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「待って!」
呼び止めると、平太はぎょっとして足を止めた。
「帰れ」
「やだ!」
平太は乱雑に拭っただけで血に曇ったままの大刀を振り上げたが、それは毛を逆立てて威嚇する猫を思わせて、不思議と怖いとは思わなかった。
「帰れって言ってるだろ!」
「やだ!!」
手を伸ばして足を踏み出すとさっと避けられて思いっきり転び、着物は泥と埃にまみれた。
「阿呆! 血は穢れだ! 穢れは、伝染るんだぞ!!」
罵声を浴びせられ、言葉が出ない。
平太からは鼻を突く血の臭いが漂い、触れていたらその血を移していたことを告げていた。唇を噛んで顔を上げると、平太は刀を下ろした代わりにわたしの目の前に爪先を突き出した。
草履も履かずに土を踏みしめるその指は、爪先から黒く変色していて、異臭もしている。
「壊疽って、知ってるか? 少しずつ全身が腐って死ぬんだと」
怒りを押さえているのか、その声はわずかに震えていた。
多分、わたしにではなくて、どこに向けたらいいのかわからない怒りに。
「これと同じだ。おれたちの穢れで腐って死んでも知らないからな」
言い捨てると、素足が土を踏みしめるかすかな音が遠のいていく。
(あぁほら、やっぱり)
ぽたぽたと落ちた涙が土に染みを作った。
(やっぱり――)
優しい人だ、と思った
命乞いをする罪人を笑う見物人よりも、ずっとずっと優しい性根の持ち主だ。
「……ど…うして……」
遠ざかる背中に、弱々しく問いを投げた。
「どうして、斬首人なんてしてるの?」
こんなに、優しいのに。
獣でもなければ気狂いでもないのに。
どうしてあんなことをするのか、幼いわたしには理解できなかった。
平太は足を止めたけれど、振り返らなかった。
「……やらなければ、食いっぱぐれる」
少しの沈黙のあと、雨だれのようにぽつりと答えが落ちた。
「ほかの、お仕事を……」
「阿呆。おれみたいなこどもに選べるほどの仕事があるもんか」
振り返った平太の顔には嘲りの笑みが浮かんでいるのに、その声は不思議と優しい響きと諦めが混じっていた。
「生きていくために罪人の首を斬る仕事をしてる。それだけのことだ」
「なんで!」
「おれが飢えて死ねばいいか?」
「ちがう!ちがうちがうちがうっ!!」
癇癪を起こしたわたしに哀れむような一瞥をくれた平太は、また静かに歩き出した。
腐っていく足で、血に濡れた道を。
わたしはその場にしゃがみ込んだままわんわん泣きじゃくることしかできなかった。
しゃくりあげるわたしの背を、そっとさする手があった。仰ぎ見るとそれはマツエさんだった。
「あーあ、また汚れちまったねぇ」
母ならきっとカンカンに怒るくらいの泥だらけなのに、それは叱る声ではない。呆れるような慰めるような穏やかな声をかけながら、手ぬぐいで泥まみれの顔を拭ってくれる。
「これくらい……洗えばきれいになるよ」
「そうだねぇ」
言い訳するように呟けば、マツエさんは笑って応じてくれた。
「血だって……洗えば落ちるよ」
けれど、今度は返事をしてくれなかった。
「ちゃんと洗えば、落ちるよ!」
「……そうだねぇ」
掴みかかるように叫ぶと、マツエさんはにこりと笑って頷いた。
けれどそれはどこか寂しげで、父が客の話を聞く時のようなただの相槌なのだと感じた。
「ケガレだって、きっと……きっと!!」
わたしはまるっきり癇癪を起こして駄々をこねるこどもそのもので、マツエさんは困り顔を俯けた。
「……帰りな」
マツエさんは落ちきらない汚れが染みついた襤褸の着物の袖で顔を覆った。
「大人になればわかるさ。世の中にはどうしたって落ちない汚れだってあるんだってことが――」
くぐもった声に混じるすすり泣きに、わたしは癇癪を納めた。母が泣いている私によくしてくれるようにさすってあげようと、その丸い背中に手を伸ばした――
「お嬢様!!」
不意に、耳慣れた使用人の声がした。
手を止めて振り返れば駆けてくるのは一緒に洗濯に出かけた使用人だ。
「ご無事でなによりでした! 奥様も、旦那様も、みんながとても心配したんですよ。さあさ帰りましょう?」
彼女の頬は赤く腫れていて、マツエさんが見えていないかのように一言も声をかけなかった。待って、と使用人を留めて振り返ったマツエさんは額を地面にこすりつけるように伏している。その姿にも一瞥もくれずにぐいぐいと背中を押す使用人に、わたしは懸命に説明した。けれど最後まで彼女は一度もマツエさんを見なかった。
帰途、マツエさんや平太に助けられたのだということを生返事の使用人に必死に説明した。
父にも母にも親切にしてもらったのだと話すつもりだった。けれど帰り着くと母は心配したと泣き崩れてわたしの話を聞くどころではなかったし、父はわたしの話になど耳も貸さずにすぐに風呂に入るよう厳しく命じた。姉はヘチマたわしでごしごしと全身が真っ赤になるほど強くこすったし、兄は黙々と風呂の焚き口に薪をくべてばかりで話を聞いてはくれなかった。
あれだけ必死に追いかけた母の着物も、私がその日着ていた物も、その風呂の焚き物にくべられたことを知ったのは、ずっと後になってのことだった。