31 『互いの旅立ち』
ユークと共に家を出ると、オルガナクロスの通りには既に人が行き交っていた。
オドに相当早起きさせられたから、手合わせや朝食の時間を差し引いてもまだ朝早いはず。
電池切れした携帯は役に立たないけど、日の低さが証明してくれていた。
「街の人、みんなずいぶん早起きなんだな」
「いや、そうでもない。これでもまばらな印象だが……厘軍の手の者がうろついているせいか」
軒下にはディアマンドと共にイストリトが立っていた。
いつの間にか紅衣をひっこめ、旅装に改めている。
布地の色そのままといった地味なパンツスタイルに、ストールを高く巻いていた。
前の黒服と印象違うな、と眺めていると、ユークが顔を覗き込んでくる。
「ユウのお家だと、夜もみんな出歩いてるんだもんね。今くらいの時間だとまだ眠い?」
「そこまでじゃないけど……考えてみりゃ、みんな早寝早起きなの当たり前か」
日が落ちれば夜の闇そのものが人を食らい始める、なんて世の中じゃそうならざるを得ないよな。
まだ半信半疑だけど、布団の中でそれを思うと眠れなくなりそうだ。
昨夜は疲れ果てたまま夢に落ちて良かったのかもしれない。
「風追、ラトとオドはどうしている?」
「まだ準備中。オドは飯食ってるし、まだ時間かかるかも」
「そうか。丁度よかった……彼らには話しにくい」
「わたしたちならいいの?」
ユークがあまりにもあっけらかんと聞くのでかるくチョップを入れてやる。
こうやって改めて場を設けてくる以上、俺たちにだって十分話しにくいことなんだろうから混ぜっかえすなよ。
頭をかかえて弱り顔で振り向く姿はかわいいけど。
「君たちにはもう、どうしようもなく醜い姿を見せてしまったからね。今更取り繕う必要もない」
「……それで、話したいことって?」
たしかに、イストリトの半生は既に聞いてしまっている。
これ以上聞くに忍びないことなんて、何かあるんだろうか?
目を伏せていたイストリトは、意を決したようにこちらを見据えた。
「ラトについてだ。あの子は……青歴院を抜け出し、私やジャンドのもとへ来た」
「えっ!? ラト姉もセイレキインにいたの!?」
「やっぱりか。青歴院の名前出すと毎回嫌な顔してたもんな」
もちろん青歴院の話は伝聞でしか知らないわけで、そこがどんなところかはまだ分からない。
けれどラトはニクスと相性が最悪だ。
紅衣の二人と話が合うあの杖が喜ぶ環境で――ラトにとって居心地の悪い場所だろうことは想像に難くない。
「ラトはもともと厘国の有力な魔術師の娘だ。厘国の魔術学院に通うはずだったが、六年前の戦で両親を亡くし、青歴院に預けられた」
「ラト姉……」
「そう……なのか」
ラトが両親を亡くしていた。
そこまでは想像が及んでいなかった。
だけど、思い返せばおかしな話だ。
18の女の子が退役軍人のおっさんの詰める兵舎に転がり込んで寝泊まりするなんて。
イストリトは俺たちが言葉を呑み込むのを待ち、また自分語りになってすまないが、と前置きして続けた。
「ラトに会う以前、私は交流を持たず、ただディアマンドの肉体を維持することだけを考えていた。そのために私は生きねばならなかった。であれば、生業を得る必要もあった」
はじめて会った時、イストリトは俺をディーラーだと思い込んで怒りはしたものの、冗談を飛ばすくらいの余裕は持っていた。
だけど、今の一節から浮かぶ姿にそんな雰囲気はまったく読み取れない。
「ジャンドに誘われ、はじめはビケルヴィルの一員となった。だが、結局は君たちも知る診療所を建て、そこに隠遁した。私の知らぬ間に、ディアマンドが村の墓に埋葬されるのではないか……。そんな想像にとりつかれ、人里では眠ることもままならなかったからだ」
話に聞き入りすぎた。
幽鬼のような表情でディアマンドの身体を診るイストリトを思い浮かべてしまい、首を振って立ち返る。
そんな俺に気付かないまま、女医は話を続けていた。
「ある時、診療所にまだ13歳のラトがやってきた。……彼女は、両親を蘇らせてください、死霊術士さまと私にすがった」
それは今のラトの姿とはあまりにも縁遠かった。
いや、違う。俺が彼女の何を知っているというんだろう?
