五品目:プレッツェル
しとしとと雨が降っている。雨音を生むほどには大きくない雨粒が静かに桜の花を揺らす。濡れそぼる花弁はくすんでいるようにも見えるが、元々の黄金に近い色味が更に深く濃くなっている気もする。
「……それで、本日はどのようなご用向きですか?」
嘆息を言葉に混ぜながら、黄桜は飴色のカウンターに肘をついて考え込んでいる様子の人物に声をかけた。
常ならば芝居がかった仰々しい仕草で入店してくる根の国の王が、今日に限って言葉少なく店主である黄桜の言葉にも、ああ、と返しただけだ。
暗く重い表情を浮かべる冥王に、黄桜は少しだけ困ったような表情をしたが、そのうち何か言ってくるだろうと思考を切り替えた。天気も相まって相手をするのが少々面倒くさくなったといえば語弊があるだろうが、こんな静かな雨の日くらい、穏やかに、静かに過ごしたいというのも黄桜の本心だ。
戸棚からコーヒーミルを取り出し、焙煎して熱を冷ましておいたコーヒー豆を入れる。どこで手に入れたのか、若干旧式の型のようだ。摺り臼式のコーヒーミルで、ハンドルや四方がすり減っている。使い古された印象さえ与えるが、がりがりという独特の音と同時に店内に広がっていくかぐわしい芳香に、そんな印象などどうでも良くなってくる。甘いような苦いような、香ばしい芳香。今日の焙煎もなかなかうまくいった、と黄桜は自画自賛する。コーヒーというのはなかなか奥深く、豆の種類や焙煎の程度で全く味が変わってくる。好みの粗さに挽けたら用意しておいたサイフォンのアルコールランプに火をつける。漏斗にコーヒー豆を入れ、コポコポとお湯が沸騰しているのを確認し、漏斗を差し込む。
じわりじわりとお湯が漏斗に上がってくるのと同時に、黄桜は用意しておいた竹べらで漏斗の中身をぐるぐると攪拌する。と、一層甘く香ばしい香りが店内に満ちていく。30秒ほどそのままゆっくり加熱し、アルコールランプを消す。また漏斗の中身を攪拌し、ゆっくりとフラスコにコーヒーが降りていくのを待つ。
満足する抽出結果だったようで、黄桜は軽く頷くと、温めておいたコーヒーカップにコーヒーを注ぐ。甘い香りのするそれを、ソーサーに乗せてカウンターに肘をついて厳しい表情をしたままの冥王にサーブ。
流れるような仕草でミルクと角砂糖を入れた小瓶を差し出すのを忘れないあたり、黄桜らしい。
カップから昇ってくる甘い香りに、冥王は少しだけ表情をほころばせた。ティースプーンでコーヒーを混ぜながらミルクを注ぎ、角砂糖をひとつ、ふたつ、みっつ、と入れたあたりで黄桜が苦笑する。
冥王はブラックコーヒーが飲めない。いや、時々は格好つけて飲もうとするが、どのように苦みを抑えたブレンドにしてもブラックのままでは絶対に手を付けない。メランジェやカイザーメランジェなどの甘味を強くしたものを提供したことがあるが、それではコーヒーの香りが楽しめないとわがままを言われてしまった。面倒な客だが、それはそれで冥王らしくていいと思っている。
角砂糖を5つほど入れたコーヒーを口に運び、満足したように頷く冥王に、果たしてあの液体はコーヒーなのだろうかと思ったが、それを言葉にも表情にも出さなかった。
「実はだな、黄桜よ……」
いつものように芝居がかった仕草でコーヒーカップをソーサーに戻し、伏せていた目をまっすぐ店主に向ける。月色の瞳はけぶるような睫毛に縁取られている。さらりと流れた髪も、瞳と同じ月の色をしている。
「何でしょうか」
使ったサイフォンやコーヒーミルを手際よく片付けながら黄桜が言葉を促す。
「ぷ、ぷろ、ぷれ?」
「……はい?」
「ぷろちぇる? とはなんだ?」
冥王から吐き出された言葉に、一瞬思考が停止する。が、頭脳の冷静な部分で該当する単語を検索を開始していた。
「……プレッツエル、ですか?」
「おお、それだそれ!」
得心がいったとばかりに冥王は手で膝を叩く。つまりはその単語が思い出せずに沈黙を保ち、思い出そうとしていたのだろうか。
「アラストルとタナトスが談笑しておるものだからこっそり聞き耳を立てていたのだ。しかしよく聞き取れなくてな、嗚呼、喉に引っかかった小骨が取れたようだ!」
「……左様でございますか」
「で、その……ぷれちぇる? とはなんなのだ」
「元々はラテン語でbrachitellum、語根は bracchium、腕という意味があり、独特の腕を組んだような形をした焼き菓子です。小麦粉とイーストを原料として焼く前に数秒間水酸化ナトリウム水溶液につけ、焼き上げます。焼き上げる間に空気中の二酸化炭素と反応して炭酸ナトリウムと水に変化し、表面が特徴的な茶色になります。アルカリ溶液を意味するLaugeを付け加えてLaugenbrezelと呼ばれることもあります。
……今回はプレッツエルをご所望ですか?」
黄桜の説明をふむふむ、と訊いていた冥王は、鷹揚に頷いた。
「狡いと思わぬか、黄桜よ、私は冥府で常に仕事をしているというのに、アラストルもタナトスも人界でうまいものを喰っているのだ!」
「……左様でございますね。
本格的なプレッツエルは岩塩の粒をまぶすのが通例ですが、あいにくと在庫を切らしております。簡易にアレンジしたものですが、こちらをどうぞ」
ことり、と軽い音を立てて小皿が置かれる。青みを帯びた白い小皿には、つややかな茶色をした棒状のものがいくつか置かれている。色味の濃いものと、薄いものがある。白っぽく結晶になっているのは砂糖だろうか。色味の薄いものにはピーナッツが砕かれているものだろうか、それが所々にまぶされている。色味の濃いものにはおそらく胡麻であろうものが見える。そう、それはかりんとうだった。
「ふむ、結構固いのだな」
ひとつ手に取り、くん、と軽く匂いを確認する。渋みを感じる深い香りがする。その香りの中に香ばしさを感じた。そのまま口に運び、かり、という歯ごたえに少々驚く。
がりがりと噛み砕き、ちょうどサーブされた薄めの緑茶を飲み、一言。
「美味い!甘味の中にある香ばしさと絶妙な渋みが絶品だ!」
「左様でございますか、お気に召してなによりです」
「後を引く甘さがたまらぬな、この独特の香ばしさもまたいい!」
ご満悦な笑顔を浮かべる冥王に、黄桜は苦笑にも似た笑みを浮かべた。
気付けば、いつの間にか雨は止んでいた。