5 『言葉の魔法』
どうしてユークがぼくにキスをしているんだ?
それも唇が触れ合うだけじゃない、ガチの大人のキスってやつだ。
現に今もぼくの前歯を彼女の舌が触っている。
ぼくとはいえば振り払うわけにも口を閉じるわけにもいかず、かといって受け入れればいいのかそれともこちらからも舌を突き出せばいいのか――そんなことできるわけあるか!
おおっとここでユーク選手痺れを切らしたのか口腔前庭を突っ切り前歯に触れるでは飽き足らず舌尖により閉じかけた下あごをこじ開けにきたー!!
限界!俺選手限界です!タップ!タップタップ!俺選手タップアウトだぁー!
「お嬢、こやつ動いております、もはや心配はご無用」
男とも女とも知れない声が聞こえると、ユークは仰向けに倒れたぼくから顔を離す。
泣きはらしてうるんだ黄金の瞳がぼくを見据える。間髪おかず今度は抱きついてきた。
ぼくは限界であることを示すのに彼女の肩を叩いていたので、お互いに掻き抱いているような格好になってしまう。
「よかった……生きてる……生きてるよう……」
「ユーク、その、く、苦しい」
うそだ。せいぜい胸に猫が乗っているくらいのもので、息苦しさなんてほとんど感じない。
むしろいいにおいがする。やわらかい。すべすべする。
ふだん異性との振れあいなど皆無に等しい体に、この状況は過激過ぎる。
だから涙声で生きてた、よかった、と繰り返す彼女にどうにか離れてもらおうとした苦し紛れの答えがこれだ。
「あっ! ごめんね……。でも、本当によかった……」
「いや我輩も焦りました、結界で体の傷は癒せても、心に受けた傷はそうはいきませんからな。しくじれば後も追わん勢いで泣きつかれては、かなわん」
「あなたは『黙ってなさい』、棒っきれ!」
ぼくから離れ、立ち上がったユークは彼女自身の右手に向かって怒鳴った。いや、棒っきれというからにはその手が掴んだ杖に向かってのことだろうか。
白く細身ながら長大で、ユークの背丈と同じくらいの長さだ。その先端には、いくつものきらびやかな宝石がはめ込まれている。
「さっきの声は……その杖から聞こえてたの?」
「うん。悪趣味なデザインだけど、わたしが好きで持ってるんじゃないからね」
そう言いながら、杖をぞんざいに放り投げてぼくを助け起こしてくれる。
彼女はどこか痛くないかとか苦しくないかやら、果てはお腹が空いていないかなどと尋ねてきて、やたらと甲斐甲斐しい。
「ぼくはどうなったんだ?」
「……説明して」
ふたたび杖を拾って、両手で掴み問いただすように唱えるユーク。しかしなにもおこらなかった。
「そいつ、さっき黙らせたんじゃあ」
「あ。『話していい』わよ」
「ぷはあ! よう気付いたぞ、小僧。まったくお嬢の言語魔法ときたら、おつむは追いついてない癖むやみに力ばかり強くてかなわん」
「……『必要なことだけ話しなさい』」
ユークがそう言うが早いが、堰を切ったように杖から言葉の奔流があふれ出した。
「小僧、おまえは言語魔法をまともに受け止めたな? 嫌い、だったか。こんな言葉を丸飲みにして自滅しかけるとは、まったく軟弱極まりない呆れたお人よしだ! よいか、嫌いとは否定の言葉だ。おまえは否定の魔法を受けた。他者から否定を受けた者が救われるには、自分で自分を助けるか、さもなくばまた他者から肯定されるかしかない。つまり自己を肯定できぬ者は孤独のうちに死ぬ、そういう呪いを受けたのだ、おまえは。我輩にはそのような心中想像もつかんがね。しかしまあ、小僧、おまえは孤独ではなかったわけだ。気を失っておったから肯定の言葉は届かぬが、お嬢の体を張った絶対的な肯定は届いたであろう?おお、赤くなりよった。そうとも、今の我輩に目玉はないがよう見えておる。ああ、我輩がなぜここに居るか気になるか? 主人に喚ばれては、その持ち物として参上せんわけにはいかんだろう。しかし久々のお呼びかと思えば、お嬢はどこの馬の骨とも知れぬ男に覆いかぶさっておるではないか。いやはや全く驚いた。もっとも事の顛末を聞けば全くくだらん話だったがな。魔女が凡夫一人殺したところで何を騒ぐ必要がある? 父上殿もお嬢もいささか博愛の過ぎるお方だ、まったく理解に苦しむ。それにしても言語魔法とは難儀なものでありますな、お嬢? 容易に暴走し、時には行使者の本心にすら逆らう。一度放った言葉は取り消せないとはよく言ったものではありませんか! しかしながらこの度お嬢は言ってしまった言葉を見事に取り消してみせた、まさしく不可能を可能にする魔法使いの面目躍如といったところですな。それとお嬢、そのような複雑な命令を聞かせるには貴方は未熟すぎ、そして相手も悪過ぎます。我輩を誰と心得まするか?」
ユークはぼくと同じく呆気にとられてこの杖の立て板に水の講釈を聞いていたが、矛先が彼女に向いたことに気付くと真っ赤になって抗議を始めた。
「『黙りなさい』、この枯れ枝! 今度こそ折るわよ!」
ユークはおーるーわーよー、などと叫びながら、片膝を上げて両腕で杖を押し付け、へし折ろうとしている。
しかし杖は曲がるどころかたわみもせず真っ直ぐなままだ。
それどころかバカにするがのように伸びちぢみしはじめ、しまいには杖頭を残してバトンのようになってしまった。
当然支えを失ったユークは前のめりに倒れるわけで、ぼくはどうにか彼女を受け止める。
転ぶまいともがいていた彼女は急におとなしくなると、ぽつりと言葉を発した。
「……ごめんね。わたし、ユウに迷惑かけてばっかり」
「何言ってんだよ! 二度も死にそうになってるとこ助けられて、何てお礼を言っていいか分かんないくらいだ」
「ちがうよ。一度目だって、わたしがいなければあんな人たちにユウが刺されることもなかった。わたしはユウを二度も殺しかけたの。だから助けたって、お礼を言われる資格なんてない!」
「……ぼくは、嬉しかったよ。会ったばっかなのに……ああまでして助けてくれて。だから、ありがとう」
言葉を選びながら、どうにかそれだけ言ってやれた。
すると彼女はぼくに体重を預けたまま抱きつき、また泣き出してしまった。
悲しいかなこんな短時間で免疫がつくわけもなく、体がかちこちに固まってしまう。
しかも、今度は何を言っても離れてくれそうにない。
所在無くあごを上げるともう空は薄暗く、星の光がまばらに見えていた。
俺、いったい何時間眠っていたんだろう?