第五章
第五章
特区対抗戦へと繋がる選抜トーナメントが開催される六月を目前とした晩春。初夏に移ろうまで片指で数えられる日数を残すというところである。
「――剄についての話だったな」
水瀬魔術女学院寮前駅から地下鉄に乗ったのは、契姉さんと惺さんと俺の三人。午後九時前という時間にこの方面に来る者など珍しく、この最後尾の車両に他の乗客は居ない。俺を中心に隅で固まっているものの、難しい話を始めようとする最奥の席の姉さんの声は抑えられていない。
「端的に言えば剄――というか剄家だな、アイツの家は零世代である橘家の分家として始まり、本家に代々仕える家系でもある」
寮のロビーでの会話の後に姉さんを先頭に剄さんの部屋を訪れ、彼女もまた帰っていないことを確認し、姉さんの推理が間違ってないとこうして電車に乗っている。そう、姉さんが今明かしてくれたように、剄さんは深矢理さんに繋がっているからだ。
「と言っても、剄家はあくまで橘家の裏稼業を請け負う家であり、戦前は決して表に出るような家ではなかったがな。現在にしてもその繋がりは公にされていないし」
「はあ、つまり剄さんは今回の事件に直接関わりはないものの、深矢理さんを通じてその計画を知っていたから、あんな言葉を漏らしたと?」
「ああ、深矢理のことだ。私の発明品であるお前を襲撃し壊す計画を自信満々に話してたんだろう」
深矢理さんの考えることなどお見通しと、姉さんは嘲笑うようにショートカットの黒髪を掻き上げた。
「橘深矢理……」
寮でのロビー以来ずっと口を閉ざしていた惺さんは、妹を拉致したであろう犯人の名前を俯いたままに呟いた。
橘深矢理さんというのは姉さんの水女在学一年間だけの同級生であり、桐霞さんと三人で対抗戦での歴代最高ポイント記録を作った水女のレジェンドの一人。現在は国際的魔術関連企業である橘グループの子会社で社長を任されており、姉さんに資金提供しているという。
昔のことを思い返せば、確かに深矢理さんの――中近距離での氷系統魔術――戦い方は襲撃者に似ている。しかも体型も小柄だったはずだ。そもそも襲撃者に似ていた剄さんのスタイルも、実際は仕える相手である深矢理さんに憧れてのものだろう。
深矢理さんの名を口にした惺さんが何を考えているのか、表情が変わらないだけにハッキリとは分からないが、慧さんを巻き込んだことに怒っているのは確かだ。
「剄というその名の由来も、〝首斬る〟が転じてのもの。その名が示しているように、剄家はかねてより橘家に仇為す者を闇に葬って来た。さすがに今はそれほどまでのことはしてないだろうが、本家への忠義は変わってないのだろう」
続けて姉さんにより明かされた剄さんの家の秘密。それは姉さんが深矢理さんとトリオを組んでいたからではなく、色々と資料に目を通す機会のある研究者だからこそ知ったのだろう。
「――そろそろだな」
地下鉄に揺られること二十分余り。剄さんと深矢理さんとの繋がりを話し終え無言と化した車内。嵐の前の静けさとでも呼べるような不気味な静寂を打ち破ったのはやっぱり契姉さんの言葉だった。
事前に俺達に告げられた目的地は〝深矢理の所〟というものだけ。常に緊張感を抱いていた俺は戦いが目前に迫っているとさらに身を凛と引き締め電車を降りた。
目立った建物の少ない駅前。商業地域ではなく、住宅街の中にあるこじんまりとした駅。
「――お待ちして居りました」
地上へと登り着いた俺達の前に姿を現した人物。
「お前は……」
「慧をどこにやったっ!?」
歩み寄って来る彼女に真っ先に応えたのは辺りを見回していた俺だったが、真っ先に行動したのは惺さんだった。
「別に私がどこかにやった訳ではないし、彼女は無事だよ」
瞬く間にクラスメートに迫られ、制服の胸倉を掴まれながらも平静を貫く剄さん。
「深矢理様に案内するよう命を受けておりますので、私に付いて来て下さい」
クラスの中において二番目に無口なクラスメートを引き剥がすと、最も無口な彼女は姉さんと俺にそれを説明し早速と歩き出した。
「今はとりあえず剄さんの言葉を信用してみよ。感情を爆発させるのはそれからでも良いと思うよ」
剄さんの背中をジッと見つめ固まる惺さんの背中を、俺は片手でそっと押す。
俺にも彼女を許せない気持ちがあるが――剄さんの言葉で証明されたように――あくまで首謀者は深矢理さん。頭の上がらない相手に命じられ人形として水女に通い始めた当初の俺と、今の彼女は通じるところがある。自分のことを棚上げして彼女を弾劾することは出来ない。
「分かった。慧の無事を確認した後でアイツ等をぶっ飛ばす」
俺の言葉に頷き、姉さんに続いて剄さんの背中を追い始めた惺さんだが、決してその怒りが収まってないのは分かった。深矢理さんに会えばまた感情を昂らせ、暴走するかも知れない。それだけは俺も含め、自制させるように心掛けよう。
スニーカーと靴下――惺さんは黒のタイツで、俺は黒のニーハイ――こそ履いているものの、部屋着のままで来たので風が冷たく感じる中で、彼女に連れられること十分余り。誰も喋らない重苦しい雰囲気でようやくと到着した深矢理さんが家主を勤める、橘本家とはまた別の大豪邸。サッカー場が四つは入るだろう庭に入ることさらに十分ほど。
