8 『時の楔』
件の森の広場を通り過ぎ、ぼくらは木々の群れから抜け出そうとしている。
ユークが歩き出してから、しばらく誰も言葉を発さなかった。
1キロくらい歩いた頃だろうか。沈黙を破ったのはやはりニクスだった。
「ほどなく結界を抜けます。小僧が通った影響で陣の権能が弱まっておる故、術者であるお嬢が離れれば崩れてしまいましょう。このカスバもしばらくは使えませんな」
「そういえば、カスバってなんだ? すっかり聞きそびれてたけど」
「えーとね……カスバで休むと、魔法がふだんよりずっと上手く使えるようになるっていうか……」
「五点。カスバとは自然発生、または人為的に築かれた霊的城塞。守るにつけ攻めるにつけ、戦に臨む魔法使いが支配せねばならん土地。お嬢の答案は確かに最大の効用を示してはおりますが、その由来、意義を説明できねば解とは言えま――」
「『静かに』」
何点満点の五点だったのだろう。
杖が静かになると、耳に届くのはぼくらの足音だけになった。
朝食のあいだはあんなに和気藹々と語り合えたはずなのに、まるでお互い言葉の発し方すら忘れてしまったかのようだ。
遠きの衆を灼くよりも近きの寡を殺めることを厭われるか、とニクスは言った。
思い出すのは、はじめて聞いたユークの言葉だ。
「次は、わたしに何をさせるの?」
もう一つ、ぼくがみんなの願い事を聞くなんて大変そうだ、と言った時、彼女は言葉を濁らせた。
そして、彼女がここで隠れ潜むようにしていたこと。
すべてが、いやでも彼女の過去を想起させた。
けれど、そんなことを話題にできるはずがない。
ぼくは目的地に着いたら、彼女ら姉妹に頼って家へ帰してもらう。しょせんそれまでの付き合いなのだ。
それなら、やっぱり笑って別れたい。
「ユーク、きみの国ってどんなところなんだ?名所とか、あるのかな」
「……ん? え、えっとね! わたしが一番好きなのは、朝食べたクッキー、あれを作ってるパン屋さん! こっそりお城を抜け出して、メミットおばさんのところに行くといつもとてもいいにおいがするの。あ、おばさんはそのパン屋の……」
彼女はさっきのぼくと同じように、好きな場所や好きな人、好きな物事についていろんなことを話してくれる。
これから向かう場所のことくらいは知っておきたかったのもあるけど、何よりもまた笑顔が見られて嬉しかった。
「でね、マルカと一緒に冒険する前は、いつもおばさんのところに行くの。そうすると、さっき食べたかたーいクッキーを沢山くれるのよ。おなかがすいたら食べなさい、一月経っても腐りやしないから、って。でも、一番はやっぱり焼きたてのパンかな」
いつの間にか、まだ彼女の役目を父親が果たしていたであろう頃の話になっていた。
きっとユークにとって、一番楽しい時間はそこだったのだ。
湖畔に隠れ潜む必要も、皆の願いを聞き届ける義務もなかったとき。
彼女がそれを引き継いだということは……きっとこの子の父親は、亡くなったのだ。
その事に突き当たらないうちに、別の話題を投げることにした。
「そっか。えっと……けいこく、だっけ、国の名前」
「あれ? わたし、教えてなかった……? わたしたちの国の名前は、エフェン・シュクルト」
「かつてのエフェン国、そしてその国土を囲むシュクルト都市連合とは長年小競り合いの絶えない土地であった。我が主人の父君こそが融和に向き始めた民心を掴み、争いに終止符を打ったのだ。そして首都機能を旧シュクルト連合内に置きながらも、国名をエフェン・シュクルト連邦共和国とすることで――」
「『黙ってて』。いまは歴史の授業じゃないわ」
またニクスがいつの間にか、それも勝手に復活していた。
静かに、だとちょっと魔法が弱いのかな。
エフェンシュクルト。どこをどうとってけいこくになるのだろう。
「頭文字のエ、って、むずかしく書くとこう、でしょ?」
黙らせたニクスで地面に何やら書き始めるユーク。わざわざ杖頭を地面につけてやる必要ないだろう。
彼女が杖を上げると、そこには見覚えのある文字があった。
慧。
え、日本語が通じるばかりか漢字まで使われてんの!?
