あだなすもの(卅と一夜の短篇第12回)
いわくありと言われる品がある。特定の家系の者や、所有している者に災いを招くと言われる品。
戦国三英傑の一人徳川家康の祖父松平清康、父広忠は家臣に弑されたが、その時に用いられたのがどちらも村正の銘の刀であったと伝わっている。家康の長男信康が織田信長から謀反の疑いをかけられ、切腹した際に介錯に用いられた刀が村正。また、家康自身が村正の短刀で手を怪我したことがあり、村正は松平――徳川家に仇為す妖刀と呼ばれるようになり、幕末の頃には討幕派が好んで村正の刀剣を所持しようとした。
希望の名を持つブルーダイヤモンドは所有する人々に不幸や死をもたらすと言われ、様々な人物の手を経て、今はアメリカ合衆国の博物館に展示され、誰の身をも飾らない。
妖刀と呼ばれた村正はたまたま松平家、後の徳川家の人間の死の場面にその名が残っていたから、またホープ・ダイヤモンドは元々飾られていた神像から略奪されたから、厄災を招く何かがあると言われる。しかし、松平(徳川)家の人々を斬ったのも、ダイヤモンドを略奪したのも、人である。人の為すことに、人智を越えたものが憑りついていたのだろうか。
松平家が東海の小大名であった頃、その近在の刀工に村正がいたから多くの割合で村正の銘の刀剣を所持する者が多かったに過ぎず、宝石商が大きなブルーダイヤモンドの来歴を知り、その輝きに神秘の付加価値を高める為に潤色した話を考え出したに過ぎないのだろう。
しかし、物語を知ってしまうと品を見る目が変わってきてしまう。
もしかしたら、不思議な力が宿っているのかも知れない。近付けば不吉な出来事に出会うのかも知れない。
人は、刀工が鍛えた刀を、加工業者が磨いた自然石を畏れる。
因縁めいた話をつらつらと語り、読者を怖がらせようとしているのではない。ただの器物が時としてまるで生き物のように言い伝えられる不思議を問いたい。
前置きが長くなった。
一挺の銃があった。
春秋に富む青年が海外に学びに行った時に、護身用と販売されていたステッキ型の銃を手に入れた。異国で見る物の目新しさに惹かれてのことだろう。ほかにも多くの物を購入している。
青年は農民の出だったが、父が下級武士の家の養子となった。父の方ではなく、青年の利発さに目を付けた足軽の家長が青田買いをした、もしくは豪農の父が格式を求めて足軽の株を買ったとも噂されている。青年は「林」利助から伊藤俊輔と名を改め、動乱の時代を生き抜き、大出世を遂げた。故郷で功を成したのではない、その国をまとめ上げ、新しい時代に乗り出すための足掛かりを担う仕事を成した。
その頃には伊藤博文と名乗り、遂に国の初の内閣総理大臣にまで登り詰めた。
その後も重職を歴任、活躍した。隣国との関係に腐心していたが、その隣国の憂国の士からの銃弾に斃れた。
当初はステッキ銃を持って自衛していた。しかし周囲を護衛で固められている身では、護身用のステッキ銃はかえって撃ちにくいものである。用心に越したことはないが、無事に異国での職務を果たしていく中で、ステッキ銃を持たず、護衛に守られるのを選んだ。その結果だった。
ステッキ銃の行方はしばらく知れなかった。
銃は宰相の生前から宰相の手を離れ、親戚の間で居所を転々としていたようだ。親戚の蔵の中に放り込まれ、眠り続けていた。
器物に心、日本でいうような付喪神が憑き、使われもせずに打ち捨てられていたら何を想うのだろう。自らの役割を果たしてみたいと願いはじめるのだろうか。そして、その想いはやがて人に憑りついていくのだろうか。銃の持つ役割、それは銃弾を放つこと。銃弾は破壊、殺傷を行う。
銃や銃弾にその役割を振り分けたのは人間だ。
その人間に銃の付喪神が憑りつく。
ステッキ銃を自宅で見付けたのは、父や家父長権に反発し、共産思想に共鳴していた若者だった。
若者は難波家の四男だった。時代の常として長男とそれ以外の子は親からの遇され方が違う。その地方ではそこそこの家振りであったのに、長男や他所に養子に出される予定の兄弟たちと比べると父親からの扱われ方に大きな落差があると幼い頃から感じ取り、父を憎んでいた。家族に倹約を強いる吝嗇な父、それでいて、地元の名士として振る舞う、家の中と外面の良さの違いを見せる父。ほかの兄弟のように進学を志しながら、不安定な気持ちから叶えられず、落第や入学試験の不合格を繰り返した。
若者が生きていたのは大正デモクラシーの時代であった。若者は東京に出て、国会の傍聴席にいたことがある。明治の自由民権運動を経ていながら、そして普通選挙を実現させよと民衆の声が上がっているのを知りながら、その法案を通そうとしない政府に失望した。また、ロシア革命は身近なニュースで、レーニンを英雄視していた。