「――やあ、契、待ちわびたよ」
調度品の類のない、臙脂の絨毯が敷かれただけの屋内演習場ほどの洋間。舞踏会も開けるだろう左右に広いその奥、遂に姿を現したのは現在進行形で俺を悩ませているこの事件の黒幕。
「ふん、深矢理の方から来れば待つ必要はなかったと思うんだがな」
五十メートル以上も離れた部屋の奥に不自然に置かれた椅子。王の間とでも言うような玉座に深々と腰を下ろしている深矢理さん。肩に掛かるほどの茶髪に、鋭い瞳でにやりとした笑みを浮かべた元トリオのメンバーに、姉さんはクールなままに返した。
「お姉ちゃん、アオイさん、契さん!」
この殺風景な部屋に居たのは深矢理さんだけではない。
「慧っ!」
深矢理さんから少し離れた、部屋の奥に置かれたもう一つの椅子。座っていたのは惺さんの年子の妹である制服姿の慧さん。その脇には裾の長い黒いメイド服に身を包んだ、黒髪を後ろで団子のように一つに纏めた二十代半ばほどの女性。
慧さんは囚われてこそいないが、逃げないようにと使用人と思しき女性に見張られているのだろう。
「慧を返してもらうっ!」
室内の状況をじっくりと見回しているのがいけなかった。妹のこととなると感情的になる惺さん。そう口にした時にはもう床を蹴っていた。
瞬く間に距離を詰める惺さん。相手が深矢理さんでなければもしかしたら――しかし、そう思うだけ無駄だった。慧さんが椅子から飛び退いたことで、障害物の無くなった的へと放った二丁のレールガン。
メイドの彼女は一切防ぐことすらしない。全く動かずとも現れた透明の障壁があっさりと弾くと、惺さんを無視し、飛び退いた慧さんを後ろ手に簡単に捕らえた。
惺さんはそれでも負けじと奴を狙い澄ましレールガンを放つが、一発とて命中することはない。全てが障壁に阻まれ無に帰す。俺が深矢理さんに襲撃された時のように、両者には圧倒的な魔力差が存在している。
「ふふ、そんなに一生懸命にならずとも、ソイツはあくまでお前達を釣る為の餌だ。もう用はない。アサカ、ソイツを解放しても良いぞ」
ムキになる惺さんを深矢理さんは鼻で笑うと、
「かしこまりました」
アサカと呼ばれた彼女は軽く頷き慧さんの手を離すと、足音を発てずゆっくりと深矢理さんの傍へと移動する。本来の役目は彼女を護ることだろうか。
「慧っ!」
「お姉ちゃん!」
無駄な攻撃を止めた惺さんは解放された妹を片腕で抱き締めると、反転するように一気に俺達の下へと強化した脚で戻って来た。
「アオイさん、契さん、ごめんなさいっ!」
惺さんに抱かれたままに慧さんは俺達へと謝罪した。捕まっている時は気丈に見えたが緊張が解けたのか、その瞳には微かに涙が浮かんでいる。
「いや、こっちこそごめん。慧さんが捕まったのは自分達のせいだから」
「何が望みだ?」
俺達が慧さんを宥めているのを横目に、姉さんは深矢理さんへと対峙する。相手は二つ年上でありスポンサーでもあるが、外見だけでは大人びた姉さんは決して退かない。
「何の目的でアオイを襲撃し、慧を捕らえ私達をここに誘った?」
慧さんを取り戻したからと、俺達はすぐさまここを後にすることは出来ない。入り口である扉の前には剄さんが立っていて、決して俺達が逃げないようにしている。
「ふん、そんなの決まってるだろ。これは私がずっと待ちわびていたお前へのリベンジだよ」
「リベンジ?」
「ああ、私はずっとお前に勝ちたかった。お前に出会うまでは天才と呼ばれ、誰にも負けたことがなかった私はお前が水女に通うと聞き、その鼻を明かしてやろうと水女に入学したが、鼻を明かされたのは私の方だった。毎日のようにお前に挑んでいたが、一度も勝てたことがなかった。
それでも、私にとってお前や桐霞との日々は楽しかった。悔しくもあったが、それまでの人生で経験したことのないほどに毎日が充実していた。だが、そんな日は長く続かなかった……」
背もたれから身を起こした深矢理さんは姉さんを睨み付け、熱の籠った言葉を続ける。
「お前は私達には最後まで黙り、たった一年で学校から姿を消した。裏切られた想いだったよ。私はお前を仲間だと信頼していたが、結局私との付き合いはただの通過点、単なる学校のイベントの一つでしかなかった……。
だから、私は今度こそお前を越えようと鍛練を積み、リベンジする機会をずっと待っていた。ふふ、はは、そして遂にこの機会を得た……」
この世界に二人だけしか居ないかのように姉さんを睨み付けている深矢理さんは立ち上がると、
「戦闘型ドールを作るとお前が資金提供を申し込んで来たんだよ。私はすぐにこれだと思った。戦闘型ドールの開発で今度こそお前に勝ってみせると」
こちらへとゆっくりと一歩ずつ踏み出しながらに、妖しい笑みを浮かべ高笑いを上げた。喜怒哀楽、その表情は本当に豊かで、溢れんばかりの感情を全身で表現している。
「剄からアオイの情報を得ていたお前は、今なら確実に勝てると〝その体〟に入り、数日前に襲撃したと?」
ずっと聞き手に回っていた姉さんは、三十メートルほど離れた所で足を止めた深矢理さんに口を挟む。その口調は変わらず涼しいもの。深矢理さん劇場とも言えるものを前にしても、全く心を乱されていない。
――その体って……?
