39 『真夜中の散歩』
「ちが……!!?」
振り向いて拒絶の言葉を放ったつもりだった。
が、現実、俺は立ってすらいない。
ただ寝床から身を起こし、虚空に手を伸ばしているだけだ。
何を撥ねつけようとしていたかすら思い出せない。
(こいつに聞かれて……ない、よな)
正気づくと急に恥ずかしくなってきた。
こんな姿を見られたらまたオドに小憎らしい口を聞かれてしまう。
幸い、隣のベッドから文句は飛んでくることはなかった。
何もなかったことにして寝直してしまおう。
にしても、一体どんな夢を見ていたんだか。
寝る前に気がかりだったのは……ユークの隠し事とオドの昔話か。
でもどうして俺がその流れで否定したりするんだ?
(ダメだ。なんか目が冴えてきた)
考え事なんて始めるんじゃなかった、さっさと寝直せばよかったんだ。
ここでじっとしていても、まんじりともしないまま朝を迎えることになるだろう。
そういえば、この屋敷には中庭があった。
オルミスの中なら夜でも動けるって話だし、少しだけ歩かせてもらおう。
こそこそと廊下に出ると、灯火はすっかり落とされていた。
突き当たりの窓から差し込むアレハンドの石の輝きが唯一の光源になっている。
(夜の明かりが赤いって、やっぱちょっと不気味だよな……)
つくりが洋館なのもあいまって、ちょっとした肝試しのような気持ちになってくる。
中庭にたどり着くには大広間を突っ切らねばならないので、実際肝を座らせておかないと大惨事だ。
下手にまたフリーズしてしまえば、朝までそこで立ち尽くすことになりかねない。
……やっぱり引き返そうかな。
(ん? 大広間のほう……音がする?)
立ち止まって逡巡したとき、かすかな振動が耳をかすめた気がした。
ことこと、ことん、ことと……そんなふうに聞こえる。
その音は、むかしのことを思い出せた。
家にあったアップライトピアノを夜に弾くときは必ずミュートにしてヘッドホンで聴かなきゃならなかった。
そのときまわりに響くのは打鍵の音だけ。
気づけば足はふたたび動き出し、いつの間にか大広間に踏み入っていた。
そこを照らしているのは外からの茜色の光だけではない。
ピアノ――いや、クラヴィーアだっけか――その周りがぼうっと浮かび上がるようにまばゆく……そしてスツールには人影があった。
「コルト……?」
ことととん、ことことこと、ことん。
鍵盤を叩く音だけの演奏は続いていた。
音楽がこちらに届かないように、コルトにも俺の声は聞こえていていないのだろうか。
……そもそも隠れて密かに弾いているんだ。
腕前を披露したいわけではないだろうし、邪魔をするのも心苦しい。
素直に戻って寝直そう。
そうして踵を返したとき、打鍵音がやんでいるのに気づいた。
「……!!」
振り向くと、口元を両手でふさいだコルトの姿があった。
気付かれた。
さっきまでこっちを見るそぶりなんてなかったじゃんか、間が悪いな!
「ご、ごめん! 眠れなかったんだ。それで、ちょっと身体動かそうと思って、その」
こうなれば平謝りしかなかった。
頭を垂れてしどろもどろの弁解をはじめてみるけど、こっちの声が届いているかもわからない。
言葉が続かなくなり、返事も返ってこない。
耐えきれずに顔を上げると……目の前にコルトがいた。
「失礼、いたします。……こちらへ」
コルトは少し強引に俺の手を取り、大広間の隅に灯る明かりの側に導いていく。
あっけにとられてされるがままだ。
「乱暴で申し訳ありません。しかし明かりの外で……」
歩きながら話すコルトの声が途切れた。
そのときようやく、明かりの正体がはっきりした。
それは手持ちのカンテラにおさまる形に切り出されたアレハンドの石だった。
この街にあったランドマークとはまったく大きさが違い、壁掛けに下げられたそれはまるでミニチュアだ。
けれど光り具合はよく似ている。
「……ほかの皆さまを起こしてしまいますゆえ、ご容赦ください」
さらに近づき、楽器の鍵盤一つ一つが見分けられる距離にまでやってくると、コルトの声がまた聞こえはじめる。
明かりの外、だとかコルトは言った。
この明かりは防音室の役割をしているとでもいうのか?
