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 縁側でうとうととまどろんでいると、春の陽気を切り裂くように一陣の風が吹いた。

 その風を追うようにゆっくりと顔をあげ、カタタンカタタンと線路を踏みならす足音が遠ざかっていく左手に視線を動かす。電車の後ろ姿はもう見えない。

 けれど土手に咲き乱れたアザミの花はゆらゆらと揺れている。


 “千代”と記名された杖を突き、覚束ない一歩を踏み出す。

 杖を突いていない方の手をアザミに向かって伸ばすが、庭の向こうの土手まで届くわけもない。

 息苦しさに、胸を押さえる。

 あの時の胸の痛みは、いまだ鮮明にこの胸に蘇る――。




  * * *




 明治30年の春だった。

 わたしはまだ7つのこどもだった。世間知らずで、無知で、本当になんにもわかっちゃいないこどもだった。




 あの日、わたしは使用人と2つ上の姉と3人で川に洗濯に行った。

 川で洗濯なんて物凄い昔の話みたいに聞こえるけれど、洗濯機なんて出回るようになったのはつい最近のこと。ほんの一昔前には川や用水路なんかで洗濯板にごしごしこすりつけるのが当たり前だった。それに大抵の家庭の大人は仕事が忙しいから洗濯はこどもの役目だった。

 商人あきんどをしていたわたしの生家は裕福だったけれど、洗濯は娘たちも手伝う習いになっていた。

 いつもは近くで遊んでいるよう言われていたのにはじめて一緒にやってもいいと言われたのが嬉しくて、姉に手を添えられるのが嫌でひとりでやると癇癪を起こして、ついには母の着物を流してしまった。


「なにやってるの!」

「お嬢様、いけません!」


 姉の怒号と使用人が呼び止める声を背中に聞きながら、わたしは母の着物を追って川沿いを下った。

 小石の積まれた河原を駆け、わたしの肩ほどまで伸びた草叢くさむらをかき分け、錆色でちくちくする芦をかき分ける。

 夢中だったからどのくらい走ったのか覚えていないけれど、最後にようやく、やわらかそうな新緑の白詰草が広がる河原で、母の着物を見つけることができた。

 けれどそれは岸から一間いっけんほどの場所から突き出している流木にひっかかっていた。手を伸ばしても届かないから、枝かなにかがあればと思慮を巡らせあたりを見回す。岸には丸っこい石ばかりで、その向こうの高土手にはアザミが咲いていた。

 さわ、と風が吹いて赤紫と濃緑の斑模様が美しい野原を揺らした。


「あ」


 アザミの原の中に黒い物がちらりと見えたから急いで草叢くさむらをかき分ける。するとその中に落ちていたのは、人だった。

 襤褸ボロの、黒い着物をきた、5つ上の兄と同じくらいの男の子だった。しかも褪めた黒の着物をよく見れば、黒みを深くする染みがついている。

 死体だろうかと一瞬声にならない悲鳴をあげそうになったけれども、それより先に胸が上下して呼吸していることに気づいてそれを飲み込んだ。

 眉間に皺を刻んでいるから寝顔は安らかとは言い難かった。

 わたしはその眉間の皺に、何気なく――本当に寝ている犬猫に手を伸ばすくらいに何気なく――手を伸ばした。が。


「ひっ!」


 唐突にカッと目を見開き、手元にあった大刀を振りかざされて今度こそ悲鳴を上げた。

 わたしを睨みつける鋭い目は性悪の鴉のようで、腰が抜けて全身が震えた。


「……ぁ。あっ」


 振り上げられた大刀が日の光を弾いてギラリと輝くのを見た途端に、じわりと下肢が温かいもので濡れた。臭気を含んだ生温かい空気が立ち上り、眉をしかめた少年は無言でゆっくりと大刀を下げた。

 さらにゆっくりと頭を巡らせ、母の着物に目を留める。

 少年は何度かわたしと母の着物を交互に見てから、のそりと立ち上がる。手近な木の枝を折るとざぶざぶと川に入って、枝に母の着物をひっかけて戻ってくる。


「ん」


 無愛想に枝にひっかけたままの着物を突きつけられ、受け取ってもいいのか迷う。


「いらないのか」

「……あ、ありがとう」


 押しつけられるようにして手元に戻ってきた母の着物を胸に抱いて礼を言うと、少年は無表情に踵を返した。


「用事が済んだらさっさと帰れ。ここはアザミ野だ」

「アザミ野?」


 掠れた少年の声で紡がれた聞き覚えのない地名に、わたしは首を傾げる。

 母の着物を夢中で追いかけたから、まったく覚えのない場所にまできてしまっていたのだと、いまさら気づいて背筋が冷えた。

 両親や使用人に常日頃から川下には行ってはいけないと言い含められていた。血に飢えた凶暴な獣の巣があるから絶対に近づいてはいけないと。

 枝を投げ捨て、ぽたりぽたりと水が滴る着物を軽く絞った少年が、一歩足を踏み出す。


「ま、待って!」

「おれに触るな!!」


 寄る辺のない不安から追い縋ろうと手を伸ばすと恫喝され、身が竦んだ。


「ご……ごめんなさい」


 鬼のような形相が、息をひとつ深く吐き出すと緩む。だが、少年はぷいと背を向けて歩き出した。

 少年が一歩踏み出すと、また一滴の水がぽたりと落ちた。それは薄紅色に染まっていて、私は耳の奥で血の気が引く音を聞いた。


「……待って。血が、出てる……」

「おれのじゃない」


 去っていく少年が最後にわずかに振り返った時に浮かべていたのは、大人がするような笑みだった。面白くもないのに無理矢理笑っている、そんな笑みだった。




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