!」
「燃やしたはず、でしょ?」
「……!」
後に続けようとした言葉が、先回りして塞がれる。
そうだ、その通りだ。
催眠術の本はあれから取り上げた後、市のゴミ処理場で完膚無きまでに燃やしてもらったはず。
なのに、どうして……!
「簡単な話だよ。催眠術の本は『2つ』あったッ! ただそれだけ」
「な、嘘……」
「変だなとはずっと思ってたんだ。催眠術が掛からない相手が居るなんておかしいもん。万が一の事を考えて、予備を蓄えておいて良かった」
「そんな都合良く在庫がある筈が……」
「書店にたくさん山積みされてたよ」
「なんて事だ」
我が幼馴染は土日、家に引きこもってばっかりだと思っていたが、どうやら違った様である。
いつの間にかこっそりと本屋へ再度行き、予備を補充していたのだ。
どこかずぼらな所がある渚にしては慎重派だ……!
普段ではそんな素振りを一切見せないのに、こういう時だけ知恵が回っている……!
「いや、そもそも何故それを知っている……! 催眠術で記憶を……」
あれから、催眠術を使って渚が起こした一連の悪行に纏わる記憶、その全てを消し去った。
学校の級友たちから、教師まで。両親含む親族から、街の全住民まで。ありとあらゆる人物の催眠術による記憶を消去した。
その中には勿論、事の張本人である渚も含まれる。
決してピンポイントで忘れたりなどしていない。ちゃんと何度も確認したので間違いも無い。それこそ玄関のカギがちゃんと閉まっているか、思わず確認してしまう時の様な慎重さをもって。
なのにどうして……。
「あの後思い出したんだ。消された記憶、その全てが示し合わせる様にして浮かび上がってきたの。まさに愛のパワーといっても過言ではないよね」
「嘘だろう……そんな都合良く上手くいく筈が……」
「そう。それは丁度、しょーちゃんの事を思いながら一人で致していた時だった──」
「愛じゃ無くてタダの性欲だろそれ!?」
「人はまた、それを愛欲と呼ぶ」
渚の催眠術が解け、記憶が戻ってきた理由。
それはとても馬鹿馬鹿しいものだった。初めて使う催眠術だったから強度が弱く、時間が経つとともに消失してしまったのだろうか……。
何たる失態。悔やんでも悔みきれない……ッ!
「それよりもいいのかな~。そんな事言っちゃって」
「っ!」
「それってもう、白状しちゃってる様なものだよね」
「くっ……」
態とらしく蔑む様な声に、思わずハッとする。
これは、誘導尋問に近いものだ。
「しょーちゃん、私ね……とっても悲しかったんだよ?」
「な、何がだよ……」
「私の渾身のASMRにどうして反応を返してくれなかったの?」
「な、ASMRって何の事だよ……」
「もう、わざと表現をボカしているのに……あ、もしかしてASMRの意味が分からなかった?」
巷で流行りの音声型アロマセラピー、みたいな事は聞いた事がある。もしくは催眠音声とも表せられようか。人を眠りに導くという意味の催眠ではあるが。
いや、でも本筋はそうじゃない……。本に嗜む者の身としては、そんな比喩表現くらいは簡単に読み解ける。当然、あの時の告白の事を言っているのだろう。となれば、何が悲しいのか言うまでもない。
気恥ずかしさと気まずさが同居してしまっていたからムリでした──とは、通じませんよね。そうですか。
「ならよ~く教え込む事にするね」
そうやってあたふたしていると、どういう訳か渚が近寄ってきた。
無機質な瞳がこちらをじっと射抜いていて──それよりも遥か先の何かを、覗いている。
「は、はっちゃけ過ぎじゃないか……? いくら何でも……」
「こちとら恥ずかしい事全部聞かれちゃったから、もう立つ瀬が無いの……! 光有る未来は、もう存在しないの!!」
「えぇ……ちなみに、どこまで覚えてるんだ……?」
「だから全部だよ!」
「そうか、全部か……」
「もはや、死なばもろとも……」
となると、催眠術に掛かったフリをしてあげた所をまるまる全て把握されたという事になる。まるで漫才をやっているみたいだ。
光ある所に影あり。
渚もまた、催眠術の影が織り成す闇自身に魅了されてしまったのだろう。悲しきかな。
「とにかく、いい? こうなったらもう、何度でも言ってあげるからね」
「えっ」
そんな事をしみじみと思い染んでいると、反応が遅れた。
突然の宣告と共に、柔らかいクッションの上へと押し倒される。
体重を掛けず、それでいて引き込まれる様に。
器用な事をしているなと、舌を巻いている余裕は無かった。
「いつからだったかな。代わり映えの無い毎日に、いつもあなたが隣にいて。
私はそれが当たり前になっていた。
毎朝、家の扉を開ければ、あなたが待ってくれていて。
そして、いつも同じ時間に同じ道を辿る。
それが私とあなたの日常で──
私はそれを、どんな物にも代え難い最上級の幸せだと思っているの。
あなたが居なかったら、今の私はここに存在しない。
そう思えてしまう程、あなたは掛け替えの無い大切な人だから。
誰にも渡したくないし、あなたの全てを享受したくて堪らないの。
私は──椎名渚は、あなたの事がすき。
すき、好き。だ~いすきなの!
