38 『日が落ちれば食べて寝る』
胡椒のよく効いたオニオンスープにミルク粥、香草たっぷりの白身魚の蒸し焼き、それと見覚えのない果物と見慣れた果物がいくつか。
コルトの用意してくれた夕食は、鼻のみならず舌も腹も満足させてくれた。
もの足りないとすれば、肉料理がないことくらいだ。
「やはり……ユウさまやオドさまには不足でしたでしょうか?」
「……顔に出てた?」
「あー! ユウ、出されたご飯にあれこれ言うのはお行儀悪いよ!」
「言ってはないだろ……」
スプーンで人を指すのも同じくらい行儀悪いぞ。
「否定しなければ、言ったのと同じです」
さっきまで食べるのに夢中だったオドがこんな時だけ会話に入ってくる。
そりゃそうかもしれないけど……それを咎められちゃ誘導尋問だ。
恨めし気に見やるが、この年下の金髪は意に介さずふたたび果物をつまんでいやがる。
そんな俺たちの様子を、コルトは申し訳なさそうに見守っていた。
「いや、悪かったって。ここに来てから身体を動かす機会が増えたせいかな、やたら肉が食いたくなってさ」
「……申し訳ございません。主が伏せってより、当家の賄い料理は主に倣い養生食としているのです」
「そうなの……。だからおかゆなんだね。でも、こんなにおいしいおかゆ食べたことないよ!」
不満を言った分の埋め合わせだとでも言わんばかりにユークが褒めちぎる。
ばつが悪くなってきたので、聞き流して別の話を切り出した。
「にしても、ラトが戻ってこないな。今かなり薄暗いけど、これってもう……」
もうすでに夜が人を食らいはじめる時間なのか?
そう聞こうとして、自分が常識について質問しようとしていることに気付く。
しまった、俺の事情はまだ話してない。
はっとして口元を押さえるが、コルトが表情を変えることはなかった。
ご心配なく、と笑顔で請け負ってくれる。
「ユークさまから聞き及んでおります。ご心配はありません」
「そっか、ならよかった。夜ってどのくらい危ないものなんだ? ただ暗いのが危ないなら、夜寝てるときだってそうだよな」
オドもユークもきょとんとした顔をする。
どうしてそんなことを聞く必要があるのだ、と言わんばかりだ。
しかしコルトはすでに答えを用意してくれていたようで、よどみなく答えてくれた。
「夜に呑まれるだとか、喰われるという言い方をします。仮に、姿なく、息することなく、臭いも気配もない獣が跋扈していると考えていただくのがいいでしょう。その獣に呑み込まれた者が帰ってくることは、二度とありません」
「……マジかよ」
ラトが語ったおとぎ話の通りだとまでは思わなかった。
イストリトがすざまじい剣幕でラトを叱っていたわけだ。
でも、ラトも……俺も平気だったぞ?