一方で、姉さんの側に控える俺はその言葉に、えっとなってしまった。
「ふふ、やはり気付いていたか。その通りだよ。この体は私の体ではなく人形の体。ソイツに対抗して生み出した――戦闘型ドールだよ」
「ドール……」
ソイツと呼ばれた俺は、改めて深矢理さんをじっくりと観察する。俺同様に見た目だけでは人間と全く同じなのは勿論のこと、スタイルや声など深矢理さんの本体を完全に再現している。深矢理さん本人だけでなく姉さんに真実を教えられた後でも、目の前の彼女が偽物の深矢理さんの体とは信じられない。
声は上げないまでも慧さん達もそうだろう。チラッと視線を向ければ、慧さんの目が見開かれているのが分かる。惺さんもまた俺を見るように、興味津々に見つめている。
「夕歌から聞いていたソイツの力を確かめる為に、新たな資金提供を餌に行わせた目立つイベント――第二アリーナでの外山達との戦いのことだろう――でコイツなら楽に勝てると確信し襲撃したが逃げられてしまったからな、こんな強引な手段に出させてもらったよ。
まあ、思い返せば怒りのままに我を忘れてお前の発明品を壊さなくて良かったと思ってるよ。今やソイツは水女に限らず人気を集めている。最後の舞台はギャラリーの前でないとな」
そう言って深矢理さんは睨み付ける対象を俺に変えた。
「そんなことは絶対にさせない!」
「うん」
深矢理さんから護るように俺の前に踏み出した慧さんと惺さん。惺さんは俺の話で、慧さんは身を以て今の深矢理さんの実力を知っている。普通に正面から戦えば俺は絶対に勝てない。
「ふ、ふふ、はは、実に滑稽で面白い」
強い意思の籠った目で俺を見据えていた深矢理さんだが、彼女達の言葉で一転して再び高笑いを上げる。
「契とソイツに騙されているとも知らず、よくそんな表面上だけの仲間関係に酔えるな」
「だ、騙されてる……?」
眉間に皺を寄せ訝しむ慧さんは対峙する敵に意識を向けながらも、俺と姉さんを確認しようと僅かに振り返った。惺さんの方はがっつりと俺達を見ている。
彼女達の視線に晒され、そして深矢理さんのそれだけの言葉を聞き、この人形の体の芯から凍らされたような冷たさと震えに俺は襲われる。深矢理さんは何を言おうとしているのか、それが余りにも俺には怖かった。
だが、喉を締め付けられているように、俺は声を発すことが出来ない。姉さん同様に、ただ深矢理さんが真実を口にすることを待っている。
「この体は契とは全く別に私が一から作り上げたものだが、この人形に私の魂を移すに当たっては桐霞の力を借りている。胸に宿した特別なお札に生霊魔術を用いて。
そう――契の実弟、葵の魂がソイツに移されているようにな」
間違っていなかった俺の危惧。全てを知っていた深矢理さんは最後まで可笑しそうにその事実を彼女達に告げた。
「え……く、久世君って……?」
本当ですかと言わんばかりに振り返り、見離すようでとても距離を感じる慧さんの綺麗な黒い瞳。そして、いつもと変わらない無機質なだけに、心を見通されているようで恐い惺さんの澄んだ黒い瞳。俺との生活の日々――特に肌を露出する場面を思い出し、強く裏切られたと感じているのだろう。
「あ、い、いや……」
俺は彼女達の瞳を直視することが出来ない。ただ声を濁らせ俯くことだけ。それは完全なる無言の解答。答えないことが認めているようなもの。
「ああ、それは本当だよ」
襲撃者の本拠地、明日香井さん達とも気持ちで分断されるような状況の中、姉さんは敢えてあっさりとそれを認めた。
「私が無理を言って葵に協力させたんだよ。表向きは戦闘型ドールの再興となっているが、本当は全く違うコンセプトの目的を成し遂げるためにな」
「本当の目的?」
続けられる姉さんの説明に口を挟んだのは惺さん。彼女は姉さんの研究がどんなものかそれを全て知りたいのだろう。
「例え本当に精霊を宿らせ仮初の魂を与えた所で、完全に安全だとは言えない。その為に人間の魂を移し稼働させる。この人形は実力以上の魔力を発揮出来る強力なものだ。私の本来の目的はそこにある。戦う相手の居なくなった私は、自らを越える魔術師をこの手で作ることにしたんだよ」
深矢理さんが楽しそうにうすら笑いで見つめる前で、四月のあの日に俺に説明したように、惺さんに応えた姉さんはさらに話を続ける。
「葵をその実験台にしたのは、浪人中でダラダラしてたからでもあるが、コイツが伸び悩んでいたからでもある。自分でも言うのも難だが優秀な私に比較され色々と苦労していたコイツは、私にも負けない生まれ持った才能を開花し切れずに心が折れ掛けていた。
私はその責任を取って葵に手を差し伸べたと同時に、葵もまた成長すれば私に匹敵するかも知れないと、人形に入って魔力の使い方を知ってもらおうと、強引に水女に通わせた。それがお前達に隠していた真実だよ」
「そんなことが……」
姉さんの言葉を受けて、慧さんは複雑な表情を浮かべる。それは俺も同じだ。
「姉さん……」
初めて聞く姉さんの真意に、何とも言えない複雑な気持ちを抱く。人形に抱いているように成長した俺とただ戦いたいだけ。だが、姉さんが俺に対してそこまで期待していること、そして俺に悪いと思っていることが驚きだった。
果たして俺は姉さんの期待に応えられる日が来るのだろうか。自分ではいつまで経っても姉さんの足元に及ばないと確信しているが、今はその言葉だけでも良い。強い後押しになってくれた。
「自分が――いや、俺がここで深矢理さんと戦いさえすれば、結果に関わらず皆を無事にここから帰してくれるんですね?」
俺はしっかりと顔を上げ、慧さんと惺さんの奥で待ち構える深矢理さんを改めて見据える。
「ああ、私の目的はあくまでお前だ。ソイツの役目も済んだし、契さえ残れば他はもう帰って良いぞ。まあ、お前に恨みはないが粉々になるまでその体を破壊し尽くすから、お前は決してここから帰ることは出来ないがな」
途中で慧さんに視線を移しながらも、深矢理さんは俺を見つめ返す。正式な模擬戦では無いので、中途半端な結果は認められてないようだ。
深矢理さんに対して殺意はないが、勝てなければ俺は命を失うことになる。
「そんなこと私がさせると思うか?」
そうはさせまいと、姉さんは横から口を挟む。
「お前がそういうスタンスならこんな戦いを認めずここで帰るぞ?」