「この石の光って、魔法なのか?」
いろんな疑問が浮かんでいたけれど、真っ先に口を突いて出たのはこれだ。
だって気になるじゃないか。
「こちらは奥様より賜った法具でございます。グローブに遮音の結界式が描かれており、夜間に光を発しているあいだ、音を周囲にとどめてくれる……はずだったのですが」
「そっか、だからわざわざ夜に弾いてたんだな」
「お耳を汚した上にお休みを妨げてしまい、本当に申し訳ありません。いかなお叱りも……」
言い訳の一つもなしに頭を下げられると、こっちが恐縮してしまう。
あわてて腕を振り、彼女の言葉をさえぎった。
「コルトが謝ることはないんだ。俺が勝手に起きて、ふらふら出歩いてただけだからさ」
「そう、でしたか……。結界に不備があったのではなかったのですね」
コルトは少しほっとした様子だったが、すぐに再び頭を垂れる。
「ですが、驚かせてしまったのは事実です。大変失礼いたしました」
「いいんだって、むしろ邪魔して悪かったよ」
「せめてお伝えしておくべきでした、やはり何かお詫びを」
このままではお互いぺこぺこしあったまま朝を迎えそうだ。
ただでさえ迷惑かけてんだから、こっちにかかずらってない間くらい羽を伸ばしていてほしいものだけれど……。
そうだ。
主に気を遣わせては良い従者足りえない、だったかな、コルトが言っていたのは。
その精神に乗っ取り、こちらに気兼ねせずに演奏してもらおう。
「それじゃ、お詫びってんじゃないけど……続きを聞かせてほしいかな。こっちの世界の音楽がどんなのか知りたい」
「かしこまりました。拙い腕前で恐縮ですが、お望みであれば」
コルトは頷いてくれたが、とてもリラックスした様子には見えない。
きびきびと向き直りスツールに腰掛ける姿は、むしろ仕事としてこなそうとしているようだ。
(普段通りでいいんだけどな……)
彼女の指が鍵盤に触れると、響いたのは耳慣れない、弦をつまびくかのような音色だった。
オドの言うチェンバロとは俺の知っている楽器そのものだったようだ。
むかし聞いた言葉を思い出す。
祐くん、知ってる? ピアノって弦楽器なんだよ。打楽器でもあって、もちろん鍵盤楽器でもあるの。
(でもって、ご先祖様のチェンバロはハンマーで叩く代わりにピックで弦をはじいてるの、だったかな)
その性質ゆえ、チェンバロの発する一音は長続きしない。
だから、この楽器のために書かれた楽譜はそれを補うために細かな装飾音でいっぱいになる……ということらしい。
おかげでバッハの練習曲なんかは何度も投げ出してしまった。
目の前で演奏するコルトも細かなトリルを幾度も繰り返し、三拍子を奏でている。
今の俺じゃ、いきなりコレは弾けないだろうな。
(……やめよう、演奏に集中しろ)
さあ聴かせてやろう、踊らせてやろうなどと訴えかけてくる響きではない。
音色もあいまって、速回しにしたオルゴールBGMみたいなんだ。
人の言葉を借りるなら、サティじみてるなー、とか言うのかな。
日常を妨げず寄り添ってくれるのに、耳を傾ければしっかりと聴き入らせてくれる。
まるでコルトの言う良き従者を体現しているかのような演奏だった。
「お粗末さまでございました」
ふわりと一礼するコルトに、惜しみない拍手を贈る……のは、いくら外に音が漏れないとはいえ真夜中なので憚られた。
失礼にならない程度にとどめて、どうにか言葉で表現する。
「すごいよかった! 知った風なこと言うけど、コルトらしいっていうか、君の理想がそのまま聴けるって感じだ」
「……ご満足いただけたのであれば幸いです。お客様に披露する機会など、今までなかったものですから」
「なぁ、これって流行りの曲なのか?」
「市井ではあまり演奏されていないかもしれません。ご希望であれば、定番と呼ばれるものもお聞かせできますが」
つまり、自分の好みで選んでくれたってことだろうか。
そりゃこっちはなんにも知らないわけだし、ここの定番を弾いてもらってもあれねと盛り上がれるわけじゃない。
でもなんだか嬉しかった。
はじめて素のコルトを見せてくれた気がしたからだ。
「いや、もう大丈夫。さんざん邪魔してごめん。いいもん聞かせてもらったし、部屋に戻るよ」
会釈してその場を離れようとしたが、コルトの反応は鈍かった。
これまでのような如才なさが影を潜め、何か言いたげにこちらを見ている。
「なんか……悪いこと言ったかな?」
「いえ、とんでもない!」
コルトは自分でも驚いたように手で口をおさえる。
幾度目かのお辞儀とともに、申し訳ありません、ただ、と続けた。
「その……ユウさまは、本当にクラヴィーアを嗜まれないのですか?」
見透かされていたのはこちらも同じだったらしい。
でも、一体どうして……。
「指が動いておいででしたので」
どうして気付いた。
どうして俺はそんな真似をしたんだ。
いいや、これは弾こうとしたんじゃない。
無意識で手遊びをしてしまっただけだ。
そうに違いない。
「ただの、手遊びだよ。さっき言った通り俺は弾かない」
「……出過ぎたことを申しました」
ムキにならないように気を付けたつもりだった。
それが成功したかどうかは、コルトの表情から読み取れない。
彼女は怯えこそしなかったけれど、居心地悪そうに目を伏せてしまっている。
だめだ。
こんなに見つめていちゃ、睨んでるのと同じだ。
「ごめん、おやすみ」
「はい。おやすみなさいませ、ユウさま」
今度はこともなげに送り出してくれる。
コルトの気遣いを喜べばいいのか、恨めばいいのか。
自分の中に弾きたい気持ちがまだあるのか。
明日、どういう顔をしてコルトに会えばいいのか。
寝床に入っても、一体どう寝付けばいいのか。
何もかも分からない。