思えば、ラトは自己紹介した時から俺とユークの姉ぶろうとしていた。
ひょっとしたら、そういう仮面を被ることで世の中と渡りをつけているんだろうか。
「それはできない、帰れと私は言った。しかし、何度ビケルウィルに送り帰してもあの子は来た。ついにジャンドまで巻き込まれてやって来た時、彼が止めてくれると甘えたのかもしれない。気付けば私は……ラトに向かって何度も叫び声をあげていた」
俺に怒りをぶつけてきたときも、イストリトはあくまで冷静だった。
しかし、かつての彼女は罪もない13歳の娘に向かって繰り返し叫びたてたのだ。
その心は死体との二人暮らしでほとんど限界を迎えていたのかもしれない。
イストリトは軍帽を取り出して目深に被り、恥じ入るように顔を隠した。
「おまえばかりが不幸だとでもいうような顔をするな。おまえの親を返してやれるなら、返してやりたいさ。夫が再び私の名を呼ぶ日が来るなら、誰にだってそうしてやる。おまえの親ばかりじゃない、いなくなった誰だろうが、喚びもどしてやる。だがそれはできない。できないんだ。帰れ、二度と顔を見せるな……そう私が言ったと、あとでジャンドから聞かされた」
それまで冷静に語っていた声は、次第につぶやきに変わっていった。
しばらく押し黙った後、イストリトは帽子をかぶりなおして言葉を続ける。
必要以上に明るい調子だった。
「ラトはもう来ないものと思っていた。だが、少し経ってまたやってきたんだ。私がまごついていると、あいつはこう言った。魔術を教えて欲しい、自分が両親もあなたの旦那さんも助けられるようなものすごい魔術師になってやる、と」
やっぱり今のラトからは考えられないセリフだ。
……あまりに殊勝すぎて。
「その志はよかったんだ。私もよい師とは言えなかったが、ラトは……基礎理論からつまずいてしまった」
苦笑いしかけたところで、イストリトが右掌を向け制止してきた。
「いや、才が足りなかったわけではない。言ってしまえば、我々の魔術体系は魔術師を効率的に兵器化するためのものだ。初歩にすら破壊術がついてまわる。ラトはそれを拒絶したんだ」
ユークの魔法を褒めちぎるラトの姿を思い出される。
隣に立つ彼女もそれに思い当たったようで、両手で口元をおさえていた。
それを見たイストリトはきっぱりと話を次に進め、重くなった空気を振り払おうと試みた。
「さて。それを差し引いても、ラトの学習態度は不誠実極まりなかった」
そこから続く話は、ラト姉の名誉のためにも記憶に残さないことにする。
何やってんだあいつ。ご立派な宣言はどこに行ったんだ。
ユークもけらけらと笑ったり、自分と妹のことを引き合いにだしたり、サボりに心当たりがあるのか恥じ入ったりしている。
イストリトの狙い通り、場の空気はすっかり朝のさわやかなものに戻っていた。
「……いよいよ愛想が尽きて、青歴院に送り帰すつもりでオルミスまで引きずって行ったことがある」
半分忌々しげで、もう半分は懐かしむような声色だった。
首根っこを捕まれ引きずられていくラトが目に浮かぶようで、少しおかしくなる。
「そこであいつは逃げ出した。……今思えば、昨日詰所を飛び出していった時と似ていたな」
「ってことは、それでオルミスで働きだしたのか?」
「ああ、港から伸びる交易路を毎日のように駆けていたと聞く。往診の依頼や急患の移送以外にも、私の下には時折顔を見せにきた。いらんと言うのに、その度何がしか土産を置いて行った」
呆れたような声を出してはいるが、イストリトの口元は微笑んでいる。
以前のも今日のも、彼女の昔話はどこか他人事のように淡々としていた。
多分、そうするしかないのだろう。
けれどラトとの生活を語るくだりに入ってから、少し語り口が違うのが分かる。
「あのさ、二人のこと何も知らないのに、こんなこと言うのもなんだけど……。今の話聞いたら、二人ともお互いがいたからやってけてたんだな、って思った」
「そうだな。私がラトを心配する以上に、あの子はずっと私を気遣っていたのだろう」
「きっとそうだよ! そうじゃなきゃ夜の間に走ってお家に来たりしないもの」
「ああ。……だというのに、私は、正気づくまで――君たちと出会うまで、あの子の想いに気付きもしなかった。改めて、そのことに礼を言いたい」
イストリトが頭を下げかけたので、俺はそれを押しとどめた。
「多分、それは礼を言う相手が違うよ。もしラトが先生のところに来てなかったら、俺たちのことだってまともに相手してくれなかったんじゃないかな」
「そうかも、しれないな。巡り合わせというものか」
「オロスの気まぐれに感謝、だねっ」
「だな」
それが誰かはわかんないけど同意しておく。
たぶんまた神様の名前かな。
それにしても、これを言いたいがために俺たちを呼び出したのだろうか。
「ところでさ……話ってこれだけじゃないだろ?」
「ああ、すっかり前置きが長くなってしまった。……ディアマンドを、もう休ませてやるつもりなんだ」
「えっ!?」
ユークが声を上げる。
その言葉の意味は、ディアマンドを埋葬する、そういうことなのだろうか?
