21 『紅衣との対峙』
「転移術を使ったのは君だな。思ったよりも可愛らしい。それは想定外だが、単独というのは情報通り。君がヨルムンガンドか。そうだと言え。それでこの面倒な仕事も終わる。さあ、『頷け』」
窓のない部屋に魔法の言葉が響き、俺とオドの首が同時に動いた。
どういうことだ。
青歴院のエッカードでもなければ、言語魔法は使えないんじゃないのか。
それに男は単独、とも言った。
あたりはもう明るいが、彼に俺やオドたちは見えてはいないらしい。
先生のステルス魔法は効いているはずだ。
なのにユークだけが、彼の目に映っている。
「あなた、だれ? 何をそんなに怒っているの? ……あ、ごめんなさい! わたし、勝手にあなたのお家に入ってしまったのね」
「ふうん、効かないか。対策はしているというわけだ。なら転移も慎重に行おうとは思わなかったのか? 話に聞くヨルムンガンド殿の力量ならば僕の中継結界などお話にもならないだろう。なぜそれほど迂闊なんだ? なぜ面倒ごとで僕の手を煩わせる?」
「わたし、お友達を探してるの。ラトっていう、緋色の髪の元気な子。お胸がおっきくて、背はこのくらいなんだけど……。あなたは知らない?」
ひたすら早口でつぶやく男と、手振りでラトの体型を再現するラト。
会話しろお前ら!
そう突っ込みたかったが、イストリトが目で制してくる。
「……面倒だ」
男はどこからともなく真っ黒なもので満たされたビンを取り出した。果実酒でも漬けられそうな大きさだ。
「人探しなら厘国にでも頼め。君を捕縛し、やつらに突き出せば厄介事はおしまいだ」
言葉を切ると、男はビンを手から放り出す。当然それは床に落ちて割れ、俺たちに中身をぶちまけた!
「それに触れるなっ!!」
「きゃあっ!?」
イストリトの叫びとともにディアマンドが素早く前へ躍り出る。
大男の体はまたたく間にべたつく黒い液体にまみれてしまった。
恐らくはユークもまともに浴びてしまっている!
この男はインク瓶をぶちまけたのか?
強烈な臭いが鼻に突き刺さる。
「トリト……? それに周りの子供はなんだ? 何のことはない、紅衣が背後にいたというわけか? いや、弁解はしなくていい。大人しくしていれば面倒はかけない」
「ウィスハイド! 術を止めろ!」
「君たちを止めたほうが面倒は少ない」
「うあっ!?」
ふいに何者かに足を捕まれ、壁に思い切り叩きつけられた。
そしてインクが鎌首をもたげた蛇のようにうねり襲い掛かってくる!
腕に噛み付かれたかと思うとその黒い塊ははじけ右肩を包み込んで固めてしまった。
「カゼオイさん! ……わあっ!」
オドもまたインクの手や蛇に襲われ、小柄な体は俺のとなりに叩きつけられた。
この男、ぶちまけたインクを意のままに操っているとでもいうのか。
「ユーク! お前は大丈夫か!?」
「う、動けない! ねえ、『はなして』、『はなして』ってば!」
黒い水槽の中に彼女の銀髪が見え隠れしている。
残りのインクがユークに集中し、首から下を覆っていたのだ。
入れ物がいくら大きくても、こんな量が入っていたはずがない!
「溺れさせはしない。だが、口を自由にすると面倒だ」
男は再び、いずこかから紙片を取り出す。
主の手を離れると自ら折りたたまれユークの目指して飛び、口元を覆う。
それは瞬く間に黒く染まり、彼女の口を封じた。
「んんー!! んふぃへ!」
「ユークを放せ! 彼女はヨルムンガンドじゃない!」
「君も黙っていてくれ。話ならば厘国とたっぷりすればよい」
言葉とともにこちらへも白い紙が飛来する。
「させん!」
イストリトが紅衣をひるがえし、紙弾を撃ち落してくれる。
マントは一点の汚れもない。彼女は動けるようだし、言語魔法も効いていなかった。
紅衣に守られているのか。
「私の距離だ、ウィズ!」
「いいや、そうでもない」
紅衣は一瞬にして距離を詰めぶつかりあう。
どぷん、という何かが沈むような音。
インクの球体が宙に浮かび、男の顔面を捉えようとしたイストリトの拳を包み込んでいた。
「捕まえた」
「まだだ!」
イストリトは空いた左手にメスを取り出す。
それを振り降ろした先は――黒く汚された自身の右腕。
「トリト、何ということを。見ているだけで痛い」
あろうことか、彼女は肉ごとインクを削いでしまった!
