二品目:苺のショートケーキ・ザッハトルテ
桜が咲いている。黄金にも近い黄色の花弁を雪のように散らしながら。
地面に落ちていたその花弁を捲きあげながら歩んでくる人物がひとり。
ゆったりとしたローブにも近い法衣のような姿をした彼は、誰あろう魂の裁判者、根の国の王、冥王である。
彼はうきうきとした表情を隠すこともせず、がらりと音をたてて黄桜亭の入り口である引き戸を開いた。
「黄桜よ!」
突然の来客であるはずなのに、店主である黄桜は全く驚く様子もなく、むしろ冥王の訪問を予見していたかのように優雅に一礼した。
「いらっしゃいませ、冥王様」
黄桜の一礼に鷹揚に手を挙げ、うなずきながらもはや定位置と化しているカウンターの一席に冥王は腰を下ろす。丈の長いローブの裾がばさりと音を立てた。
ほぼ同時のタイミングでサーブされたのは背の低いグラスで、やや大振りの氷が二つほど浮いている。 氷のなかには青々としたミントの葉が閉じ込められており、見た目にも涼しい。
口に運ぶと、ほんのりさわやかな風味。おそらくレモンなどの柑橘を仕込んでおいたのだろう。
相変わらずの細やかな仕事に、冥王は満足げに微笑を浮かべた。
「ところでだな、黄桜よ」
「なんでしょうか?」
「チョコレートパフェなるものは先日食べたが、今度は新しいものを見つけてしまったのだ!」
「……左様でございますか」
おそらく盛大に省略されたであろう脱走のくだりは容易に想像がつくが敢えて触れないことにしておく。
この程度で驚いていては冥王の相手は務まらないからである。
「……ショートケイクなるものが人界には存在しているのだ!
しかもイチゴなるものが乗っているらしく、非常に美味らしい!」
「おや、今度は実物をご覧になったので?」
「いいや!しかしアラストルが絶賛しておったのだ!」
「アラストルさんというと、確か《到達者》の女性でしたね。
確か、錬金術師が前身だったとか」
「ほう、知っておったか」
「云わば同業のようなものですからね。
……ところで冥王様、本日は苺のショートケーキをご所望ですか?」
黄桜の問いかけに、冥王は芝居がかった仕草でうなずいた。
「冥王たるもの、人界のこともそれなりに把握せねばならぬ。
以前より大きく生長してしまった以上、それなりの責任は負わねばなるまい」
常に冥王が浮かべていた笑みが、すぅ、と消える。
凛とした月色の瞳は黄金色で縁取られている。鋭い視線、固く結ばれた口唇は冥王たる誇りと威厳に満ち溢れている。
「左様でございますね。
ところでショートケーキですが、これは人界の国によってそれぞれ形が違います。
ビスケットを土台としたものやペイストリーを土台にしたものもございますし、アーモンドペーストを生地に練りこんだフレジェやフレーズ・バニーユなどもございます」
「む、そうか」
「一度にたくさんのものを召し上がるのも味が混ざってしまいますし、一般的に広く知られているショートケーキでよろしいですか?」
「そうだな、ほかのものは次の楽しみとしよう」
「さすがにフレジェなどをご用意することはできませんが……和風にアレンジしたものならちょうどございます」
長方形の小ぶりな平皿がカウンターに置かれる。
やや濃いめの色をした焼き皿にちょこんと乗せられていたのはやわらかな曲線を描く白い物体。
軽く触れると弾力があり、べたつかないようにか白い粉が薄くまぶされている。
側面に切り込みが入れてあり、黒い粒あんがその隙間から覗いている。そして、切り込みから堂々と存在を主張している紅い果物。
円錐形に近いそれは種子だろうか、表面に規則的に小さな粒が並んでいる。
それは誰もが一度は見たことがある、《いちご大福》だった。
皿に添えられている菓子楊枝があるが、どのように使うのか冥王はわからないらしい。
「そのまま手に持ってお召し上がりくださってかまいませんよ」
おしぼりを差し出しながら黄桜がさりげなく助言する。
「そうか、では……」
おしぼりで手を拭いて、意を決する。指先で恐る恐る掴み、重力に従って緩んでいく表面に驚きながら冥王は半ば慌てて口に放り込む。
咀嚼し、飲み込んで、一言。
「美味い!」
「左様でございますか、お口に合って何よりです。
よろしければこちらもどうぞ」
差し出されたのは深い緑色の緑茶。勧められるままにずず、とすすり飲む。
「素晴らしい!甘味と酸味のバランスが絶妙だ!
ああ、こうしてはおれぬ、この美味さを魔女王やタナトスにも教えてやろう!
馳走になったな、望みのものがあれば冥府まで来ると良い」
緑茶をきれいに飲み干し、冥王は立ち上がった。そして来た時と同じように颯爽と去っていった。
……冥王が去ったことを確認し、黄桜はほんの少し奥まったテーブル席に声をかけた。
「お騒がせいたしまして、申し訳ございません。……陛下」
カウンターから出て、テーブル席へ向かうとそこには何時から居たのか一人の女性がいた。
艶やかな黒髪をさらりと流し、彼女は莞爾と笑んだ。
「……なんだか、わたくしが代わりに謝りたい気分ですよ黄桜さん。
ハーデスがいつもご迷惑をかけているのでしょう?」
笑みの形に細められた紫の瞳が、黄桜を優しく見つめている。
頬に添えられた白い指はほっそりとしていて爪は形よく桜色をしていた。
「いいえ、陛下。そのようなことは決して。
私もちょっと……いいえ、かなり楽しんでおりますので」
「……貴方だけですよ、わたくしをそう呼ぶのは」
彼女に浮かんだのは明らかに苦笑だった。自分は《《陛下》》と呼ばれる立場にないと言外に責めているも同然だ。
「いいえ、陛下。私が膝を折るのは貴女の前だけです。
……ご迷惑なら、まぁ、考えないこともないですが」
「……意地悪なひとですね」
おそらく、彼女が強く望めば、或いは命じれば黄桜は呼称を変えてくれるだろう。しかし名前や呼称など意味があってないようなもの。
好きなように呼んでもらったほうが良さそうだ。
それになにより、強く命令など彼女がするはずないと黄桜は確信している。
だからこそ彼女は黄桜に対して『意地悪』と言ったのだ。
「ところで陛下、ザッハトルテはいかがですか?
紅茶と珈琲、どちらもご用意できますが」
黄桜は柔和な笑みを崩さなかった。『到達者』は扱いが難しい、と彼女がほんの少し思ったのも無理はない。
しかしそれを表情にも纏う空気にも出さずに、彼女は艶然と笑んだ。
「ええ、いただきます。珈琲も好きですがメランジェにしていただけます?」
「かしこまりました、少々お待ちください」
一旦カウンターに下がった黄桜が銀のトレイに乗せて運んできたのは完璧に正しいザッハトルテだった。鏡面のように均一にかけられたフォンダンはつややかでふわりと甘い芳香が鼻腔をくすぐる。
「……黄桜さん、やっぱりハーデスで遊んでます?」
彼女の問いかけに、黄桜は微笑で応えた。
「ないしょ、ですよ」