4 『失敗』
帰宅の準備は整った。
とはいっても、もともと体ひとつでやってきたのだ。服の汚れをとる他にすることは思いつかなかった。
じゃあ頼むよ、とユークに声をかけると、彼女は突然大きな声をあげた。
「あ! ユウを帰したら、それでわたしたちお別れなんだね」
「そう言われるとなんか悪いな。ずっと助けられっぱなしで、なにもお礼できてないのに」
「あら、魔法使いは見返りを求めないのよ。だからって毎日お願いされに来ても困っちゃうけど」
聞いていると、魔法使いっていうのはずいぶんストイックだ。
ノブレスオブリージュとかいう奴だろうか。
ぼくは何かもらえるんでもなきゃあ、見ず知らずの奴のお願いなんて聞こうとはとても思えない。
「そうだ、あいつが落としてったナイフ、貰ってもいいかな」
帰れると決まったら、なんだか欲が出てきた。
お土産の一つでもないと、この出来事はやはり夢だったと記憶されてしまうかもしれない。
自分の首に刺さっていた短剣なんてぞっとしないけど、拾ってユークに見せてみる。
「いいけど……鞘がないと危ないわよ。ほら」
そう言って刃に指をすべらせる。すると、通ったあとから木の鞘ができていくではないか。
「……なんもお願いしてないけど」
「もう。じゃあ、これはユウの手とか指とかベルトを守るために使った魔法。それでいいじゃない」
いや、魔法を使っていい条件だったかどうか聞いたんじゃなくて、そんなサービスして貰ってもいいのかどうかを聞いたんだけど。
ともかくくれるというならお礼は言わなければ。
「あ、ありがとう」
「ちゃんとしたのじゃないから、あとで職人さんに頼んでね。それじゃユウ、帰る準備はできた?」
「うん。さよならだ。もしまた会ったら、次も帰るのを手伝ってよ」
「うーん……それはそのときのわたしの気分次第」
「そんなんでいいのかよ、魔法使い」
また人差し指をぴんと立てて、いい?楽することばかり考えちゃダメ、これは魔法使いもふつうの人も同じよ、などと答える彼女を見ながら、帰った後のことを考えた。
こんな風に女の子とおしゃべりすることもなくなるんだろうな、と思うと正直ヘコむ。
これだって偶発的な、しかも助けられっぱなしで情けない出会いだけど、彼女と出会えてからはこの世界も悪くなかった。
だから、言ってしまったさよならが惜しくなる。
そんな気持ちを振り払うように、ちょっと声を張り上げてもう一度別れをつげる。
「じゃあ、やってくれ。さようなら、ユーク!」
「……うん、いくね。ユウ、『お帰りなさい』」
その声を聞くと景色が変わった。
湖も白い屋根もなくなって、ねじれたような景色が現れて……思わず目を閉じてしまった.
そのまま身をちぢこめて数秒が過ぎる。おいあんた大丈夫か、などと声をかけられるのを期待していたのかもしれない。
しかし、やってきたのは……あのひどく心地悪い浮遊感だった。
「サ、サギだああぁあああ!」
目を開けると、飛び込んできたのは空の青。
そして背中に衝撃が走ったかと思うと、何もみえなくなった。
……目を覚ましても、そこは映画館ではなかった。
転がったままあたりを探ると、やはりそこは森の湖。
どうしてだ。ユークはうそをついたのか。それとも失敗でもしたというのか。
「いっ……」
起き上がろうとしたとき、頭に何かが絡まっていて、髪の毛が引っ張られたような痛みが走った。
どうにか起き上がって足元を見ると、どうやら血が固まってはりついていたらしいことが分かる。
さっき怪我が治ったのと同じことが起こっていたらしい。
ここでは誰も死なないとユークは言っていた。
そのルールがなければ、ぼくは頭を打って、ここで……。
「きゃぁあ!」
「おあっ!?」
突然中空に何かが現れ、いや、誰かが降ってきた!
それは勿論……というべきか、白銀の髪の女の子、つまりユークだった。
ぼくと同じように、ということは、もちろんぼくの上にだ。
「いたあ…っ…」
ユークに押し潰れされても気を失うほどの衝撃はなかった。
強烈なシュートの直撃を受けた、くらい。それだって十分痛いけど、我慢できないほどじゃない。
「あ、え!? どうして、どうしてお城じゃないの!?」
ユークはきょろきょろと小動物のようにあたりを見回し、叫ぶ。
そうしているうちに何の上に乗っているのか気付いたらしい。
「ユウ、だいじょうぶ!?」
彼女は尻でぼくの腿を下敷きにする格好で落ちてきた。
振り向いて、肩を起こしたぼくへ心配そうにすがってくる。
「いや、うん……大丈夫。なんで、君がここに」
「う……そ、それより、わたし、ひょっとして失敗しちゃった……?」
「やっぱり、そうなのか……」
落胆と同時に、安心する気持が少しある。
裏切られたわけではなかったからだ。
決して、膝の上の女の子に抱きつかれるような格好になって絆されたからではない。
「……ごめんなさい。わたし、ユウのお願い、叶えられなかったのね」
「いいよ、魔法使いだって失敗もあるだろ、たぶん」
うつむいて申し訳無さそうにする年下の女の子に文句などつけられない。
けれどそうは言ったものの、内心ひどく落胆していた。
これからどうすればいいのだろう。
「で、さっきの質問なんだけど……どうしてユークがここに?」
「……言わなきゃ、ダメ?」
ユークはぼくから手を離して、気まずそうに肩を落としてちいさくなる
そういえばさっき、どうしてお城じゃないの、なんて言っていた。
「もしかして、君も魔法でお城に帰ろうとしたとか……」
「………………」
どうやら図星らしい。
居心地悪そうに顔をそむける仕草がかわいらしいと同時にちょっと憎たらしく、意地悪をしてやることにした。
「いい? 魔法使いはね、自分が楽をするために魔法を使っては……」
「……真似しないでよー! わかってるわよ、いけないことってくらい!」
「楽することばかり考えちゃダメ、これは魔法使いも人もおなじ」
「もう! いじわる! バカ! ユウなんて『だいっきらい!!』」
ユウなんてだいっきらい!