そんなことをする必要があるのか。
……でも、俺の倫理観はあると告げている。
この世界でだって、死霊術士なんて呼ばれて恐れられていたのを見ると、彼女の行為は非難されてしかるべき、と思われているんだろう。
だけどそれでも彼女は見逃されてきた。
ジャンドやウィスハイドなら、イストリトが夫を繋ぎとめる手を無理やり引き剥すことができたはず。
彼らは今でも、間違いなく認められた夫婦なんだ。
俺は何も言えずに、気付けば両手を握りしめていた。
その様子を見てかはどうか分からないが、イストリトは穏やかな口調で続ける。
「昨晩、ウィスハイドにこの6年間のことをこってり絞られたんだ。特に、引き籠りのあいつがわざわざ診療所を訪ねてきた時、すげなく追い返したのにはねちねちと言われた。院にいたころ彼とは何度も口論になったが、こうも返す言葉がないのは初めてだった」
昨日押し黙っていたのはそのせいか。
俺たちにそんな素振りは見せなかったけど、ウィスハイドもイストリトのことを気にかけていたんだ。
自分たちには直接関係のないことだけれど、少し嬉しくなる。
「ラトと過ごし、君たちと出会い、同輩に叱咤され……私はようやく次の一歩を踏み出す力を得た。だが、私の道行きにこれ以上夫を付き合わせるわけにはいかない」
イストリトの決意は固いようだった。
これは他人が口を出すような問題ではないだろう。
一人の大人が出した結論なのだ。
でも、だったら俺たちに言うべきこととは一体何なんだ?
「そこで、だ。君たちに、ラトのことを頼みたい。どうか院にたどり着いても、頼り頼られる関係のままでいてほしい」
さんざんもったいぶっていて、何を言い出すかと思えば!
「今更何言ってるのさ、水臭い」
「そうだよ! わたしたち、もう友達なんだから」
「ていうか、一蓮托生だな。いっしょに青歴院に行くんだ。言われなくたって目放してらんないって」
イストリトは目を閉じ、そうか、安心した、と口元を歪ませた。
かたじけない、と言いかけたのをユークが怒って止める。
そのやりとりで少し緊張していた場の空気が一気に緩む。
これなら聞いちゃっても構わないだろう。
「んでもさ……話、微妙につながってなくないか」
「私たちは『お互いがいたからやってこれた』のだろう。風追、お前が言ったことだ」
「それがどうつながるんだ?」
「私一人が勝手に次へ進んでしまえば、ラトは取り残されてしまう。私の救いであることが、ラトにとっても救いであったとしたら……」
「うん。そうだよ、絶対」
ユークは強くうなずく。
いま彼女の頭にあるのは、自分と妹のことだろうか?
