27 『朝飯前の適度な運動』
一瞬で灰になんてなれるわけがない。
炎は未だに全身を焼き続けている。
おれにできるのは身をよじることだけだった。
「……さん、起きてください」
なぜなら、ここから動くわけにはいかない。
目の前には守るべきものがある。
おれはそれを抱きしめた。
やわらかな毛布を。
「カゼオイさん! 起きてください!」
あれ? おかしいな。
俺は戦場で伴侶をかばって文字通りの立ち往生をした巨漢の勇士ディアマンドだったはず。
……それがなんで、毛布相手に両手両足でカニばさみを決めたあげく、年少の生意気なガキに見降ろされているんだ?
「イストリトさんがお呼びです。早く僕についてきてください」
オドはあくまでこちらに無関心だった。
役目は済んだとばかりにきびすを返し、こちらを待つこともなくドアの外に消えていく。
「ちょっ……と待て! どこに行くかくらい言えよ!」
慌てて飛び起き着の身着のまま部屋を飛び出す。そこはホテルの廊下のようだった。
……ここは、どこだったっけか。
寝起きでさっぱり頭が回っていないらしい。
目の前にドアが一つ。自分が出てきたのを含めて左右にドアが五つ。左の突き当りには大きな両扉が鎮座していた。
とりあえず、目の前の古い木の戸をそっと開ける。
「あら、ユウ君おはよう。トリトが呼んでたわよ? 運動が終わったら、ちょうどご飯ができてるようにしましょ」
そこは広々としたダイニングで、洗い場にいたメイド服の女性が振り返り、笑顔を見せていた。
エフィー。
まず頭に浮かんだのはその女性の名前。それからようやく目が覚めてきた。
そうだ。俺はきのうユークの魔法でこの家に迷い込んで……もろもろあって泊めてもらっていたのだ。
まるであつらえたように五人分の客用寝室があったのは、この家の主人である紅衣、ウィスハイドの力によるものだった。
「運動、っていったい何の話?」
「……どこへ行くんですか。こちらです」
背後から聞こえてきた声はオドのものだった。
振り向くと彼は両開きの扉の前にいた。
不服そうにしながらも片側の扉を体で押しとどめ、俺を待っているらしい。
「風追、起きたか。そのままでいい。中に入ってくれ」
開いた扉の隙間からイストリトが顔を出し、俺を手招きした。
その手に導かれるまま、扉の向こうへ足を踏み入れる。
「う、わ」
陸上競技場、という言葉が最初に思い浮かんだ。
目の前に広がっていたのは、古代ローマの映画に出てくるアリーナのような様式の広々としたグラウンドだった。
絶句する俺を見て、イストリトが苦笑する。
「ウィズめ、やりすぎだ。確かに運動のできる部屋を用意してくれとは言ったが……これではまるで鉄拳討議場だよ」
「……紅衣って、みんなこんなことができるのか?」
「それならウィズに頼ったりはしないよ。彼は特別だ」
思わず口を突いて出た疑問に、女医は肩をすくめて返す。
「さて、本題は私の無能さについてではない」
スネられた。
違う、そんなつもりで聞いたわけじゃないって!
そう言おうとして口を開きかけると、微笑と片手で制された。
おとなしく本題を待つことにする。
「風追、そしてオド。昨日はよく頑張った。不慣れだろうに、よくついてきたものだ」
イストリトはいつもの生真面目な表情に戻り、昨日の無茶なマラソンの話を始めた。
オルガナクロスの街からガントロウデに続く遥かな坂道と階段をひたすら登り、ひたすら降り……それをひたすら繰り返したのだ。
「……ホントにそう思うよ」
「ありがとうございます」
ああ、ようやく分かった。朝飯前に昨日の続きをやるってことか。
どんと来いだ。なぜだか知らないが、全身の疲労はすっかり吹き飛んでいる。
「だが、それでもやはりまだ君たちの基礎体力には不安が残る。そこで――本日は実戦形式での教練を行う」
んん?
実戦だと?
「わかりました」
「分かんな! おかしいって、今の話からなら基礎の体力作りをやるってのがスジだろ!?」
涼しい顔をして話を呑み込むオドを尻目に、俺は食い下がった。
「そうしたいのはやまやまだが、私たちには時間がない。今日より、旅路を別にするのだから」
「イストリトさんはガントロウデへ。僕たちは青歴院へゆかなければいけません」
「そりゃあ……そうだけどさ」
だからって、朝一番からじゃあ心の準備も何もない。
「僕とカゼオイさんが戦うのですか?」
お前は何でそんなに準備万端なんだ!
「いいや、無駄な怪我をされては困る。敵役は私が勤めるよ」
「交代で相手をするってことか」
「それも違う、風追。君が敵とするのはディアマンドだ」
「はぁ!?」
冗談じゃない。そんなの、チュートリアルステージにラスボスが置いてあるようなもんじゃないか!
夢の中での彼の獅子奮迅ぶりはまだ強く印象に残っている。
なみいる敵兵を枝葉でもかき分けるかのように切り捨て進む姿は、ぜひ第三者の目から眺めてみたいものだった。
だからといって、薙ぎ払われる側になりたいわけじゃない!