「ふん、ここが私のホームだということを忘れたのか? お前がそんな脅しを言えないように、私が造った他の人形達でさらに強引な手段に出ても良いんだが?」
助け舟かと思った姉さんの抵抗は全く以て危険なもの。姉さんと深矢理さんとのわだかまりに無関係の慧さん達を巻き込ませない為には、絶対に取れない手段だった。
「姉さん、大丈夫だよ。俺が勝てば良いだけの話だから」
「葵、お前……」
戦う以外の選択肢はないと姉さんの言葉を背に、俺は正面だけを見据えたままに慧さんと惺さんの間を抜け深矢理さんと対峙する。
元々は姉さんの振り撒いた種だが、姉さんへの恨みはない。多くの人を騙し慧さん達を傷付けたが、姉さんのおかげで俺は最高の時間を過ごすことが出来た。あのままの俺ならいつまでも姉さんにコンプレックスを持ち続けただろうが、今の俺は姉さんと本当の姉弟だと思える。この経験は俺にとって決して悪いものではなかった。
「二人はすぐに帰った方が良いよ。深矢理さんの気が変わらない安全な内にね」
彼女達の顔を見ることは出来ないものの、これで会うのが最後になるだろう二人へと俺は話し掛ける。
「慧さん、惺さん。今まで騙しててごめん。二人との毎日の日々は充実しててすっごく楽しかったよ。今まで本当にありがと」
「アオイさん……」
「…………」
俺をアオイさんと言ってくれた慧さんと無言の惺さんへの、謝罪と感謝に尽きる最後の言葉。悔いがないと言えば嘘になるが、今俺に言えるのはそれだけ。
「もう始めても良いですか?」
俺は二人へと向けていた意識をすぱっと切り離し、深矢理さんへと集中する。
「この世に未練がなければすぐにでも来るんだな。冥界へと送ってやる」
「分かりました。それじゃあ行きます」
溢れんばかりの余裕に笑みすら浮かべる深矢理さん。俺は頷いた瞬間に絨毯を蹴った。未練は大いにあるけど、彼女達の為に戦えるという自己満足が出来るだけで幸せだ。
深矢理さんの氷魔術に負けないようにと生み出すのは炎の刃。一度でも主導権を渡せばヤバいと神経を研ぎ澄ませ、両手で握った刃を全力で振り上げる。
「ふん、全く成長してないな」
右手に生み出した氷の刃で楽に炎の刃を受け止めた深矢理さん。吐き捨てるように嘲笑した彼女は俺ごと押し返すや否や、片手で刃を素早く振るった。撃ち出されたのは以前も俺を苦しめた氷の斬撃。
後ろに彼女達が残っているからでもあるが、避けることも弾くことも咄嗟には不可能。至近距離から放たれた斬撃に、俺は炎の刃を握ったままに腕を強化し防ぐ事しか出来ない。
「くっぅ……」
魔力差により刺すような冷たい痛みに襲われる両腕。衝撃で圧された俺は怯まず、弧を描くようにまた向かって行く。
今の攻撃で襲撃者は深矢理さんだったと確信出来た。魔術を緩和する魔器であるリストバンドなしの戦い。既視感を覚えた斬撃の衝撃はあの時と同じ。戦っているのは間違いなく俺を一方的にボコボコにし、片腕を斬り落とした相手だ。
深矢理さんは俺を近付かせまいと矢継ぎ早に氷の刃を振るう。俺達の距離は十メートルほど。避けることに専念する俺は炎の刃を消し、どうにかそれをギリギリでかわして行く。
絨毯や壁にぶつかる空を斬った斬撃。だが、魔術の痕跡は部屋に一切残らない。水女の演習場と同じように特殊な魔器が埋め込まれているのだろう。
視界の端に微かに映るキャラリーは剄さんとアサカさんと姉さん。そして、未だに残った慧さんと惺さん。彼女達に早く帰って欲しいような、俺の戦いを最後まで見守って欲しいと思うような中で突然と深矢理さんの攻撃が止んだ。
「ふふ……」
ニヤリと妖しい笑みを浮かべた表情。それは敢えて俺が得意な接近戦を促すようなもの。絶対的優位に立っているからこそ、俺の得意分野で打ちのめそうと考えたのだろう。
「くっ……」
誘いに乗るのは吉か凶か。選べるだけの手段が俺には無い。充分に注意を払いながらに強化した脚で加速。幾つもの炎弾を放ちながらに深矢理さんへと迫る。
氷の刃で軽く炎弾を弾くだけで意外にも何も仕掛けて来なかった深矢理さん。スピードに乗った俺は強化したままの脚を蹴り上げる。
防いだのは刀を持っていない左腕。細いのに堅いカーボンで出来た木の幹を蹴ったように、がっちりと俺の脚は受け止められた。
このままでは氷刀に斬られる。俺はすぐさま彼女の右手に注意を注ぐ――が、俺を襲ったのは視界の右端から現れた脚。気が付いた時にはもう俺の脇腹を中心に全身へと響く酷い鈍痛。魔術で緩衝することの出来なかった俺は直撃のインパクトそのままに蹴り飛ばされた。
「アオイさんっ!」
不意の攻撃に受け身を取ることも出来ず、水切りの石の如く絨毯で撥ね転がった俺のすぐ側で聞こえた叫び声。意識を歪めるほどの衝撃にそれが誰のものなのか、一瞬分からなかったが、それは間違いなく慧さんのもの。
「はあ、弱い、弱過ぎるな。それが天才久世契が造った人形の力か。本気を出さずともこんなにも圧倒出来るとは」
支えてくれようとする慧さんの手を取らず、ふらふらになりながらも立ち上がり歩み出した俺へと掛けられる深矢理さんの残念がるような言葉。わざとらしく肩を竦めているが、それはあくまでポーズにしか過ぎない。
「ふふ、私が契の発明品とは比べられないほどに強いから仕方ないか」
一転して深矢理さんは意地の悪い笑みを浮かべている。ずっと抱えていた姉さんへのコンプレックスを振り払える機会を心から楽しんでいるのだ。その気持ちは俺にも充分に理解出来るが、そう簡単に負けるつもりはない。
「ふん、誰が強いって? 人形に入った俺と深矢理さんの代理戦闘で圧倒した所で、深矢理さんが姉さんの足元にも及ばない事実が変わるとでも思っているんですか?」
深矢理さんの挑発に対抗するように、俺もまた彼女を嘲笑うように挑発し返す。
「姉さんが指摘しないから黙ってましたけど、この際ハッキリ言わせてもらいます。戦闘型ドールに入った者は自らの実力以上の力を引き出すことが出来ますけど、結局は中に入った者が強ければ強いほどドールの力も強くなる。戦闘経験豊富な深矢理さんが俺に勝つことなんて当り前。その事実に目を背けて俺に勝った所で、深矢理さんは本当に姉さんに勝ったと心から喜べるんですか?」
俺が言葉を紡ぎ出した時から黙って話を聞いていた深矢理さん。
「うるっさいっ!」
見る見るうちに眉間に皺を寄せた彼女の怒りは俺の質問と共に爆発した。
「そんなこと最初から分かってるわっ!
