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 その夜は、いつもより豪華な夕餉だった。

 アザミ野の話をしようとすると後にしなさいと叱られたし、夕餉のあとは使用人から聞いたからもう寝なさいと諭された。

 でも珍しく両親が一緒に床についてくれた。

 母は布団の上からとーんとーんと赤子を寝かしつけるようにして、手をつないだ父は愛おしげに見守ってくれた。

 あたたかい布団と優しい両親に包まれ、昼間の疲れもあり、ほどなく眠りが訪れる。


(お礼……言いそびれちゃった……)


 微睡まどろみの中で、ぼんやりとそう思った。

 でも道は覚えているから明日こっそり会いにいけばいいと考えながら、深い眠りに落ちていった。







 その夜半の出来事だった。

 カンカンカンカンと響きわたる警鐘と「火事だ!」とあちこちで叫ぶ声がして目が覚めた。

 母はわたしを強く抱き寄せ、父はふすまを開けて火の手のあがる空を仰いだ。

 父の肩越しに見えるのは、一部分だけが夕焼け空のように赤く染まった星空だった。


(……ま……さか……)


 火の手が上がっている方角に、うっすらと予感めいたものが忍び寄る。


「構うな。アザミ野だ。こちらに飛び火もなかろう」


 空を指して騒ぐ家人と使用人達に、父はきっぱりとそう告げた。わたしは息をのんで、父を凝視した。


(まさか)

(まさか、そんな――)


 信じたくないという想いから、その続きを思い浮かべることはできなかったけれど。


「大丈夫。あなたのことは、わたしたちが守ってあげるから」


 わたしを抱き寄せる母の腕は締め上げるかのような力になる。


「千代、火には浄化の力があるんだよ」


 父はそう言ってわたしの頭を撫でた。

 優しく、穏やかに。

 その優しさに、はらわたがすっと冷えるような感覚を覚えた。

 痛いほどにわたしを強く抱き絞める母の腕を、酷く、厭わしいと思った。


 父も、母も――穢らわしいと、思った。


 なにもかもを無我夢中で振り払って、駆け出していた。

 ただひたすら有らん限りの力を振り絞り、素足のままで冷たい地面を蹴って火の手が上がっている方に駆けた。




   * * *




 たどり着いた長屋は、燃え盛る炎に包まれていた。


「………………っ!!」


 声が出ないのは、息急き切って走ってきたからだろうか。

 それとも近寄ることを拒否するかのような猛烈な熱風のせいだろうか。


 列を作った大人が桶で汲んだ水を受け渡しては次々とかけ続けているが、巨大な蛇の舌のような炎が壁や柱を舐め続ける勢いは止まるところを知らない。

 だれかがもうダメだと呟いて消火の手を止めると、次々に人々の動きが止まっていく。呆然と炎を見上げる人々の中から平太とマツエさんの姿を探すが、襤褸を纏った野次馬がわたしをじろじろと見ただけだった。


「マツエさんは……平太は!?」


 手当たり次第に尋ねても、誰も答えてはくれなかった。彼らは酷く汚いものを見るように眉を寄せたり、くわばらくわばらと呟いて去っていくばかり。

 そんな彼らの態度で、幼いわたしにもわかった。


 わたしのせいであのふたりはこの炎に呑まれて死ぬのだと。

 父と母を穢らわしいと思ったが、わたしも同罪なのだと。


――火には浄化の力があるんだ。


 雑巾のようにギリギリと強く絞り上げられる痛みに耐えて胸を押さえると、唐突に父の言葉が浮かんで。

 弾かれるように、逃げるように。

 息を止めて燃えさかる長屋に飛び込んだ。




 ごうっ!と熱風が吹いて、足を止めた。

 ちりりと長い髪が焦げる臭いが鼻を突いて、黒い煙が目も喉もちくちくと刺すようで――恐怖で足が竦んでぺたりと座り込んだのは、炎に包まれた土間だった。


(あつい。いたい!)