ホワイトカラーとして働くのは資本家の手先になるようで嫌だ、しかし、ブルーカラーとして働いてみても賃金が低く、父からの仕送りをあてにせずには暮らせず、おまけに健康を損ねた。仕方なく故郷に戻って療養したが、地を耕し、漁撈の生活をしてみようと考えなかった。父の援助を受けて、なんとか合格した大学の高等科に籍を置き、マルクスやほかの社会主義の本を読みふけった。
幸徳秋水や大杉栄の活動やその死を知るにつけ、国家の体制を変えなければならないと、考え、その考え方は極端に走った。体制を変えるには神聖にして不可侵の存在を消す、と。当時の帝は病篤く、しかも脳の病だと噂されていた。その為、帝の長男、皇太子が摂政となり、国事行為を行っていた。この摂政宮を標的としてテロリズムを行い、思想を持つ者、労働者を覚醒させ、この国を革命へと導く礎となろう。
若者にそれを語り合う同士はなく、孤独な頭脳の中で生まれた過激な考えだった。
若者の母の従兄の姓は「林」といい、宰相からステッキ銃をもらい受け、それをまた若者の父に譲っていた。
狩猟が趣味の父は村田銃のほかにステッキ銃の試し撃ちをし、手入れをして、家の台所の隅に置いていた。
ステッキ銃は若者に発見された。
ステッキ銃は遂に自身を有効に使ってくれそうな人間を得たのだ。
若者――難波大助――はそのステッキ銃を家から持ちだした。ステッキなら街中で怪しまれず携行できる。
若者は帝都に赴いた。関東大震災のあった年の暮れ、貴族院の開院の言葉を述べる為に貴族院に行啓する摂政宮の車を虎ノ門近くで、コートの下にステッキ銃を隠し持ち、待った。行啓の沿道には多くの見物人や警備の憲兵や警官がいた。車がさしかかると、人垣を押しのけ、警備をかいくぐり、車に駆け寄り、銃の引き金を引いた。難波大助より二歳下で、帝の長男という、人生の選択を許されない生まれの摂政・迪宮裕仁親王に銃弾は命中しなかった。行啓中の車の窓を割り、摂政宮の向かいに座っていた侍従がガラスの破片で怪我をした。
当時それは単なる殺人未遂ではなく、大逆の罪であった。若者は現行犯で取り押さえられた。見物人たちからの暴行から、警備の者が逆に守ってやらなければならないほどの騒乱となった。
検察側は若者から悔悟・改悛の言葉を引き出そうとしたが、全て徒労に終わった。将来を悲観しての自暴自棄でもなければ、乱心でもない、自らの思想に基づいての正しい行動だと主張し続けた。弁護人さえ故郷の家族や数少ない友人が若者の行動で苦境に陥っていると説得を試みたが、何ら効果はなかった。(実際に家や家族に石が投げられ、養子に入っていた末弟や友人の一人は養家を追い出され、父と長兄は職を辞した。家族も友人も若者の決死の思いを知らなかった。迷惑を掛けまいとしての心遣いのつもりだったが、結局は皆を巻き込んでしまった)
若者は翌年裁判に掛けられた。お上の情けを示そうとしていたが、その意図は無駄になり、絞首刑と判決が下った。刑はすぐに執行された。難波大助は最期の時まで自らの行動は正当であり、後悔はないと語った。遺族は遺体の引き取りを拒み、やがては難波の姓を捨てた。
処刑の翌年、政府は治安維持法を交付し、施行した。革命は起こらない。難波大助の言動は民衆に理解されず、当時独身だった摂政宮が若者の恋人を宮女として側に召したのを恨んだのだとデマさえ飛んだ。
ステッキ銃は本来の役目を果たし、歴史の中でいわくがある器物のように語られ、満足しているだろう。銃は証拠品と押収されたが、その後解体、廃棄されたかまでは伝わらない。
村正、ホープ・ダイヤモンド、伊藤博文についてはこれまで目にしてきた本やラジオ・テレビから得た雑学の知識から書き起こしました。
虎ノ門事件については、井上章一の『狂気と王権』(紀伊国屋書店)、岩田礼の『天皇暗殺』(図書出版社)を参考にしました。
『狂気と王権』で虎ノ門事件を知り、興味を持ち『天皇暗殺』を読みました。『天皇暗殺』の著者は皇室のあり方や昭和天皇について批判的な意見を持っていたらしく、そして難波大助の生活環境に同情的で、その思想や行動を全肯定するような筆致でした。読んでいて、わたしは難波大助に全く共感できませんでした。わたしは現在の皇室や近現代史に定見がないのですが、学業を成就できず、自立もできず、社会主義者としてもテロリストとしても成功しなかった難波大助はパターナリズムに押し潰された人物の印象があります。
『狂気と王権』は虎ノ門事件ほか、田中正造の直訴や大津事件、二・二六事件、ルードヴィヒ2世にまつわる話を展開して、刑事事件や王権、精神(刑法でいう心神喪失、心神耗弱状態、また君主を隠居させる口実としての乱心)の問題を論じています。
難波大助の父親は衆議院議員でしたが、事件をきっかけに職を辞し、地盤を引き継いだのは松岡洋右でした。