それでも私は何でも良いから契に勝ちたい!
どんなに見当違いでも良い!
勝てれさえすればそれで良い!
契に裏切られた想いを少しでも取り除くことが出来のなら、私は本気でお前を殺す!」
顔を激しく歪めた鬼の形相で捲し立てるように早口で、身を捩りながらにその想いの強さを深矢理さんは口にした。
前言撤回。姉に抱くコンプレックスの大きさは深矢理さんと俺とでは比べようがない。先ほど深矢理さん自身が一度説明したように、天才と呼ばれた彼女を凌駕する姉さん。その力を認め仲間だと信頼していただけに、姉さんが一年で卒業した深矢理さんの裏切られた想いは相当に強いのだろう。俺には想像しようもない。
「深矢理、お前……」
背後から聞こえる姉さんの言葉。それは何を思ってのことか、三十メートルほど隔てて深矢理さんと対峙する俺には分からない。一応は同級生である二人の会話が始まることはなく、深矢理さんが絨毯を蹴ったからだ。
初めての深矢理さんからの攻め。格下である俺に対し小細工など必要ない。彼女はただ真っ直ぐに、感情の昂るままに俺へと向かって来る。右手だけでなく左手にも生まれた氷の刃。斬撃を放つことはなく、彼女は右手に持ったそれを俺へと振り上げた。
「くっ……」
受け止める選択なんて最初からない。圧倒的魔力差により凍らされるだけ。彼女の右手が動いた刹那、俺は右方に避けると僅かばかりのフェイントを見せ背後に飛び退く。一拍の後に俺を逃がすまいと突き出された左手の刃。
体を反転し避けた俺は側面へと回る。がら空きとなった深矢理さんの左半身。どうにか作り出した初めての隙。俺は反転した勢いそのままに、左手に生み出した炎の刃を振り回した。
「ぐぁっ……!?」
腕に伝わるしっかりとした手応え。しかし、嗚咽を漏らしたのは俺の方だった。強化した彼女の体を傷付けるのは難しく、反対に俺の脇腹に刺さった氷の刃。突かれた氷のナイフが途中で軌道を変え、同じように振り回されていた。
「ぐっ……くっ……」
鋭い痛みに怯み顔を歪める俺を見る深矢理さんの表情はもう変わらない。真剣な表情で右手を振り上げる。本気で俺を殺すつもりだ。
――終わりか……。
隙を突いたどころか逆に追い詰められ、俺は抵抗が出来るような状況ではない。人形としてだけではなく、俺は人間としての死を本気で覚悟する。それでも尚最後まで俯かず深矢理さんを見つめる。唯一の抵抗はそれしかないから……。
今までの戦いからは信じられないほどにゆっくり見える深矢理さんの動き。走馬燈は見えないながらも刻々と迫る俺の死。
現実の時間にしたら一秒も経っていないか。俺の首元目掛け振るっていた深矢理さんの刃との距離がもう十センチを切っていたところだった。深矢理さんは咄嗟にそこから飛び退いた。彼女と入れ替わるように俺の視界に入ったのは二筋の雷弾。そして、俺の髪をなびかせた大気の揺らぎ。
「止めて下さいっ!」
背後から轟いた慧さんの叫び声。
「お前等邪魔する気か!?」
十メートルほども一気に距離を取った深矢理さんが睨み付けるのは俺の背後。叫び声を上げたのは慧さんだけだったが、惺さんもまた俺の死の淵に際して魔術を放ってくれたのだろう。
「邪魔をするつもりはありません。ただ、この勝負はあまりにもアオイさ――く、久世君に不利なので、私達もこの勝負に混ぜてもらえませんか?」
「えっ……」
驚く俺には目もくれず、慧さんは真面目な顔で真っ直ぐに深矢理さんを見つめる。
「久世君私達と、深矢理さん剄さんアサカさんのトリオバトルです。私が言うのもおかしいですが、契さん達水女最高トライデントの再来と私達は期待されています。
オールラウンダーの契さん、どの二人と組んでも最高のバランサーとなれる水無瀬理事長が居ないんであれば、今の私達でも伝説のメンバーの一人である深矢理さん率いるトリオに勝つぐらいなら出来るはずです」
珍しく、というか初めて耳にする慧さんの挑発であり悪口。
「うん。全ての面で契さんに二段階劣ってる相手に勝つのは難しくないはず」
隣で聞いている惺さんも同じ意見。無機質な表情のままにさらに挑発を続けている。
「…………」
二人の背後、扉を守る剄さんの前に立つ姉さんはだんまり。眼鏡を掛けたその表情に変わりはない。クールなままに今の状況を見ている。口や顔には出さないまでも、姉さんもまた同じ意見ということか。
もしくは、本体から離れた人形の俺を殺すならまだしも、生身の人間である慧さんと惺さんを殺すことはさすがの深矢理さんでも法的に難しいので、それが活路を見出せると思っているのか。
「ふん、そんな安い挑発に私が乗るとでも思っているのか?」
俺達の思惑を知ってか知らずか、昂った心を沈ませ冷静に答えた深矢理さん。
「ふふ、まあ良い。契が育てたそいつ等を倒すのもそれはそれで面白い。それにお前等がなめてる剄姉妹の力がどれほどか、その身を以て知らしめたい。特に学校では見せない夕歌の本当の力、契にも隠していたアサカの本気とかな」
意外にも明日香井さん達の挑発であり提案を、鼻で笑いながらに了承した。
「あ、えぇっと……」
似ていると思っていた剄さんとアサカさん――剄さんの名前から連想して、漢字は朝歌だろうか――が姉妹だったという納得出来るような話を聞いた後で、俺はもう話すことはないだろうと思っていた慧さん達の下へと戻る。