「前、夜の間ジャンドっておっさんに連れ出されたことがあるんだ。夜廻りだか言ってた」
「夜に家から出たからといって、ただちに危険があるとは限りません。ただ、試してみるべきではないでしょう。ジャンドさまのような連れ合いがいる場合を除いて」
「つまり、偶然そのバケモノがいなくて助かった、ってこともありえるわけだ。もしかしたら夜廻りっていうのは、そいつの居場所がわかる、みたいな感じ?」
「わたくしがそう申し上げるつもりで獣に例えてみたのですが……先を越されてしまいました」
そんなことを言われたらちょっといい気になってしまう。
口元がニヤつきかけるのを必死で抑えたので、顔面がこわばってうまく話が続けられない。
「そんな人がいるなんて、はじめて教えてもらった! ジャンドがついてくれてたら、夜もお散歩できるんだね」
「……夜廻りの多くは、闇刑という刑罰の中で見いだされます。素質があるかどうか見極めるには、闇の中に身を置くしかない――そう聞き及んでいます」
「ぼくといっしょにいた人のうち、魔術の素養がない人たちは、夜になると牢から連れ出されていました。そのうち数が減って、誰もいなくなりました」
……夕飯中に向かない話になってきた。
ジャンドの話にとびついたユークが泣きそうじゃないか。
最初に切り出したのは俺なんだから収拾をつけなければ。
「そうだ忘れてた! 今の暗さについて聞こうと思ってたんだ。どうだろ、ラトなら今からでも帰ってこられそうかな」
「おそらく、こちらに戻ってはこないでしょう。オルミスとクロスの距離を気にする子ではありませんが、そもそもこの屋敷を好かないようですから」
「危険があるかどうかの問題じゃないってわけか……」
無鉄砲な子ですから、と肩をすくめるコルト。
「暗さについてですが、裏一つ月とはいえいましばらくは市外も出歩けるでしょう。おすすめはいたしかねますが……」
「裏一つ……、ってユークも言ってたけど、知らない言葉だな。それも教えてもらえない?」
「かしこまりました」
ユークにはまたも首をかしげられるが、コルトはよどみなく了承してくれる。
これまで俺たちが何を言っても、逡巡することも言いよどむこともほとんどなかったな。
ありがたいけど、それだけこっちをどう思っているかが掴めないのが気になる。
「まず、一月、二月、といった数え方はご存知ですか?」
「そりゃもちろん」
「甫国での数え方ですね。オドさま、ユークさまはどうでしょう」
「知っています」
「え、みんな知ってるの!? えっと、いまって日の裏一つ……じゃないの?」
またもやはじめて聞く言葉だ。
「日の?」
「ユークさまのおっしゃる闇暦法が、厘国で広く使われる暦です。一年を大きく水、日、地の三季に分け、その中で昇る月の数に応じて四つの月を数えます」
「月の……数? もしかして、月がいくつかある……あ、それで一つ月?」
いつだかニクスが何季か修行を積めば魔法を使えるようになるとか言ってたっけ。
でもって、月がたくさんあるって?
ユークとはじめて会った森で野宿したときは、月は一つだけだった気がする。
「一つ月、二つ月、裏一つ月、そして月の出ないひと月を闇月と呼びます。甫国風にいえば、二月、六月、十月。夜闇はより深く、危険も増す時期です」
「十月が闇月で、今が日の裏一つってことは、九月……でいいのかな、甫国的には」
「はい。太陰暦の一月が地の裏一つ、闇暦のはじまりである水の一つ月が三月、となりますね」
「や、ややこしいよぅ。裏一つでいいじゃない……」
逆の立場で同感だよユーク!
でも、闇暦とやらがその名の通り夜の暗さを暦の名で示していることがわかった。
家路が遅れれば命取りとなるのだから、常に意識できるような仕組みなのだろう。
「いろいろありがとう、コルト」
「お力になれたのであれば幸いです」
「たまにでいいから、またいろいろ教えてくれ。忙しくない時でいいからさ」
言ってしまってから、このメイドに忙しくない時などあるのだろうか、と思い直す。
だがもちろん、当人は気を悪くしたふうなどかけらも見せない。
「かしこまりました。何なりと」
一分の隙もないお辞儀が返ってくる。
文句の一つも言ってくれた方が気が楽なのに、と思ってしまう自分が恥ずかしかった。
ベッドメイクを教わったユークはとてもご機嫌だった。
そのまま寝てしまってもいいのに、なぜか俺とオドに割り当てられた寝室にまでやってきてその腕前を見せつけてくる。
「ほら、オドのベッドできたよ! 見て、シワ一つできてない!」
「そ、そうだな、凄いな」
「ぼく、自分でやりたいのですが……」
自立心が旺盛なのはいいことだけどここは我慢な。
できることが増えたのが嬉しいのだろうか、ユークは歌でも歌いだしそうだ。
「ところでさ、俺がここに来る前、コルトと何を話してたんだ?」
「……ユウのもやってあげよっか!?」
なんだこの圧。
自分の寝床はもうできているのに、思わずうなずきかけてしまう。
そんなに聞かれたくないことだったのかな。
「ぼくも聞きたいです。コルトさんが慌てていたのはあの時だけでした」
「ほ、ほらっ、寝っ転がってもぜんぜんたわまないよ」
ユークは質問をかき消すようにはしゃぎ、ベッドを転げまわってみせる。
……さすがにそのごまかしは無理があるんじゃねえかな。
オドも口には出さなかったが、表情を見ればそう思っているのは丸わかりだった。
「教えてください、ユークさん」
「う……、え、えっとね……ちょ、ちょっと待って!」
ベッドから下りたユークはこちらに向き直り、俺とオドを交互に見やる。
ふいに緊張が走り、俺たちは姿勢を正して言葉を待った。
「も……」
も?
