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 町への帰り道、先導して歩くマツエさんの背中を見つめ、乾いた母の着物をぎゅっと握りしめた。

 川下には獣がいると聞いていたから不安で心細くて、わたしは手をつないでくれない?と聞いた。けれどマツエさんは首を横に振り、わたしは穢多だから畏れ多くて手を取るなんてできないよ、と答えた。

 それが釈然としなくて、拗ねていたのだった。

 母や父は抱きしめたり頭を撫でたりしてくれるし、姉や使用人だって手を繋いでくれたりする。なのにどうしてダメなのかと、口を尖らせて俯いたのだ。

 そういえば平太が母の着物を取ってくれた時も、ザブザブと川に入ったのにわざわざ木の枝にひっかけた――。


「ここからひとりで帰れるかい? 私たちは勝手にこの先に行ってはいけない決まりになってるんだよ」


 と、わたしがとぼとぼと歩いてそんなことを思い出していると、唐突にマツエさんが振り返った。

 顔を上げれば脇に見覚えのある橋が見えた。それはこの先に行ってはいけないという目印として言い含められている町外れの橋だった。


「うん」


 気がつけば、道行く人々の着物はそんなに襤褸じゃない、普通のものばかりだ。すぐそこに住み慣れた町が見えたことに一気に安堵が押し寄せた。


「あ、そうだ。ええと、お世話になりました」

「おやまあ、小さいのに立派な挨拶ができるんだねぇ」


 母を真似て頭を下げるとマツエさんは頭を撫でようと伸ばしかけた手を揉んで、目を細めた。

 そういえば母の着物を取ってくれた平太にお礼を言いそびれたと心の隅で思ったが、帰れるという安堵のほうが大きくて脇に置いた。


「川下には血に飢えた獣がいるって聞いていたからすごく怖かったけど、なんにも出なくてよかった!」


 胸を撫で下ろしてこぼれたわたしの言葉に、マツエさんは眉を顰めた。


「どうしたの?」

「なんでもないよ」


 なんでもないと言うマツエさんが奥歯を噛みしめているからどこか具合が悪いのかと訝しく思った時――人波が、異様に揺れた。

 逃げるように町に向けて足を急がせる者と、逆に喜々として橋に向かっていく者との対流が起こる。


「頼む! 見逃してくれ!!」


 人垣に隠れてよくは見えないがおそらくは橋の上から悲鳴のような悲痛な叫びが聞こえた。


「早く家に帰りな!」


 はっと息を呑んだマツエさんがわたしの背をぐいっと押したが、怖くて足が竦んで動けなかった。


「いやだ、死にたくない! 死にたくないんだ!!」


 耳を塞いでも、その悲鳴は手のひらをつんざいて刺さるように聞こえてくる。


「許してくれ! どうか……っ!!」

「黙れ!」


 聞こえた男の押さえつけるような声には聞き覚えがない。

 けれど人垣の上ににゅっと伸びた大刀の輝きに、思わず目を見張った。


 その幅広の、大刀の輝きに。

 襤褸の黒い着物の袖に。

 見覚えが、あった。


「こどもが見るもんじゃないよ!」


 無意識に駆けだしたことに気づいたのは、マツエさんが呼び止める声のおかげだった。けれど、止められなかった。

 大人の足を掻き分け、身を捩って隙間に小さい体をねじ込み、人垣を抜けた。



 橋の真ん中に、4人の男がいた。

 しっかりとした体格の男二人に押さえつけられた痩せた男が命乞いを喚き散らしている。その脇で大刀を振り上げているのは、小柄でやせっぽちの少年だ。


 その大刀の輝きも、襤褸の黒い着物も、確かに見覚えがある。

 けれど、無表情な顔に浮かぶくらい瞳の光だけは、知らないものだった。


 怖いと思ったし、ぶっきらぼうで性悪の鴉のようだとも思った。

 けれど、なんの躊躇もなく川に入って母の着物を取ってくれた。

 わたしの世話を、マツエさんに頼んでくれた!


「見るんじゃないよ!」


 無言で振り下ろされる煌めきが、襤褸の手拭いで遮られた。

 ゴッ、となにかがぶつかるような鈍い音が聞こえた。

 ゴトリと重いものが落ちる音も。

 マツエさんに襟首を掴まれ、老人とは思えない力強さで人垣の中に引き込まれながらその音を聞いた。


“血に飢えた凶暴な獣がいる。”

“人にあらざる者”


 漂う血の強い臭いとバクバクと壊れそうなほど脈打つ心臓の音を耳の奥に聞きながら、そのふたつの言葉を結びつけた。


「帰りな」


 あれほど耳を刺すようだった悲鳴は、もう、聞こえない。

 だからマツエさんの声はとても静かなのにはっきりと聞こえた。

 ぱらぱらと捌けていく人々の目を盗むようにそっと、マツエさんは町に向かってわたしの背を押した。その人々の波にわたしを押し込もうという意志を込めて。


「二度と来るんじゃないよ!」


 それは、父の叱咤にも似た有無を言わせない力強い声だった。

 言われるまま、震える足を一歩踏み出した。


 マツエさんの背後にある風景を想像することはできなかった。それでも、それが恐ろしいものであることだけはわかっていた。

 だから振り返ることはできなくて、ただ一歩一歩を踏みしめるように慎重に足を踏み出した。


 隣をすり抜けていく男の顔をちらりと見上げると、鬼のように目をギラギラさせて、口は笑みを浮かべていた。

 別の男も、また別の人も。

 なにが面白いのか笑い話みたいに陽気に語り合って連れ立つ人もいる。


 町に続く道を踏みしめるごとに、そんな人波に呑まれて歩いていることにもやもやと黒い靄が渦巻いていく。


「う……っ」


 吐き気に襲われ、口を覆って道端の草叢くさむらにしゃがみ込んだ。

 

「こっちは、あんたみたいな子が来てはいけない場所だよ!」


 背をさすってくれるわけでもないし、竦んでしまうほど強く叱られる。でも、その言葉は心遣いからこぼれたものだという直感から、縋るようにマツエさんを返り見た。


 眉を顰めて遠巻きに通り過ぎて行く人々の向こうに、わたしが町に着くまで見守るつもりでいるのだろう優しい老婆がいた。

 それからそのずっと後ろのほうに、とぼとぼとアザミ野に帰っていく黒い着物の小さな背が。ぶっきらぼうだけど、なにも言わないけれど、母の着物を取ってくれた。優しい老婆に世話を頼んでくれた――心優しい、斬首人の背中が、見えた。



 その背中を、無我夢中で追いかけた。



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