戦いの前のちょっとした作戦会議で、剄さんも深矢理さんや姉と合流している。ここは彼女達の本拠地なので、俺達がこの隙に逃げようと画策してもどうせ無駄なのだろう。
「いやぁ……これは……」
謝罪と感謝を伝えていた手前、窮地を救ってくれた彼女達を直視するのは恥ずかしくて仕方ない。俯いた俺の舌は回らず、まともな言葉を口にすることが出来なくなってしまう。
「…………」
俺の正体を知った慧さんも同じみたいで、二人と姉さんとでひし形を描くような位置で足を止めた俺を前に言葉を紡げないでいる。
喧嘩した二人が期せずしてトイレで鉢合わせしたようなそんな気まずい雰囲気。それを打破したのは惺さんだった。
「私は別にアオイを責めるつもりはない。例え中に久世葵が入っていようとも、私達と過ごした日々は変わらない。ずっと変わらず仲間だと信頼してる」
「惺さん……」
どんな辛辣なことを言われるだろうかと胸が締め付けられるような気持ちだった俺に掛けられたのは、先ほど寮の部屋で話してくれたような言葉。思わず顔を上げた俺を見つめ、惺さんは真っ直ぐに語ってくれた。
「お姉ちゃん……」
「むしろ、精霊ではなく実在の人間の魂が宿ってる方が神秘的で私には興味深い」
「もう、お姉ちゃんっ!」
俺と同じように顔を上げ声を漏らした慧さんだったが、惺さんらしい言葉に呆れたように声を張った。
「ふふっ、もう、お姉ちゃんはいつでも変わらないね。ホントに凄いよ。はぁ、お姉ちゃんが真剣に答えたんなら私も答えないと駄目だよね」
観念したという訳ではないが、姉に触発され慧さんは深呼吸を一つ。ゆっくりと視線を俺に移した。
「えっと、久世君は契さんの頼みに断れなかったんだろうなぁというのはよく理解出来るんですけど、やっぱりお姉ちゃんみたいにすぐにそれを受け入れることは出来ないんですよね……」
「うん、ごめん……」
尻つぼむように表情と声から覇気が無くなる慧さんに、俺もまた力なく謝る。
「い、色々と、その……女の子としては、は、恥ずかしい所を見られてるんで……」
一転して頬を赤らめ声のトーンがグーンと上がった言葉に、
「あ、う、うん、ホントにごめんっ!」
その様を模倣するように俺もまた緊張し上ずった声で謝る。これから先、彼女達との日々が俺にある可能性は低いが、俺を許すには時間が掛かることだろう。それか、許せる日は来ないか。だが、彼女の言葉はそこで終わらなかった。
「ただ、今の段階でこれだけは断言出来ます」
「うん……?」
「私達のことを騙していた久世君と契さんはすぐに許せませんが、このまま私達の前から離れようとすることはそれ以上に許せません。責任持ってこの一年間は私達と一緒に居て下さい。私は〝アオイさん〟と本気でトライデントを目指し続けたいです!」
「慧さん……」
「私も近くで改めて観察したいし、トライデントにもなりたいからそれに賛成。私達も三人――桐霞さんも含む――の共犯者になる」
「惺さん……」
俺を見つめる二人の真剣な言葉。俺の胸の奥深くから熱くしてくれる言葉に、涙を流してしまうんじゃないかと思うほどに満ちた気持ちになれた。
「二人とも、ありがと。その言葉が俺にとって唯一の救いだよ。姉さんに頼まれ通い続けた水女での学校生活が無駄じゃなかったと、これからも頑張り続けても良いんだと、心からそう思えるよ」
「ふふっ、はい、これからも一緒に頑張りましょう」
「――もう別れ話は終わりで良いかー?」
凄く久し振りだと感じる優しくとても可愛い笑顔を慧さんが浮かべた所で聞こえた深矢理さんの声。振り返れば、朝歌さんの居た部屋の奥で固まった彼女達の視線が俺達に集まっていた。タイミングを図った訳ではないだろうが、彼女達の作戦会議はもう終わったみたいだ。
「あ、えっと……」
結局俺達の仲を修復するに終始した会話。全く作戦会議をしていないことにどう答えようかと俺が悩んでいると、
「朝歌には気を付けろよ」
事の成り行きを傍観者として黙って見守っていた姉さんが口を開いた。
「年齢は不明だが深矢理の護衛であるアイツも私達のクラスメートでな、桐霞に次ぐ学院四位だった」
「え、彼女が?」
「ああ。だが、アイツは剄家の者として決して本気を出すことはなく、対抗戦に参加するどころか選考トーナメントも辞退していた。本気を出せば深矢理をも上回るかも知れない。決してアイツを侮るなよ」
深矢理さんに答えることも忘れていた俺に、姉さんはただ淡々とアドバイスをくれると、
「夕歌の方も危険だが、お前達がいつも通りの戦い方をすれば勝てないこともないはずだ。互いを信じて最後まで戦い抜け」
先生らしいそんな言葉を俺達に与えた。姉さんのアドバイスは最後まで抽象的過ぎて、具体的なものなど一つもなかった。
「はいっ!」
それでも三人の声は揃った。
俺達が改めて戦場を見据えると、既に深矢理さん達は位置に着いていた。
最前線の深矢理さん。その斜め後ろに剄さん。そして一番奥には剄さんの姉である朝歌さん。彼女に関しては位置に着くというより、惺さんとの小競り合いでそこに移動して以降ずっと動いていない。深矢理さんの方が立場は上のはずなのに、彼女中心で二人が行動している気がする。