「……もう夜遅いから寝るねっ! おやすみなさーいっ!!」
言うがはやいか、白い衣をひるがえして部屋を後にしてしまった。
残された俺は言葉を失うほかない。
「おやすみなさい、ユークさん」
おいコラァ!
話せないなら話せないでそう言ってくれてもいいだろ!
でもってオドは受け入れてんじゃない!
「はぁー……。しょうがない、俺らも寝ようぜ」
夜遅い、といってもそれはこの世界での話で、加えて昼間寝こけたのもあってまったく眠気はない。
けれどユークを追いかけて問い詰めるわけにもいかないし、ほかにすべきこともなさそうだった。
「明かりはぼくが消します。もう一度、ベッドメイキングをやり直したいので」
「そっか、頼むよ」
横になって目を閉じると、オドが作業する布ずれの音だけがするようになった。
しばらくしてそれもおさまり、瞼の向こうの薄明りが消えて静寂が訪れる。
操り人形だった時からそうだけど、こいつは寝息を立てない。
静けさが落ち着かなくて、ふたたび身を起こしてしまった。
「……外、明るいな」
もちろん東京の夜ほどじゃないけれど、森やビケルウィルでの夜とははっきり明るさが違った。
夕焼けの光を弱めたような茜色の光がカーテンの隙間から差し込んでいる。
「アレハンドの石の輝きがここまで届いているんです。寝ると言ったのだから寝てください、カゼオイさん」
うっさい、お前こそ寝てろ。
と出かかった言葉を飲み込み、ふたたびおとなしく床に着く。
……が、眠れないものは眠れない。
「オド、まだ起きてるか?」
「……カゼオイさんのせいで目が覚めました」
ウソつけ、めっちゃハキハキしゃべってんだろ。
ああもう憎たらしい。
使役されてたとはいえ、元々共に居たラルドにもベルにもそこそこ懐いてたっぽいのにどうして俺にだけこう生意気な口聞くかな!
ったく、どういう育ち方すれば……いや。
どう育ったかは本人が言っていた。
思い出すだけで気分が少し落ち込むような話だった。
もしかしたら憎まれ口が叩けるくらいがちょうどいいのかもしれないな、などと思い始めたところで、もう一つ疑問が浮かび上がってくる。
「オド、お前さ……ディーラーに攫われる前のこと、覚えてないのか?」
「覚えていません。なぜ、そんなことを聞くんですか?」
こいつには妙に知識がある。
文字を読めるのもそうだし、ちょくちょく俺の知らないことをひけらかしてくる。
地理や歴史も、関連することが話題になるとすらすら引用していた。
「お前、ちょくちょく物知りみたいなこと言うだろ。なら、攫われてから教えてもらったのか?」
「違います。ぼくがあそこで覚えたことは、人を傷つける方法だけです」
「……でも、それならどうしてイストリトの噂やら、オルガナクロスのことに詳しいんだ?」
ためらったけど、好奇心が勝ってしまった。
踏み込めば傷つけるかもしれない。
本当なら思い出させることだってよくないんだろう。
でも、いつかは誰かに聞かれるかもしれない。
俺相手ならキレるかふてくされて会話を終わらせれば済むはずだ。
頭の中でそう言い訳した。
「あー……別に言いたくないならいい。寝よう寝よう」
返事はなかった。
けれどどうしても今夜聞き出さなければならないわけじゃない。
あきらめて寝返りをうったところで、か細い呟きが耳に届いた。
「……わからないんです」
いつもの、どこでも場違いなほど通る高い少年の声ではなかった。
何かに怯えるような……ウィスハイドとひと悶着あった後、しゅんとしていた時よりもずっと頼りない声色。
「ぼくは、ずっとファゾルドと呼ばれていました。ぼくの腕輪の秘号の名前です」
過謬の王。何度か唱えたこともある、オドを意のままに操るために必要な呪文の一部だ。
もとは歴史上の人物らしいけど……それなら、オドって呼び名はどこから来たんだ?
