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黄桜亭の日常  作者: 紫乃緒
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六品目:クレープ

 かつ、かつ、かつ、規則的な足音が石畳を叩く。蹴りだす足はまっすぐで、その足取りには迷いも躊躇いもない。彼が通った後に甘い芳香が漂う。バニラのような、蕩ける甘さの香りだ。書類を抱えた事務官の一人がその香りに気付いて踵を返す。それに続くように技師や黒いコートの死神たちも思い思いに離れていく。


 煙草を咥えたまま、彼―タナトスは歩いている。吹かすこともなくただくゆらせている煙草が、甘い香りを遺していく。目的地が視えたところでタナトスは足を止めて咥えていたままの煙草に手を伸ばし、大きく吸い込むと火が点いたままのそれを握りつぶす。ふぅ、紫煙を吐き出すと同時に手の中のものが《消滅》したことを確認して面倒くさそうにもう一つ息を吐いた。

 足早に歩きだし、そのままの勢いで豪華で大仰な扉を蹴り開ける。


『行儀が悪いぞ、タナトス』

『何の用、』

『扉は手で開けるものだ、それに蝶番ちょうつがいが傷むではないか』

『痛いのは僕の頭だよ、用件はなに』


 豪奢な執務机に載せられている書類から視線を外すことなく小言を放ってきた冥府の王に、敬意すら払うことなくタナトスは詰め寄る。


『なに、大したことではない』

『だからなに』

『くれぇぷ? とやらが食べたい』


 たっぷりとした冷たい沈黙が執務室に満ちた。こそりとも音を立てるものが居ない奇妙な静寂が数十秒は続いて、部屋の隅に控えている近従が顔を見合わせたところで、


『くれぇぷとやらが食べたい』


 念を押すかのように冥王が同じ調子、同じ声色で繰り返した。


『………………』


 タナトスは表情を変えることなく無言のまま180度回転した。つまり踵を返して出ていこうと、した。が、妙に素早い動きをしたハーデスに行く手を遮られる。


『待て、貴様は食べたことがあるのか?』

『興味ない、』

『だいたい貴様もアラストルもずるいぞ! いつだって美味いもの食べてるだろう!』


 詰め寄る冥王に漆黒の死神は本日何度目かの嘆息を漏らした。


『言いがかりはやめてくれない、そんなに食べたいなら鬼桜のとこにでも行ってくればいいじゃない、なんでわざわざ僕を呼ぶの。

 斬りつけなかっただけ優しいと思いなよ』


 そこでようやく納得したように冥王はぽむ、と手を打つ。


『それもそうだな、では鬼桜のところへ行ってくる、あとは頼んだぞ!』


 ばさり、とローブの裾を鳴らし、タナトスが言われた言葉を咀嚼して理解したころにはもうその背中は見えない。


『……は?』







 桜が咲き誇っている。柔らかで薄い花弁を房のように開き、ひらりひらりと舞うように。

 幾度となく訪れている場所だというのに、毎度咲き誇る黄色い桜の美しさに幻想的なものを感じてしまう。それとも此処に棲んでいる主が《そう》だからこそなのだろうか。自嘲に似た笑みを浮かべてハーデスは引き戸を開ける。カラカラという小気味よい音と同時にふわりと鼻をくすぐる珈琲の香ばしくも甘い香り。