俺達もまた彼女達に遅れ、戦い慣れたいつもの位置へと向かう。それは深矢理さん達の陣形の鏡映し。俺と深矢理さんとが十メートル、惺さんと剄さんとが三十メートル、慧さんと朝歌さんとが五十メートルの直線距離で対峙している。ただの偶然ではなく意図したのだろう。誰が誰を意識すべきなのか、それを俺達にも分からせる為に。
「ふふっ、今度こそ勝負を着ける時だな」
余裕満々に笑みを浮かべ、深矢理さんは俺を見据える。
「はい、もう邪魔は入りませんよ。これで終わりです」
勝つことは奇跡だと考えるさっきまでの俺はもう居ない。
「今度は後れを取ったりしませんよ。俺達はトライデントになるんで、こんな所で負けるつもりはありません」
向うの方が圧倒的に有利なのに俺は勝つ気満々。後ろに慧さんと惺さんが居てくれるということ以上に心強いことはない。この三人でなら勝てると、漠然とそんな気持ちになれる。
「でかい口を……まあ良い、そんなことを言えるのも今だけだ。行くぞ――」
口を閉ざすと同時にキリッと表情を引き締めた深矢理さん。真っ直ぐに迫り来る彼女との三度目の邂逅。深矢理さんが瞬く間に両手に生み出したのは二本の氷の刃。
右手で振り下ろされた刃を、俺は強化し炎を纏わせた左腕で防ぐ。すかさず振り上げられたもう片方の刃。それもまた右手で弾くと、俺はカウンターで右脚を振り上げた。
余裕を持って五メートルほども一気に飛び退けられたが、余りにも簡単に防げた深矢理さんの攻撃。自分でも驚くほどの魔術を発揮することが出来ている。それは後ろに居る二人のおかげ。心強さと彼女達と一緒にこれからも頑張りたいという強い想いが魔力を引き上げている。
転入初日に惺さんと模擬戦を行った時に似た感覚。高鳴る気持ちと今ならどんなことでも出来るという想いが、どんどんと姉さんが造った人形の力を引き上げているのだ。
追撃を狙う俺の視界の端から現れたのは雷光。惺さんが放った二筋の雷光が彼女を襲う。
深矢理さんは防ぐまでもない。背後から飛んで来た十本近い氷のナイフの内二本が撃ち落とした。それは剄さんの放った魔術。一撃で落とせた段階でもういつもの彼女ではない。スピードに特化し手数で戦う彼女のスタイルとは違う威力を持っている。
一方で慧さんと朝歌さんに動きはない。お互いに牽制し合っているのか。一瞬の間にそんなことを考えた俺は深矢理さんに迫ると、炎を纏わせた右の拳を突き出す。
深矢理さん自身も最初こそ俺の変化に驚いていたが、もう平静に戻っている。二本の刃を胸の前で交差し拳を受け止めた。
「ぐっ……」
重ねられた二本の氷刀に今の俺の勢いを挫くほどの堅さはない。鋭い衝撃で砕けた刃。顔を歪めた深矢理さんはまた背後に飛び退いた。
最初の剄さんの位置ほどに後退した深矢理さん。既に剄さん達は脇に離れ、惺さんと魔術を撃ち合っている。防御のない何発もの氷柱と雷撃の避け合い迎撃し合い。圧しているのは惺さんだが、惺さんを自らに釘付けにすることこそ剄さんの狙いか。
惺さんの代わりとして、着地しようとする深矢理さんを追撃したのは慧さんの放った幾つもの風の刃。俺の横を通り抜けた慧さんの得意魔術はしかし全て霧散した。朝歌さんの魔術が無効化したのだ。
一拍遅れて放たれた大気の揺らぎはその動き同様、慧さんを模倣したようなもの。威力で勝ろうとする気はなく、一瞬で見極め同レベルの魔術をぶつけ中和しただけ。朝歌さんの実力の高さは分かったが、それ以上のものはない。彼女の目的はあくまで慧さんを戦線から取り除くことだと俺には見えた。
朝歌さんの行動は不気味で怖いが、このチャンスを逃す訳にはいかない。俺有利で進められている絶好のタイマン勝負。
――一気に終わらせてやる。
そんな思いで深矢理さんを見つめるが、俺に主導権を握られてるとはいえ彼女もそう簡単にやられる気はない。
「これならっ!」
空中で再び二本の氷の刃を生み出すと、着地した瞬間に振るった。
「くっ……!?」
覚悟を決めた俺を襲ったのは何度も苦しめられた氷の斬撃。トラウマから咄嗟に横っ飛びで距離を取った俺は、続け様に放たれる斬撃を次々と避けて行く。だが、一気に終わらせる気持ちに変化はない。惺さん達が居る方とは逆に逃げた俺は一転して深矢理さんへと真っ直ぐに向かう。
僅かに驚きながらも当然のように放たれる斬撃。十メートルにも満たない至近距離からの攻撃に、源義経の八艘跳びの如く華麗に何度もジャンプし絨毯を跳んで行く。そして、深矢理さんの集中力を削ごうと炎弾を放ち続ける。
「これで終わらせる!」
順調に距離を縮め拳を振り上げた俺に対し、深矢理さんの手の中で合体した二本の刃。
「それはこっちのセリフだっ!」
騎士が握るような太い氷の直剣を手にした彼女は、俺の拳へと真っ直ぐに突き出した。
純粋な魔力勝負である正面衝突。
「ぐっ……!」
切っ先に触れた瞬間拳に走った鋭い痛みと背筋が凍るような冷たさ。
――これは駄目なやつだ……。
このまま拳を振り切ったらいけないという脳からの警告。しかし、ここで退くことなんか出来るはずもない。意地と意地の対決。ここで退けば体の奥底から溢れる魔力は途切れるだろう。斬撃を避けることとは比べようのない〝逃げ〟など有り得ない。
――圧し切って倒す!