よ~く分かった?」
耳元でそう囁かれる。嘘偽りの無い、愛の告白を。
身震いしてしまう程の内的変化が、途端に脳を駆け巡る。
「とっても恥ずかしいけど……しょーちゃん、分かった?」
「……っ! わ、分かった!」
「ほんとう? もし『え、なんだって?』なんて言おうモノなら、何度だって伝えてあげるからね」
「分かった! 分かったから……!」
押し倒して来た渚は今、膝を付きながらこちらを見下ろしている状態となっている。詳しくは分からないが、割りと手入れされてそうな長い髪が、こちらへしなだれかかってきた。
流石にこのままだと不味いと思ったので、肩を掴んで何とか起き上がらせる。
小さく、態とらしく身体を捩らせてたが、気が付かないフリをした。
「ふふ。いつもの気丈なしょーちゃんなら、もっと強くしてくれるのに……力があまり入ってないよ?」
「勘弁、してくれ……」
何とかして押し返すと、渚を口角を上げて一旦引き下がる。
今度は何をやらかすのかと身構えていれば、小さなテーブルにぽつんと置かれていた催眠術の本を、流れる様にしてその手中へと再度収めた。
『少女が己の焼け付く様な思いを露わにしたのにも関わらず、幼馴染は明確な答えを返してくれません。好きとも嫌いとも言わずに、また放ったらかしのまま』
渚の喋る人称が第三者視点の者へと変わった。
これは、コイツが強化型の催眠術を使う時の合図。読み手を演じるかの様に喋る事で、俯瞰した状態からより局地的な点へと催眠を集中させる、まさに最高峰の催眠術。
『全く、何たる不届き者なのでしょうか』
「い、いやそれは……あまりに衝撃的過ぎて言葉に表せないだけで……。勿論悪いとは思っているが……」
「悪いで済むなら催眠は要らないよ! ……と少女は言いました。こほん』
渚は小さく咳払いをした。
しかし、誤魔化しきれていない。
『だから……業を煮やした少女は、催眠術を使って幼馴染を操る事にしたのです』
「いや、どうしてそうなる」
「ええい、だまらっしゃい! しかし、幼馴染にはどういう訳か催眠術に対する抵抗力があるみたいです。少女が扱う最大の強度を持つ催眠術でも、幼馴染を操る事は叶いません。だから……』
だから。
『少女は新たな、催眠術を開発する事にしました──』
◇
「どう、動ける?」
「な、なぜだ……」
渚がその言葉を口にしてから、途端に動きが鈍くなった。自律神経が乱れていないにも関わらず、身体がうまく言う事を聞かない。
それは間違いなく、体験した事の無い事象だった。
「良かった。意識までとはいかなかったけど、ようやく効き始めたんだね。秘蔵の催眠術が──」
「さいみん、じゅつ……?」
「そう、催眠術だよ」
催眠術。理由は分からないが、ソレの耐性が有った自分は終生、渚の催眠術には絶対掛かる事は無いと自負していたが──しかし何だろう、この体たらくは。
何か超常的なモノに作用された感覚に陥ったまま、脳が描く信号と己の未来が全く合致しない。
操り人形にされている様な、自由意志が働かないもどかしさを感じる。
「催眠術は効かなかった筈なのに……!」
「そう。効かなかったから、新しいのを生み出したの。制約付きで、さらなる効果を発揮するやつをね。結果、見事成功したみたい」
「制約、付き……?」
「その制約が何か、聞きたいよね。いいよ、すぐに教えてあげる」
渚は、勿体ぶる素振りも見せずにその先を続ける。
「この秘蔵の催眠術はね。私の事を、少しでも異性として意識している──そんな人にしか掛からないの」
その催眠術の制約は、とてもシンプルなものだった。
「えっ、なっ」
「この催眠術にしょーちゃんが掛かってくれたって事は、私達は両思いだったって事になるよね。嬉しいなあ」
「……?!」
渚が今、使っている催眠術。しかしそれは、相手の意思を奪うものではなく、想いを知る為のモノだった。これを使って、いつまで経っても返事を返さない幼馴染から、明確な答えを引き出したというワケだ。
なんてロマンチックなんだろう、凄いね。
コイツ、やりやがった……!
