25 『千年の隔絶』
「……うそだ」
ユークのか細いつぶやきを最後に、ウィスハイドの居室は静寂に包まれた。
だれも言葉を発さない。
その沈黙すら彼女を傷つけている気がして、口を開かずにはいられなかった。
「でたらめだ! 大昔のことなんだろ? だったら本当のことなんてわかりゃしないじゃんか!」
「魔王が倒されたのは千年の昔。その存在を裏付けるのは史書のみだ」
「ではその史書とやらを出せ。我輩とてそのようなこと、おいそれとは信じられん」
「……いや、待ってくれ! ユーク、ごめん、大丈夫か?」
返答はない。
ユークは茫然自失で今にも倒れてしまいそうだ。
あたりまえだ。彼女が一番衝撃を受けたに決まっている。
自分勝手に探偵ごっこを始めるべきじゃなかった。
恥じ入りながら頭を冷やす。
「ラト、エフィーさん、ユークを下で休ませてくれないか」
「……うん、わかった」
「ユークちゃん、ウィズがごめんなさい。動ける? こっちへ……」
二人に挟まれたユークはぼうっとしながらも、腕を上げて杖を手渡してきた。
こいつに代わりに聞かせろということか。請け負った。
言葉はなかったが、あの子は早くも状況を受け入れはじめている。
安心すると同時に、健気さが心苦しくもあった。
こんなときくらい、全てをかなぐり捨てて泣いていてもいいのに。
彼女らを階下に見送った後、手の中からニクスが切り出した。
「お嬢もより詳しく知りたがっておられる。裏付けとやらを聞こう」
「面倒だ。勝手に読んでくれ」
ウィスハイドが腕を振る。
すると部屋の隅の本棚から分厚い本がやってきて俺たちの目の前を漂いはじめた。
「覇国建史。ホロストゥルド著」
オドが表紙の文字を読み上げたらしい。
それは日本語でも英語でもなかった。
声に応じるようにページが捲られ、ふたたびオドが口を開く。
「ゼバルド。其は我らが偉大なる王の祖。其は栄光あるハイアラベル建国王。其は怨敵たる魔王を討ちし者。其が偉業の足跡を辿ること、すなわち建国史なり。太祖ゼバルドが仕えし古き王、魔術師マルカシートに弑逆さる。魔叛の者、血を分けし父をも屠り、王を騙りて君臨せり。太祖怒り、これを討つ。然れど魔女は果てず、東の地にて蘇えり。人、魔女を魔王と称す。悪しき狼ども、其に従いしかば。その名は闇魔女フィンフルフェトと並び恐れられき。太祖杖もちて善き狼を従え、羊軍をもってついにこれを滅ぼしたり」
オドはそこからも言葉を続けたが、ゼバルドとやらの英雄譚が続くばかりだ。
それにユークのことが話に出てこない。
妹が葬った肉親というのはユークのことではなく、父親だというのか。
だとしたらおかしな話だ。
二人の父親は姉妹が別たれる前に亡くなっているはずなのだから。
「マルカシートのことって、これだけか?」
「ああ。魔王について語る史書は数多くあるが、多くは彼女がもたらした災いについてものだ。その名すら、この書の他に記述はない」
「胡乱なものだ。到底、信ずるには足りん」
ニクスの言う通りだ。
ユークの妹が心変わりしたかどうかはまだ分からない。
けれど、この建国史とやらに書かれていることは絶対に間違っている。
「……院に赴き、青歴を紐解くことだ。君たちの望む記述があるかもしれない」
「どういうことだ?」
「史書に刻まれるのは支配者にとって都合の良い歴史に過ぎない。我が師エッカードにとっての事実が青歴にはある。こちらの方がいくらか公平だろう」
「だったら、なんでそんな本置いてるのさ。青歴ってやつだけ見ればいいじゃんか」
「青歴はあまりに膨大かつ冗長だ。そこから上澄みを拾い上げるのが院の使命の一つでもある。もっとも、古い時代の断章は未編纂のままだ。掘り起こすのは面倒極まるだろうが」
つまるところ、また青歴院に行かなければならない理由が増えたということだ。
ユークが真実を知りたがるかどうかは分からない。
たとえ調べるのを怖がったとしても、俺が読み解けばいい。