「あんまり自信がありません。ラルドさんよりも強いイストリトさんと戦いができるとは思えません」
「むろん考えはある。私たちの頭か腹に一撃入れること。君たちはそれを目標にしてくれ」
「んなこと言ったって……俺のほうは一撃食らったらバラバラになっちゃうよ」
「こちらからは仕掛けない。先ほど言った通り、怪我をさせるつもりもない。恐れずに向かってくるんだ」
なるほど。防戦に徹する達人から一本取ってみろというわけか。
どっちにしろ無理じゃないか、なんて言葉がこぼれかけた。
でも、口にするわけにはいかない。
「やるだけやってみる」
「わかりました」
イストリトは頷き、オドに手招きする。
まずはそっちからか、と腕組みして見物するつもりでいると、背後から肩を叩かれた。
「うわぁっ!?」
「風追は向こう側を使ってくれ」
いたのかよ、ディアマンド!
こんな大男が近づいてきていたのに気配もしなかった。
その冷たい手とともに、彼がすでに死人だという忘れかけていた事実を思い出せてくれる。
「ふ、二人同時に相手にすることないんじゃないかな」
「こちらも二人だ。それに、こうでもしなければ君たちに勝機がない」
イストリトは涼しい顔で言ってのける。
難しい顔をして作戦を練っていたであろうオドは、その一言で首を上げイストリトを見据える。
俺だって、そんな風にケンカを売られたら……買い言葉で返すほかない。
「いいのかよ。すぐに終わっちゃうかもしんないぜ」
「その意気だ、風追。……『非力にして矮小なる我が師よ、その微力を望むがまま貸し与えることを許す』」
女医は笑みを浮かべ、真紅のマントを喚び出した。
紅衣はしばらく宙に浮いていたかと思うと、ほどけて何条もの糸束となる。
それは渦となり、目の前に立つ大男の身体を覆っていく。
あっけにとられた。紅衣は赤黒いベストとしてディアマンドの着衣に変じたらしい。
「これがディアマンドの本気モードってわけか」
「別件だが、そう思ってくれて構わない。私だけの力では十全に彼の力を発揮できないからね」
十全に発揮なんてされたら、俺の勝つ見込みはゼロだ。
早くもそんな弱音を吐きたくなったが、一度口に出したことを引っ込めるわけにもいかない。
覚悟を決めて半身に構えてみる。急所を隠すのだ。何かの漫画でそう言ってた。
……いいや、むこうから攻めてはこないんだ。こちらから仕掛けなければならない。
「では、はじめよう」
その言葉が発されるが早いか、オドがイストリトへ躍りかかっていくのが見えた。
女医は彼の放つ拳を難なくいなし続ける。
オドは身長差を利用するつもりか、低い姿勢で腹部に狙いを定めていた。
だが、水際で攻撃を逸らされ続けたことに焦れたらしい。
身体ごとぶつかってくる少年を、イストリトは闘牛士のようにひらりとかわす。
そのまま地面に激突するはずのオドは、首根っこを捕まれ放り投げられた。
「うわぁっ!」
ぼふ、と音がして、オドは赤いハンモックに着地していた。
ディアマンドの戦闘服を形成した余り糸が、イストリトの反撃に呼応して織り上げたのだ。
「怪我はないな? オド、君の作戦はいい。だが気がはやりすぎだ、ヤケを起こすな」
「……わかりました。もう一度、おねがいします」
オドは再び打ち掛かっていくが、やはりすげなく躱され続ける。
イストリトの動きは遠目には子供をあやすようにすら見えた。
「風追! このまま仕掛けて来んなら、初対面と同じ目に遭わせる!」
あまつさえ、こちらを叱咤してくる始末だ。
たしかに俺は身構えてから一歩たりとも動けていなかった。
立ち向かおうとする度、昨晩の夢がちらついて身がすくむ。
でも……そうだ、俺はディアマンドの視界を得たとき、眼下の兵たちに気付くのが遅れた。
単純なことだった。オドと同じ作戦が俺にも使える。
構えを低く取り直し、大きく踏み込んだ。
「首絞めはもう勘弁、だっ!」
ディアマンドの腹めがけて、思い切り右拳を突き出す。
もちろん伸ばした腕は思い切りはたき落とされ、肩から崩れ落ちそうになる。
とはいえ、向こうも本気ではない。どうにか持ちこたえることができた。
更に低くなった姿勢からもう一歩を踏み込む。
「どあっ!」
大男の顎を砕こうと突き上げた左拳は、彼の右手に受け止められていた。
あわてて身体を離そうとするが、握られた左拳を振りほどくことができない。
「狙いは――いい。だが力み過ぎている、な」
相手の身体越しにイストリトの忠告が聞こえてくる。
オドの攻撃を凌ぎながらだからなのか、セリフはとぎれとぎれだ。
「ぐっ、離してくれよっ」
依然としてディアマンドは俺の拳を離してくれない。
こちらを傷つける気はないとの言葉通り、痛みは薄かった。
けれど、温もりの感じられない筋肉に手を握りこまれるのは心地いいものではない。
「攻撃が雑になっているぞ、オド!」
「うぁ!」
むこうでは再びハンモックが展開され、ぼふりとオドが受け止められる音がした。
直後、ディアマンドの腕の力が弱まる。すかさず身を引いて仕切り直す。
……いや、違う。仕切り直しにしたのは向こうかもしれない。
今までそうしなかったのは、俺とオドを同時にいなし続けるのはさすがのイストリトにとっても難儀だということか?
だったら。
「オド! 次は俺と同時に仕掛けろ!」
対戦相手二人の肩ごしにオドへ叫ぶ。
大男の顔色は当然変わることはなく、女医は背を向けているから表情を読めない。
けれど、答えのない緊張が答えだと感じた。
「……わかりました。カゼオイさんに続きます」
オドは意外と素直に従ってくれる。
そうと決まれば、あとは飛び込むだけだった。