当然、おびただしい血が床に流れていく。が、それはすぐに止まる。
マントから再び現れた右腕は真新しい赤みがかった皮膚に包まれていた。
「皆を解放しろ。さもなくば続行だ。きさまの大層な術と私、どちらが先に力尽きるか試してやる」
「残念だがトリト、君が先だ。面倒だが一つ教えておこう。このインクには二つの権能を与えている。一つは見ての通り。もう一つは……」
男はユークに目をやる。
彼女は硬化したインクから抜け出せずずっともがいていた。
紙の猿ぐつわから漏れ聞こえる声が痛々しい。
考えろ、まだ話すことはできるんだ。ユークを落ち着かせて、このインクをどうにかしなければ。
「んー! んぁーんゅーんぃー!!」
「……侵した者から力を奪い、僕のものとする。だから僕が先に倒れることはない。分かったろう、トリト。無駄な抵抗はよしてくれ」
「無駄かどうか、試してみるさっ!」
言葉とは裏腹に、イストリトが仕掛けたのはフェイントだった。
拳を寸止めし、待ち受けていた黒球には飛来したメスが沈み込む。
ディアマンドに投げさせたのだ。その膂力で左腕だけは拘束を脱したらしい。
女医はインクが硬化したのを見、次の攻撃を仕掛ける。
「面倒なっ……!」
ウィスハイドと呼ばれた男はイストリトの回し蹴りを受け止め損ねる。
イストリトのズボンは黒く染められたものの、その左膝は男の胴をまともにとらえていた。
彼女は再びメスを取り出して構える。
「これを落とすには、覚悟がいるな……」
「その、必要は、ない」
男は立っているのがやっとという様子だった。
それでも啖呵を切ると、投げられたメスを球体から取り出し自らの左腕を裂く。
血がぽたぽたと垂れたかと思うと、家畜が餌に群がるかのように黒い塊がのたうった。
目を背けたくなる光景だ。
けれどそれで終わりではなかった。黒色の海が波打つたび、みるみるかさを増していくのだ。
そして……何条もの黒い帯が、イストリトに殺到する。
「ぐっ!」
紅衣をもってしても、増殖したインクの蛇すべてを跳ね除けることはできなかった。
俺と同じく、彼女は両手両足を拘束される。
「君の心を折るにはまだ足るまい。ヨルムンガンド殿、力を頂くぞ」
言葉とともにウィスハイドが拳を作ると、出血は勢いを増す。
一滴したたるたびに床一面がたわみ、天井が近くなる。
もはやこの場に黒く汚されていないものはなくなろうとしていた。
汚れ?
「服、きれいにするね」
頭の中でユークがそう言った。
これだ!
「ユーク、まだ聞こえるか! お前を縛ってるのは床に落ちたインクだ、汚れだ! 綺麗にしちまってくれ!!」
叫びの後には静寂だけが残った。
まさか、もう聞こえていないのか。
そう絶望しかけたとき、インクの海が渦を作っていることに気付いた。
「ぐ、力がありあまる……? 紅衣を宿した時でさえ、これほどは……。ヨルムンガンド、君は一体……何者だ」
何故か困惑しはじめたウィスハイドは自分の体をかき抱き、階段へと後ずさりしていく。そして座り込んでしまった。
一方インクの渦は上下にさかむき、インクを一滴残さず天井へと吸い込んでいく。
体に付着したものも、服や紙にしみこんでしまったものも全て。
当然だ。それがユークの魔法なのだから。
やはり、彼女の力は圧倒的だった。
「……これ、どうしたらいいかな」
掲げた人差し指の先に積乱雲のようなインク塊を載せたユークは、困ったような笑顔を向けてくる。
「置くわけにもいかないし、例の倉庫ってやつに入れればいいんじゃないか。水だって入るんだろ?」
「そだね、しまわせてもらっちゃお」
「ご主人さま、すごいなあ……」
呆然としたままのオドが心底感心した様子でこぼす。
うずくまったウィスハイドに駆け寄っていくユークからは怯えも怒りすらも感じない。
大物というかなんというか、呆れるばかりだ。
「ウィズ、おい。私がわかるか」
「先生、ウィスハイド……は、大丈夫なのかな」
「ユークレート、それは私のセリフだ。気分は悪くないか? こいつの言ったことが気になる。力を抜き取られたんだろう」
「んー? あ、なんだか途中、すっごくむずがゆかった。でもなんともないよ。あ、まだちょっとかゆいかも」
ユークはそう答えて、猫のように身震いしてみせる。
「そうか、それならいい。ウィスハイドの方だが、気を失ってしまったようだ。カスバ滞在の中毒症状に近いか……?」
「ええっ! そんな、わたしまだ謝らなきゃいけないことがあるのに」
「なんでだよ! 問答無用で襲い掛かってきたの、こいつだろ」
彼女は首を振って、当たり前だと言わんばかりに返してくる。
「だって、わたしまだ名乗ってなかった。それなのに自分のことばかり話して……ウィスハイドが怒って、お仕置きされても仕方ないもの」
悪いことしちゃったな、としょげるユーク。
あ、こいつ話聞いてなかったんだな。
ウィスハイドが少し気の毒になった。