それがあの子を喜ばせるものなら話してやる。それだけの話だ。
ウィスハイドは本を元の場所に戻すと、ベッドから降りて言った。
「僕が吐き出せる情報は全て渡した。ユークレートについてやるがいい」
「……そうする。取り乱して悪かったよ」
「彼女が落ち着き次第、左腕の装具も取り外すとしよう。これは僕が預かる」
彼は油壷を手に取りひっくり返してしまう。
当然まわりは油びたしに……はならなかった。
壷の中身は腕輪を包み込み、琥珀のように固まる。
誰にも触れさせないためか。
「すごいな、ウィスハイドさん。どうしてそんなに良くしてくれるんだ?」
「彼女は思い出させてくれた。どれほど道を究めようとその上をゆく者がいるということを。師から力を頂く立場でありながら、久しくそのことを忘れていた」
「つまり、その……ユークが勝ったからってことか」
思ったよりもマッチョな理由だった。
さっきは子供三人相手にひどいザマだったが、意外にプライドは高いんだろうか。
「さて僕はひとつ余計に質問に答えた。そちらにも一つ答えてもらおう。君はなんだ?」
「なんだ……って言われても。異界っていうのか? とにかく、この世界じゃないとこから来た」
「異界の者か。では、どうやって?」
「こやつはお嬢の結界を侵すべく送り込まれた礫に過ぎん。その結界こそ、我が主の時を封じていた。きさまが言うには千年だったか」
ニクスが言わなくていいことまで勝手に答えやがった。
ユークだったら黙らせてやれるのに。
「祐を送り込んだ者はユークレートの力を欲した。なぜ、史書にも残らぬ彼女の存在を知っていたのか……その者、青歴に触れている可能性がある」
「ヴァーサって奴の指示らしいんだ。知ってる名前かな」
「皆目。甫新国の名付けだからして若者だろうが」
名前だけで分かるのか。
たしかに、誰も彼もトやドで終わる名前ばかりだとは思っていた。
エフィーも甫国の出身だから名付けがみんなと違うのか。
あれ、じゃあサファドとかどうなんだ?
「ディーラーの奴らもドで終わる名前だったけど」
「慣例を外すのは甫本国のみ、それも一部の流れだ。属国の出身なのだろう」
「話が横道に逸れておる。もう十分に情報は得た。ウィスハイドとやら、大儀であった。これに免じて、お嬢への狼藉は不問としてやろう」
「それはどうも」
ニクスの尊大極まる言葉にウィスハイドは素直に頭を垂れる。
腹を立てるよりもこいつに対する興味が勝っているのだろうか。
喋る杖は法具を造りだせる紅衣にしてみても貴重らしい。
それこそユークを前にしたイストリトのように研究対象として捕まってしまうかもしれない。
こちらも礼を言ってとっとと階下へ降りることにした。
「……ユウ、それにオド。お話……聞けた?」
広間に顔を出したとき、はじめに迎えてくれたのはユークの声だった。
誰もこちらを見ていなかった。みんな彼女を心配して視線を注いでいたからだ。
椅子にかけたユークの脇をラトとエフィーが固めそれぞれ両の手を握っている。
イストリトは何やら居心地悪そうに部屋の隅で立ち尽くしたままだが、それでも目はそらしていなかった。
「ああ。でも、今日はここに泊まらせてもらうんだ。話はあとでゆっくりすればいいだろ」
「……うん。ちょっとだけお昼寝するね。みんな、ありがとう」
出来うる限り優しく声を出すことを心がける。
その甲斐あってか、ユークは目を閉じて呼吸を整えはじめた。
「……ユーちゃん、さっきまですごく泣いてたんだ。なのに大声は出さないようにして……見てるこっちが辛いくらい」
「二人が来てくれたからかしら。ずいぶん落ち着いたみたい」
二人に耳打ちされる。
そんなこと言われたら俺まで泣きそうになるじゃないか。
「でもここで寝てたら風邪ひいちゃうわね。少し待って、ウィズに部屋を用意してもらうから」
エフィーが手を取るから何事かと思ったら、ユークの手を握らせてもらってしまった!