その言葉は胸に突き刺さった。
センテンスそのものがおおきな杭になって、体の中心を貫通したような感覚。
痛みはない。ただそれに押しのけられたものが全身を圧迫して、破裂しそうなだけだ。
ふたたび視界は空の青一色に染まる。
思考はそこで途切れた。
今度ははじめから、これは夢だ、という直感があった。
「人を好きになれない奴は自分を好きになれない、だっけ? たまに聞くよね」
思えば、映画館から森にやってきたときは完全にパニック状態に陥っていた。
だから自分に夢だと言い聞かせてどうにか正気を保っていたのだ。
それに比べれば、本物の明晰夢というのは気楽なものだ。
「それとも、自分を好きになれない奴は人を好きになることなんてできない? あれ、どっちだっけ?」
ぼくは夢の中で座り込んでいた。
姿勢を支える後ろ手と尻が冷たい。見回すと辺りはスキー場のごとく一面の雪で、空は真っ暗だ。
それなのに何故だか明るい一角があって、声はそこから聞こえてくる。
「あっれ、無視かな? それとも聞こえてないとか。ああそっか、どっちにしたってお前には関係ないもんね。どっちも好きになれそうにないんだし」
これは夢だ。だから問答に答える必要なんてない。
ただ目が覚めるのをじっと待っていればいいのだ。
夏の装いに冬山の寒さは堪えるけど、それもやっぱり夢なのだから気にする必要はない。
「自分のことでいっぱいいっぱいで他人の話なんて耳に入りませんって? 寂しいなあ祐くんは。他ならぬ僕の話なんだからさあ、うんとかすんとか言ってみたらどうなのよ」
ここから離れよう。さっきと違って夢の中なんだから、どこにだって行けるはずだ。
そう決意して立ち上がると、ぼくの体の膝から下は雪に埋まっていた。
あわてて抜け出そうとする。
けれどもがけばもがくほど、足は深く埋まっていく。
「ちょっと気に入らないことがあるとすぐその場から逃げ出そうとするんだよね、知ってるよ。でも今日はダメ、今日こそは逃げらんないよ。祐くん」
中腰になって雪を振り払おうとしても、どこからともなく新しい雪が積もってくる。
いや、実際に積もっている!
鞭のような風の音と圧力がぼくの耳を打ち据えた。
視界の黒を幾度も白いものが横切る。吹雪だ。
これはぼくの夢なのに、どうしてぼくの思い通りにならないんだ!!
「それでいよいよどうしようもなくなると、大声で泣いて怒って大暴れかな? かーわいいなあ、小さな子供みたいだよね、祐くんはさあ。殺してやりたいよ」
その言葉に、はじめてぼくは声の主を見据えた。
そいつのことをぼくは知っている。夢だから?違う、それがぼく自身だからだ。
葉の落ちた木の太い枝に座るぼくは12歳で、冗談みたいにすその長い燕尾服を着ている。
「……それ、そこに座るとき以外はどうすんだ?」
「強がるなよ。今日はいい日なんだ。ようやく僕の念願叶う日だ。もっと苦しんで死んでほしかったけど、お前のたっての希望なんだ。僕は慈悲深いからね」
それはぼくの死のイメージだ。
中学生のころ、ぼくはさまざまな自殺の方法をネットで調べた。
実行するつもりはなかったけど、準備だけはしておこうと思ったからだ。
冬山での凍死はその中でももっとも苦しみの少ないやり方の一つらしい。
確実性の点で難があるし、学生の身分ではそもそも実行が難しい。
候補からは外れたけど、それはぼくの中で最も強い印象を残した。
「笑えるよね。自殺の準備だけをするなんて、構ってほしいって言ってるようなものじゃん? あの時僕がもうちょっと強かったら、お前の背中を押してやれたんだけど。駅のホームとかでさ」
その声はずいぶん遠く聞こえた。当たり前だ。もう頭までも雪に埋もれているのだから。
もう体のどの部分も自分のものだとは思えなかった。
この上なく寒く冷たいはずなのに、それすら感じない。
夢の中の死は夢の終わりにすぎず、何事もなかったかのように朝が来る。
そんなことはきっと起こらない。これが夢だと確信するのと同じように、そう確信していた。
そうと分かっているのに、抗おうという気は起きなかった。
結局のところ、ぼくが死を望んでいるのだ。ほかならぬ僕自身が。
体のすべてが冷え固まったとき、ふいに熱を感じる。
なんだろう、と目をあけると雪は溶けていて、かわりに銀の糸束が視界を白く染めた。
それがかきあげられると、トパーズのような瞳がぼくを見下ろす。
ユークの顔が近づいてきて、ぼくに唇を重ねた。