それとも……。
そこまで考えて急に気恥ずかしくなる。
「よし、そういうことなら俺たち、これからラト姉におもっきり甘え倒していくぞ!」
「おー!」
その勢いで適当なことを言ってしまうが、ユークが乗り気でよかった。
ありがたいことに、イストリトまでもくすりと笑い声を漏らす。
「どうやら私の心配はいつでも杞憂に終わるようだ。長々と話してすまなかったな」
「でも俺たちは先生の方が心配だよ。ラルドのこともあるし、大丈夫なのか?」
「これまで散々醜態を見せてきた手前、大きな口を叩くのもはばかられるが……腐っても私は紅衣だ。犬死するような真似はしない」
「うん。先生、ウソは言ってないよ、ユウ」
疑ってかかるんじゃない。もう一度チョップの刑だ。
二度目となるとさすがに涙目でぽこぽこ叩いて反撃してくるが、蚊ほどにも痛くない。
「次に会う時には、ユークレートの信用を勝ち取れるよう努力するよ」
俺たちがじゃれあう様子を見て、イストリトが冗談めかして言う。
すると突然ウィスハイドの家のドアが開き、ラトが支度を終えてやってきた。
「やーお待たせ! エフィーにお弁当もらっちゃった。急げばお昼までにオルミスに着けると思うけど、ゆっくり歩いて途中でご飯っていうのもいいかもねえ」
弟子の元気な声が聞こえてか、イストリトはいつもの厳しい表情を取り繕う。
しかし、付き合いの長いラトにはお見通しのようだった。
「んんー? なんだ先生、ご機嫌じゃない」
「……しばらく不肖の弟子の顔を見ずに済むと思うと気が楽でな。ついつい口元もゆるむというものだ」
「言ってくれますなあ、お別れ前だってのに。あたし、ほんとに泣きますよ!?」
「先生、素直になったらいいのに……」
小声で今のはウソだよ、と教えてくるユーク。そんなん分かるって。
ラトは先生に食って掛かり、さすがのイストリトも気まずくなったのかされるがままだ。
出発はだいぶ後になりそうだな、なんて思いながら見ていると、オドも後を追って家から出てきた。
「お待たせしてごめんなさい。……何をやっているんですか?」
「えーっと……お別れの挨拶?」
「なるほど。厘国では変わった挨拶をするのですね」
「変なこと学習させんな、するな!」
オドは俺たちと並んでしばらくラトがイストリトの肩をつかみゆすり続けるのを見ていたが、抵抗しない意図が読めなかったらしくこちらに尋ねてくる。
ユークが適当なことを言い、オドもとぼけた納得のしかたをするものだからたまらない。
これ以上厘国へのあらぬ誤解を広めないためにも、一つ気になっていたことを聞いてみることにした。
「なぁオド。お前、腕輪に打ち消されるのが分かってて、イストリトに魔術で攻撃しようとしたのか?」
「はい。でもまさか、自分が倒れてしまうとは思っていませんでした。出発を遅らせてごめんなさい。ところで、カゼオイさんはちゃんと勝ってくれたんですか?」
「他に言い方ないのか……勝ったよ、後味悪いやり方させやがって」
「おめでとうございます。僕の戦術に乗っていただいて感謝します」
そうは言うが礼の言葉は平板で心がこもっていない。
むしろ「僕の」を強調している気がする口調だった。
このやろう。
「お前なぁ……いや、俺も騙し討ちしたんだから同罪かもしんないけどさ」
「ふたりとも、先生に何したの?」
不穏な会話を聞き取ったユークはまたも怒っていますよポーズを決め、俺とオドを睨んだ。
まずい、と思ったところでイストリトが彼女を諫めてくれる。
もとはといえば無茶をさせた私が悪いと言いつつも、その表情は苦笑いだ。
「……だがな、やはり君たち二人はとんだ食わせ物だ」
「せんせー、笑ったり落ち込んだり忙しいね?」
「きさまは厘軍やディーラーの影がないか、斥候でもしてこんか!」
「お別れの言葉がそれってことないでしょー!?」
ラトが照れ隠しで追い払われ、俺とオド、ユークだけがイストリトたち夫婦と向かい合った。
いよいよ、彼女とディアマンドとはお別れだ。
「さあ風追、これが君とユークレートへの。オドにはこれだ。こちらはラトに渡しておいてくれ。……君たちの肉体修練を見届けることができず、本当に申し訳ないと思っている」
イストリトからそれぞれに封筒が配られる。
俺たちへの約束が中途半端に終わってしまうことに責任を感じ、書き物のついでに仕上げたらしい。
彼女お手製の肉体修練法やらをまとめてくれたのだとか。
時間が空いた時に試してみてくれと彼女は言う。
……読みはするけど、そんな暇がないことを願った。
「……そして、こちらが本命だ。先ほどの封筒はともかく、これは絶対に手放すな」
そう言って取り出したのは、さきほどラトから受け取っていた赤い封蝋のついた便箋だ。
オルミスで俺たちの味方になってくれる人物。
聞いた話によれば、なんとその港の領主さまであるらしい。
「これ、オルミスの領主さんに見せるんだね」
「おそらく、検閲を受けることにはなるが……表向き署名はウィスハイドのものだし、彼女は話の通じる相手だ。面会できさえすれば味方になってくれる」
「女の人なのか?」
「正確には領主ではなく、領主夫人だな」
そんな人とイストリトが知り合いでしかも親しいなんて、いまいちどんな人物かイメージが湧かない。
貴族の夫人なんて、俺の貧困な想像だとかっぷくのいいお洒落なおばさんになってしまうのだけど。
「どういう関係だったんだ?」
「言っていなかったか? 彼女は――コーティカルト・オルミタス・リーンベダは、私の青歴院での後輩だよ」
後輩だって?
……イストリトといい、この世界、結婚早いなあ。