「ぐぁぁぁぁぁぁっーーーー!」
さらに湧き上がる想いと魔力。拳に集中した俺は脳の警告を無視し、喉から漏れる低い悲鳴と共にただ右腕を突き出した。
「ぐぁぅっ……!?」
広くもあり狭くもある戦場に上がった嗚咽。それは俺ではなく、拳を食らい力なく前のめりに倒れようとする深矢理さんのもの。氷剣により手首から先をぐしゃぐしゃにされながらも、俺の拳はしっかりと深矢理さんの胸を突いた。
「ま、まだ、だ……」
がっくりと膝を落としながらもどうにか堪える深矢理さんの右手にあるのは、いつの間にか生み出された氷のナイフ。人間であれば気絶してもおかしくない衝撃も、人形であれば少しは緩和される。それでも相当に痛いはずだが、彼女は強い意思の籠った目で俺を見上げる。姉さんへの強いコンプレックスがそうさせているのだ。
人形故にすぐに回復した深矢理さんは、力ない言葉とは対照的に力強くナイフを突き出した――が、防ぐまでもなかった。
「あっ、がぁっ、ぐぁっ……」
俺に触れるずっと前。突き出し切る前に深矢理さんは再び嗚咽と共に倒れ、今度は完全に膝を落とした。
何事か、そう思う俺の視界の奥――深矢理さんが倒れたことで開けた視界に現れたのは、二丁のレールガンを握った惺さんの姿。安心を与えてくれる相変わらずの無機質な表情の彼女の脇にはうつ伏せに倒れた剄さん。本気の剄さんを倒した惺さんは俺に加勢してくれたのだ。
――あとは朝歌さんだけだが……。
慧さんが健在であることを確認した俺が視線を部屋の奥へと移した時だった。
「――もう終わりで良いでしょう」
慧さんを無効化することに専念し、結局本気を出しているようには見えなかった朝歌さんはそんな言葉を口にした。
「え……?」
それが何を意味しているのか、近くに居る惺さんと俺が顔を見合わせていると、
「勝負は決しました。あなた方の勝利です」
敗北したとは思えないほどに年上の余裕溢れるメイド姿の朝歌さんは、ただ淡々と説明してくれた。
「お、お前がちゃんと、戦えば……」
絨毯の上でもがき、フラフラになりながらもどうにか立ち上がった深矢理さんは、実力を隠し通した剄さんの姉を責める。
だが、彼女に仕えているはずの従者は全く動じない。
「私は久世契さんに対する深矢理様のつまらない執着に付き合うつもりはありません。私達剄家は本家である橘家に忠誠を誓っていますが、あくまで現在の仕事は護衛であって奴隷ではありません。関係ない方を殺そうとすることを黙殺こそすれ、協力することはありません。
夕歌はそのことが充分に分かっていないようなので、一から教える必要がありますね」
主人を逆に叱りつける朝歌さん。怒ってこそ居ないが、剄さんはそのとばっちりを受けている。まあ、当の本人はうつ伏せのまま苦しそうに倒れているので、まともに聞けているのかは分からない。
普通の人間である剄さんにとって――魔術干渉機器であるリストバンドなしで――惺さんのレールガンを耐えるのは厳しい。手加減されていたとしても、数十分は立ち上がれないだろう。
「く、くそっ……」
従者に裏切られた深矢理さんは舌打ちを一つ。
「私はこれで諦めた訳じゃないからな!」
不機嫌な顔そのままに吐き捨てると、完全に回復した体で扉へと早足で向かう。その姿は右手首を失った俺以上に元気なように見える。
慧さんと擦れ違い、姉さんと接近した時には緊張感を抱いたが、深矢理さんが姉さんに何かすることはなかった。
ただ、姉さんの方は違った。
「今度はもっと楽にお前を倒せるよう、アオイをもっと鍛え上げてやるさ。それと、真の力を出した剄姉妹と明日香井姉妹を交えたトリオ戦でもな」
「…………」
わずかに歩を緩めた深矢理さん。無言だったのか、それとも何か答えたのか、俺には聞こえることなく彼女は扉の奥へと消えて行った。その表情も俺達には見ることすら叶わなかった。
果たして二人が関係を修復する日は来るのか、それを心配する必要はないだろう。深矢理さんの反応を見ることが出来た姉さんは楽しそうに笑みを浮かべている。
久し振りに見る姉さんのちゃんとした笑顔。二人はいつか必ず元通りの仲、いやそれ以上の仲を築けることだろう。
満面の笑みで跳ねるように俺達へと向かって来る慧さんを見つめながらに、俺は漠然とそう思う。一度はあんなにも心が離れた俺と慧さんがそうなのだから。