 けほんけほんと咳込み、煙が染みた目からぽろぽろと涙がこぼれる。

 煙と揺らめく炎の熱気と涙で滲んだ視界に、ぼんやりと黒い影が映った。

 目をこすって凝らすと、マツエさんが居間に横たわっていて、その脇に平太が座り込んでいた。


 逃げるわけでもなく虚空を見つめる平太の表情は、罪人の首を刎ねる時とはまた違った。

 途方もない疲労に魂の器が壊れて、抜け掛かっている――そんなふうに見えた。


 柱を、天井を、板間を――すべてを包んでいく炎の枠に切り取られた世界では、炎が喜々として踊り、蛍のように音もなく火の粉が舞う。

 それは踏み込むことも声をかけることも躊躇われるほど、熱さを忘れて魅入ってしまうほど、幻想的で美しい風景だった。


 舞い散る火の粉が炭の欠片になり灰になり、そのうちのひとつがぽとりと手の甲に落ちた。

 ほんのりと温もりを残した煤がぽとりぽとりと雨垂れのように落ちてくる。

 そこに、ぽつ、と水滴が混ざった。


 ぽつりぽつりと落ちるのはわたしの涙。

 嗚咽の間を縫ってこぼれるのは押しつぶされそうな謝罪の念。

 その程度では消えるはずのない罪の重み――。


「……ごめん…なさい……ごめんなさいっ!」


 次に会ったらお礼を言わなきゃと思っていたのに、出てくるのは謝罪の言葉ばかりだった。


「阿呆、なにしにきた!!」


 怒声とともに、ぐいと強く襟を引かれてよろめいた。

 途端顔のすぐ横を恐ろしいほどの熱気が掠め、床に叩きつけられた炭は火の粉をあげて砕けて散らばっていく。

 耳は一際大きく炎が爆ぜる音とメキメキと柱が折れる音を拾っていたが、泣くことに夢中で炎に包まれた炭のような柱が倒れ込んでくることに気づかなかったのだ。改めて足先から凍り付くような恐怖を感じ、縋るように振り返る。

 荒い息遣いの平太が、炎の中に立っている。煤だらけの猫の子でも掴むようにぷらんとわたしの首根っこを吊り上げて。


「死にたいのか? さっさと出て行け」

「平太は?」


 ぽいと私を投げ捨てると、まだ先刻の場所で寝たままのマツエさんの脇に向かって歩き出す。わたしはちょこちょことそれを追う。わたしの問いに答えないのはいつものことだが、追い払うようなことはしなかった。


「マツエさん……?」


 脇に座り込んだ平太の隣に陣取って、安らかとは言い難い顔で眠っているマツエさんを見つめる。


「触るな。死は血以上の不浄だぞ」


 手を伸ばそうとすると、平太はすっと手を出してそれを遮った。この炎獄の中ですら寒気が走って手を引っ込めた。

 でも。

 でも、力なく投げ出されたその手は、わたしの着物を干してくれた手だ。血腥い見せ物を見ないように手ぬぐいを投げ、襟を引っ張ったのも。泥だらけの顔を拭いてくれたのも、全部。

 そう思ったら、手を取らずにはいられなかった。

 あたたかいと感じるのは、息を引き取って間がないからか炎の最中にあるせいかわからない。けれど生者ではありえないほどなんの反応もない。

 煤に汚れた手を握り頬にすり付けると、今度はその死を悼む涙がこぼれた。


「――このまま、この長屋と一緒に火葬してやったほうがいいかもしれないと思ったけど」


 ぽつりと平太の口からこぼれた言葉に振り返ると、彼はうっすらと笑っていた。


「世話になったマツ婆に、そうやってちゃんと別れを告げたい輩が外にたくさんいるんだろうな」

「……へ…いた……?」


 軽々とマツエさんを背負った平太の頬を、炎が赤く照らしていた。抜け殻のようだった表情が生気を帯びて見えたのは、気のせいだろうか。


「はぐれるなよ」


 マツエさんを片手で背負ったまま差し出された手は、ぐるりと袖を巻いていたけれど。

 わたしは煤だらけの手で、その袖を握った。




 焼け落ちていく長屋を見つめる平太の表情はどこか晴れ晴れとしている気がした。

 握ったままだった袖の奥にあるゴツゴツした指の感触が気恥ずかしくて慌てて手を離すと、平太はゆっくりとマツエさんを下ろした。

 集まっていた人々が代わる代わるその死を悼んで涙を落とすと、さっきまで安らかには見えなかったマツエさんの表情が、柔らかな笑みに変わっているような気がした。


 ごめんなさいと再び泣きじゃくるわたしの背を、誰かがそっと撫でてくれた気がした。

 振り返るとそこには誰もいなくて――ぐるりとあたりを見回すと、平太の姿がなくなっていた。

 どこを探しても、もう二度とあの優しい斬首人に会うことはなかった。







――明治三十年。

 法の上では士農工商の身分制度とともに穢多非人という身分制度も撤廃されて、三十年も経った春の出来事だった。




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