それでけい、と音読みするのか。米国みたいなものだと理解する。
「古ナルキ文字。事物の名称は正確に使われよ、お嬢。加えて申し上げますが、慧以外の古字も書けるようになるべきかと存じます。書き仕事のすべてを永遠に妹君に託すおつもりで――」
「……ニクス、先に行ってて」
そう言い置くと、ユークは杖を振りかぶって……投げた。
ニクスは見事な斜方投射の軌道を描いて飛んでいく。なるほど物理法則も地球と大差ないのだな、などと妙な感慨を持ちながらしばらく見守ってしまった。
これがヤリ投げなら金メダルは間違いないだろう。
彼女は飛んでいった杖を睨みつけ歯を食いしばりながら指差していたが、ぼくの視線に気付くと恥ずかしそうに小走りで先を行きはじめた。
追いついて、歩調をあわせる。
「着くのが楽しみになったよ。早く見てみたいな、エフェン・シュクルトがどんなところか」
口に出して言うとやっぱり長かった。次からはやっぱり慧国って呼ばせてもらおう。
「うん! わたし、案内するね! 着いたらおばさんのパン屋でおやつ買って、西の塔で食べよう? そこなら街中見渡せるもの。マルカも誘えたらいいんだけど、きっと無理かな……。でも、もし一緒に行けたら――」
背後で、どさ、という音がする。
ぼくとユークは一緒になって振り返った。そこには、くちばしの黄色い鳩くらいの大きさの鳥が落ちている。
一体何が起きたのだろうと近づこうとすると、ユークが後ろからぼくを強く抱き留めた。
どきりとする。でも彼女はそれだけでは飽き足らず、そのまま引っ張っていこうと力を込めてきた。
「近づいちゃダメ! 離れて!」
ユークへ振り向いていた顔を前へと戻すと、鳥には早くも虫がたかっていた。
それだけじゃない。腐ったような臭いがしはじめている。
もう一つ、はじめに見たときこいつは陽の当たるところに落ちていたはずだ。
なのに、今は影の差す中にいる。いや、その影がどんどん大きくなっている!
見上げた先に広がっていたのは、異様な光景だった。
みるみるうちに木々の幹が太まり、節が現れ、枝分かれして広がった葉が枯れ落ちていく。
ふたたび見下ろすと、枯葉の山の隙間に白いものが覗いていた。あの鳥の骨だ。
しかし、そのすべてが一呼吸のうちに崩れ去る。そしてふたたび新たな枯葉、昆虫や動物の死骸が地面を埋め尽くしていく。
ぼくはユークの手を取って駆け出した。ここから離れなければいけない。今すぐに!
けれど、取った腕はすぐに突っ張ってしまう。ぼくと彼女では、歩幅が違い過ぎた。
「ユーク、こないだみたいに浮けるか!?」
「え、あ、うん!」
ジャンプしたユークを掬うように抱き上げる。思ったとおり、ほとんど重みを感じない。
これなら彼女を引きずってしまうことも無い。遠慮なく全力で走れる!
脚力に自信があるわけじゃない。
それでも、はだしの女子中学生より荷物を抱えた男子高校生のほうがずっと速いはずだ。
「時間……時間が経ってるの……? わたしとマルカの、結界があったところだけ」
ぼくの腕の中で、震えながら彼女がつぶやいた。
背後から聞こえてくる音だけで、異変がまだ終わっていないことが分かる。それどころか、加速しているようにすら聞こえる。
ユークはぼくの肩越しにそれを直視しているはずだ。
「結界が、今までずっと時間を止めていたの? どうして? ……マルカ、どうして?」
加速した生物循環が立てる音はその勢いを緩める気配すらない。
けれど、確実に遠ざかっている。つまり、ユークの言うとおりこれが起こっているのは結界の中だけなのだ。
もう安全なのか?
立ち止まり、振り返ってみる。
「いや、止まって! マルカ、わたしを置いていかないで」
その景色は知育ビデオやゲームで見たことがあるような気がした。
戯画的な地球に、木々がにょきにょきと繁茂していくものだ。
そういう光景が、眼前の森林で起こっていた。
どんぐりが雨のように地に落ちる。そのうちのいくつかが、甲虫が翅を広げるかのように硬皮を押し上げ、芽を伸ばしていく。
はじめは白かったその芽が緑がかり、しだいに茶色く、硬く強く太くなっていった。
成木は枯れゆき、地に満ちる死骸とともに崩れていく。
そのサイクルが、異常な速度と回数で繰り返される。
「わたし、いったいどれだけの時間あの中にいたの? マルカ、時間を止めたのはあなたなの?」
ユークは両手で顔を覆い、その中の妹に話しかけていた。
だがそれが返事を返すはずはない。それでもユークは問いかけ続ける。
ぼくもまた、眼前の出来事から目を覆いたくなった。
けれど、ぼくの両腕は彼女を支えているのだ。だから、それはできなかった。
「わたしが、お城に戻りたくないなんて言ったから? それとも、わたしが何もかもあなたに押し付けてしまったから?」
いつの間にか異変は終わっていた。とてつもなく長い時間、その光景を見ていたように思える。
いや、とてつもなく長い時間。それそのものを見ていたのだ。
「ねえ、どうして、マルカ。どうして、わたしに何も言ってくれなかったの? マルカ、わたしを、ひとりにしないで……」
ユークはぼくの腕の中で泣いていた。
ぼくも彼女に聞きたかった。
こんなことが起こったのは、結界が塞き止めていた時間が流れ出したからなのか?つまりいまここは、君が生きていた時間よりずっと先の未来ってことなのか?
ぼくはこれからどうなるんだ?君の妹に会って、家に帰してもらえるはずじゃあなかったのか?
でも、泣きじゃくる彼女に聞けるはずはない。
ぼくはユークを抱きながら、ただ立ち尽くしていることしか出来なかった。