「いらっしゃいませ」


 軽く一礼をしつついつもの調子で出迎えてくる店主の姿は黒い着流しに薄い黄色の桜の染め抜き。白い前掛け。全く《いつも通り》で変わらない。

 大仰な仕草で頷き、最早定位置と化したカウンターの椅子に腰を下ろす。

 目の前におしぼりと冷茶をサーブしたところで、店主が口を開いた。


「本日はどうなさいましたか」

『黄桜よ、よくぞ聞いてくれた!』


 うむうむと頷いて、おしぼりで手を拭う。冷えたおしぼりの感触が心地よい。拭い終わり、きれいにそれを畳みなおしてカウンターに置いたところで冥王は漸く口を開いた。


『くれぇぷとやらが食べたいと言ったらタナトスのやつが仕事を代わってくれると言ってくれてな! 休憩に来たのだ!』

「…………左様でございますか」


 冥王の言葉に異を唱えるような愚かなことをしない黄桜は、柔らかな笑みを絶やさない。恐らく彼の想像通りにタナトスが代役を務めるとは思えないし、素直に休憩を促すなんてこともないだろう。しかし、ハーデスがそう思っているのだから水を差すだけ野暮というものだ。


「しかし、クレープですか、」

『アラストルが絶賛していたのだ! とても美味だとな!』

「元々はパンケーキの一種で小麦の栽培が難しい地方で蕎麦を栽培しそれを粥にして食べていたものを偶然焼けた石に落としてパン状に焼きあがるのを発見し、石を意味するガレットと呼ばれるようになったとか。

 現在では主に小麦粉に牛乳やバター、鶏卵などを混ぜて作る生地が多いようですね。焼き目が縮緬のように見えることからクレープと呼ばれるようです」

『ほぅほぅ、』

「クリームやフルーツを挟み込み菓子のように食すものをクレープ・シュクレと呼び、肉や野菜、チーズなどを挟み込んで軽食とするものはクレープ・サレ、と呼ばれるようです。まぁ、大まかな分類ではあるのですが」

『料理ひとつにいろいろな呼び名があるものだ、』

「多種多様な調理法、調味がありますからねぇ……では、冥王様に合わせて一番スタンダードで絶大な人気を誇るクレープをお出ししましょうか」


 白磁の平皿がカウンターに置かれる。つるりとした表面の光沢に、三角形に折りたたまれた薄い茶色の生地。ふわりと上がってくる香気は甘さよりも清涼感を感じさせる。ぷっくりと膨れた薄い生地に透けているのは餡子だろうか。

 指先で持ち上げるともっちりとした生地の弾力がある。そのまま、一息に口に放り込む。と。


『…………美味い!』

「左様ですか」

『餡の甘さと生地から香る風味のバランスがちょうど良い、しつこくなく、いくらでも食べられそうだ!』

「それは良うございました、餡子なしの堅焼きも宜しければどうぞ」


 次いで出された小皿には長方形で弓なりの焼き菓子が数枚置かれている。口に運ぶとぱりぱり、サクサクとした口当たりに次いで香るシナモンと甘味がたまらなく美味しい。

そう、それは《八つ橋》だったのだ。


『これもまた美味だな!』

「左様ですか、お気に召して頂けたなら良かったです」


 言いながら、黄桜はほうじ茶をサーブする。手を付けられなかった冷茶をさりげなく下げて、黄桜はおしぼりまで交換しておいた。

 湯気を立てるほうじ茶を啜り、冥王は満足げに頷く。


『堅焼きの方が私は好みかもしれん、これならば執務中の息抜きにもちょうど良いだろう』

「お持ち帰りになりますか?」

『む、そこまで貴様が言うなら持ち帰ろう!』

「《冥王様にだけ特別》、ということにしておきましょう。他言無用ですよ?」


 差し出された小さな箱を満面の笑顔で懐に入れる冥王を、微笑ましい気持ちで黄桜は見ていた。他言無用と強調したのは当然、《これ》が「クレープ」ではないことを指摘されたくないという意味合いもあった。

 良くも悪くもこのままでいて欲しいものだ、とぼんやりと黄桜は思う。


『解った、ではこっそり食べるからな!』


 純粋無垢な笑顔は威厳もなにもあったものじゃない。まるで子供のようだ。

 だがしかし、それがこの冥王の良いところでもあり欠点でもあるのだ。






「いくつか味のバリエーションを変えておいたので後のお楽しみにしてください」

『おお、流石黄桜、気が利くな!』






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