あまりにも無造作な犯行だったのでろくに反応もできずじまいだ。
前と違って向こうから握ってきたんじゃないからあまりに無防備で柔らかくて壊れそうで申し訳なくて握ってていいのか放したらいいのかああでも手を放したら起きちゃうかもしれないな!
「はいよし。それじゃ男の子、ユークちゃん運んで」
「……おう」
「わかりました」
自分から触るぶんには大した緊張はない。不意打ちがダメなんだ不意打ちが。
オドに足側を譲り、エフィーの後をついていく。
しかし促されたのは玄関と同じ側にある扉だった。
「これって外出ちゃうんじゃないか」
「うふふ。入ってみてのお楽しみ」
エフィーが戸を開けると、そこはホテルの廊下のような場所だった。
五つも扉が並んでいて、まるで客室フロアだ
俺、ユーク、オド、ラト、イストリト。人数分の寝室ということだろうか。
「まさかこれ、今作ったっていうんですか」
「扉のこちら側は思いのままだもの。ここ、ウィズの世界って言ってもいいかもね」
ユークの「魔法使いの秘密の倉庫」みたいなもんだろうか。
あの子は中身を頑なに見せてくれないけど、入ったらどうなっているんだろう。
目の前の光景に驚くよりもそれを想像するのが先だった。
「……才の差をあらためて思い知らされるな」
扉の外からイストリトがつぶやくのが聞こえてくる。。
同じ紅衣でも差があるらしい。なんだか打ちのめされているようなのもそれが理由だろうか?
「女子が左の三部屋でいいかな。それじゃユークちゃんをこっちに」
エフィーは意に介さず、すいすいと部屋の一つに入りベッドの毛布を持ち上げた。
物が散乱していないことの除けば二階の部屋と似たような間取りだった。一人にはちょっと広い。
「ありがと……ユウ、オド」
ユークをそこに寝かせると、小声のお礼が聞こえてきた。
結局起こしてしまったなとため息をつく。
けれど、呼吸はもうずいぶん落ち着いていた。
寝姿を少し見守っていると、オドが姿を消しているのに気付く。
広間に戻ると、壁にもたれて考え込むイストリトにオドが迫っていた。
「イストリトさん」
「オド? 何か用なら、すまないがエフィーに」
すげなく少年を追いはらおうとする女医だったが、思わぬ二の句が告げられる。
「ご主人さまが危ないところ、ぼくは何もできませんでした。ぼくは強くならなければいけません。あなたの強さをください」
「……妙な言い回しをする。私に何をしろと?」
「何かをするのはぼくです。何でもします」
真剣な口調でちぐはぐなことを言うオド。
イストリトも困惑したらしく眉をひそめている。
けれど、俺にはオドの気持ちが分かった。
俺も同じく何もできなかった。
そしてやりたいこともこいつと同じらしい。
ユークが休む間、それにこれからも、強くなるためにできることをしたい。
「先生! 俺もだ。前、鍛えてくれって言ったよな。こいつもまとめて頼むよ」
「……そうだったな。約束をしていた。うむ、請け負うよ、二人とも」
イストリトは今日はじめて表情をやわらげ、何度も頷きながら言った。
そのさまは調子を取り戻したというよりは無理に元気を出そうとしているようにも見える。
「エフィー、ラトの見張りを頼む。私達はしばらく出る」
「はいはい。そうやって体動かしてたほうが楽よ、きっと。どうぞ、紅衣さま」
メイドは見透かしたかのように笑うと、かしこまって玄関の戸を開いてくれる。
「風追、オド。クロスにはちょうどいい場所がある。ついてこい!」
イストリトは街中をすっとんでいく。
オドと二人してそれに追いすがるのがやっとだった。
俺たちの元気はまだ、この人の空元気にも及ばないらしい。