「な、渚……おま、なんて事を……」
「返事を有耶無耶にしようとするしょーちゃんが悪いんだよ」
「ムチャクチャすぎる……!」
「ふふ~ん。どうしたの、恥ずかしいの?」
「くッッ……!」
「催眠術が全く掛かってない事を知った時は、私も同じくらい恥ずかしくて悶たんだからね? 思い知った?」
とても、その身で思い知った。催眠術による告白といえど、それはれっきとした真の思い。有耶無耶にしようとしている事に渚が怒っているのは分かる。
分かるが……!
しかし、断固として抗議したいッ!
「ず、ずるいぞ……!」
「なにがなの~?」
「催眠術の制約が、だ……!」
「制約?」
そう、制約だ。
渚が今しがた使った催眠術は……余りにも──
「余りにも、制約が緩すぎるッ!」
「ほえ?」
広範囲へ伝搬させるモノでは無く、指向性を持って発された催眠──それは普段よりも遥かに強力になるらしい。我が幼馴染が言う、催眠術が効果をもたらす対象。それに自分が引っ掛かってしまったというワケなのだが、どうにもこれは理不尽だ。
抗議せずには居られない。
「だいたい、その……生きていく中、異性の幼馴染が居たら、大なり小なり意識するだろ……」
「ほうほう」
「それを考慮せずに、両思いだって決めつけるのは早計……ではないだろうか」
「ふむふむ」
小さい頃なら分からないが、もうお互い高校生である。よほどの鈍感野郎で無ければ、どうやっても性差というのは意識下に入ってしまうだろう。
渚が言う、少しでも意識しているというのは、定義がかなり広いのだ。
それに、あんな事を言われた後だ。意識をするなと言う方が難しい。
「ふ~ん。つまりしょーちゃんは、その想いが偽物だと。そう言ってるんだね?」
「い、いやそこまでは」
「自分の想いが一番分かるのは、自分自身だけなのに。そんな事言っちゃうんだ」
「うっ……」
「へぇ、そうなんだ~」
渚は攻める様な物言いをしながら、それでいて何故か余裕を崩さない。
まるで、事が台本通りに進んでいるかの様に後を悠々と連ねていく。
何か、嫌な予感がする。
「ふふ。ごめんね、しょーちゃん。私嘘付いた」
「えっ」
「その催眠の制約はね、そんなちゃちなモノじゃないんだ」
「えっ」
含みがある言い方をしながら、渚が笑う。
柔和で、穏やかな笑みだ。
とても嫌な予感がする。
「私、とっても嬉しいの。ただ想って貰えるだけで、こんなにも満たされるんだね」
「なにを……な、なにを言っているんだ?」
「簡単な話だよ? しょーちゃんに催眠を掛けるには、もっと強い制約じゃないとダメって事なの」
「強い、制約……?」
「そう、とびきりのやつだよ。分からないの? じゃあ教えてあげる」
渚はそう言って、恍惚の表情を浮かべながらその身を小さく捩る。
どこか遠い異国に揺蕩う清涼な波が、打ち寄せてきた様な気がした。
身体の芯から徐々に訪れる、めまいにも近い官能。
それら気が遠くなる様な想いを存分に体現しながら、ゆっくりと渚が近づいてくる。
「私が使った催眠はね。私の事を恋愛的な意味で、心の底から好きな人にしか効果が無いの」
渚は、そう言った。