「でもラルドさんに引き会わされたとき、名前を尋ねられました。ぼくはオドだと答えていました」
答えた、じゃなくてか。
「それから、ぼくはラルドさんたちの前でずっとしゃべりつづけました。何を話したのかは覚えていません。でも、たぶんカゼオイさんとはじめて話した時と同じです」
同じ、と言われても、それが一体どういうことなのか分からない。
ベルの話じゃ、あんまりやかましいから腕輪の力で黙らせたってことだった。
その時名前が口をついて出てたってことは……。
「……名前といっしょに、少しずつ思い出してるってことか?」
「そう……なんですか?」
「絶対、とは言えないけどさ」
オドは何かを経験する度、記憶を取り戻している。
そして思い出すと、それを自覚する前に口が動いてしまう。
これで理屈は通る。
何かの話題になると情報を口走るのもそうだったのかもしれない。
「でも、もしそうなら……無理に言葉直す必要ないんじゃないか」
「なぜですか」
そんなことはありえない、とでも言いたげな即答だった。
「普通に話すようになって、滝みたく話しはじめることがなくなったら……昔のことを思い出す機会もなくなるかもしれないんだぞ」
「別に、思い出せなくてもいいんです」
またもオドは即答してきた。
強い否定と恐れが読み取れる声色。
ふだんのこいつからは出てこない、感情的な言葉が続いた。
「思い出したところで、元の自分に戻れるとは思えないです。一度人殺しの人形になったぼくが、別の誰かになれるなんて」
ベッドのきしむ音で、自分が跳ね起きていたことに気付く。
横を見るとオドはすでに上体を起こし、座ったままうつむいていた。
「……だから、このままでいいんです。……ちがう、このままじゃ、ダメなんです」
オドのつぶやきは俺に向けられたものなのか、それとも自分に言い聞かせていたのか。
判断がつかなかった。
「……余計な事言って悪かった。俺はもう寝る。おやすみ」
しばらくしてようやく返す言葉を思いつく。
俺も、どうやらオドも、そのときはじめて自分が身体を起こしたままだったことに気付いたらしい。
二人ともベッドにもぐってしまうと、ふたたび寝室は沈黙が支配する。
けれどその静けさは頭の中にまで浸み込んではこなかった。
『このままでいいんです』
『このままじゃダメなんです』
オドの吐き出した相反する言葉が耳にこびりついたまま離れないようだった。
どうしてだ。
誰にでも当てはまることだ、と受け流せるはず。
そう頭の中で唱えて自分に言い聞かせる。
だが、オドの言葉は今や自分自身の声として頭蓋に反響していた。
「どうしてだって?」
気づけばぼくは雪原に立っていた。
寒くはない。
以前のように吹雪いてもいなければ、足が埋まっているわけでもなかった。
「それは君がオドくんと同じように、元の自分に戻ることなんてできないと思っているからじゃあないかな」
遠くから聞こえてくる12歳のぼくの声をつとめて無視した。
無駄な抵抗だと分かっていた。
次に何を言われるかは、もう知っていたからだ。
「だって、彼もぼくたちの仲間だからね。そうだろ? 人殺しの祐くん」