水銀灯ロード
工場区に渡る橋まで、全ての水銀灯が途切れずに点灯する道がある。その手前で自転車を止め、サドルに跨ったまま両足をつけると、波打つアスファルトの感触が伝わった。
思い出すのは、この道で、これが最後とも思わずに見ていた後姿と、霧雨にぼやけて小さくなるテイルランプ。経た時が嘘のように変わらない街に彼の姿はなく、わたしは行方を知らない。
多くを持たずに生まれ、さらに失った彼の内にあり続けたもの。あれは、この世界の枠を覚えたわたしが、この世界にあるべき姿を覚えたわたしが、遠い昔に切り捨てたと同じ魂だったのかもしれない。
体を前に倒し、ぐっとペダルを踏む。どんどん加速する。道路の両端に続く水銀灯。空から見れは、滑走路のようだろうか。
この道の先に、昔、本当に空港だった島がある。
|||| 2188年 |||| ( 修理屋十歳 解体屋十三歳 )
修理屋が解体屋と出会ったのは、レンレンが修理屋を訪れた春より二年前。やたらと雨の多い年だった。
ガラクタばかりが目立つ道具屋の前に、改造したモンキーZ50Jが止まった。バイクから降りずに、店先のパイプ椅子に座っている青年が顔を上げるのを待つ。道具屋は頭髪と眉を剃り落としているためか、年齢がよくわからない。二十代である事は間違いないように見えるが、虫屋でさえ彼の年は知らないと言う。
「確認に行ってくれ」
「直ったのかイ」
「直すのが仕事だ」
彼は大学を卒業してすぐに修理屋を始めた。子供ゆえ、客に侮られるのも面倒なので、間に何人かの人間を通している。道具屋はその一人だ。話すと語尾に独特のクセが出る。かといって、外国人のようなカタコトでもない。
「こっちも見つけておいたヨ。ご注文の仕事場」
「あったのかい」
「捜すのが仕事だヨ」
現場に赴く仕事も多いが、自分の修理工場はいずれ必要と考え、道具屋に頼んでいた。道具屋は客が注文した物がこの世に存在する物なら何でも捜し出す。修理屋の注文は簡単過ぎるものだったのだろうが、彼は相手や内容により態度を変える事がない。客は誰であろうが道具屋の前では他者と等しく、誰以上でも誰以下でもない存在となる。人としては稀な性質だといえよう。
「すぐにでも連絡を取るかイ?」
「ああ」
「OK。虫屋に案内してもらうといいヨ。持ち主はちょっと連絡を取り難いんでネ」
不規則な振動が体に響く古いアスファルトの道を南下して、修理屋は一度アパートに戻った。バイクを置いてから、川沿い近くにある虫屋を訪ねる。虫屋はもう何十年もそこで店を出しているが、若い頃は観光客用のホテルで働いていたらしい。
「道具屋は連絡を取り難いと言っていたが、忙しい人間なのかい?」
「いや。電話が使えねえだけだ。聞こえないんでな。この時間なら、仕事を終えて出て来る所を捕まえりゃいい」
西へ向かって数分も歩けば、主に食料品を扱う店が多い区画に出る。豆袋の横に本が並んでいたり、野菜籠の上に衣料品が吊られていたりするが、この頃は何処もそんなである。
集合住宅の一階に肉を量り売りする店があり、虫屋が大声で呼ぶと、奥から腰の曲った老人がのっそりと出て来た。
「よう。あいつ、どうだ?」
「わっしゃあ、もう年で力仕事が出来ねっし、助かっとう」
「そうか。まだ中にいるか?」
「もう終えて帰ったっし。力強いで仕事早いっし。これから地下に遊びに行くとか言ってたっし」
空は今日も薄い灰色の雲に覆われていた。夜にはまた雨だ。コンクリートのひび割れから流れ込んだ雨は中で溜まり、高架下の天井に黒い染みを作ってポタポタと落ち続けている。
「潜られると面倒だな。その前に捕まるといいんだが」
地下は迷路のようになっており、若者向けの面白い店や遊び場がある独立した小国のようなものだ。通路は勝手に掘り進められたり、封鎖されたりで、あまり降りない者には案内がないと危険な場所でもある。だから、修理屋は虫屋がそういう意味で言ったと思った。
駅前には比較的状態の良いビルが目立つ。地下街へ降りる入口の前に彼はいた。
「あーあ…俺、触んなって言ったよねー。それか、あんたも聞こえないー?」
少年に髪を掴まれた男は、駅ビルの壁に顔面を打ちつけられて酷く変形し骨はあちこち砕けている。とても話せる状態ではない。激痛に混乱して暴れるが、自分よりも大きな男の髪を掴んでいる少年の腕は不自然な程動かない。虫屋は慌てた様子もなく少年に近づいた。
「コラ。やる前に十数えろと言ったろ」
「数えたよ爺ー。でも、こいつ、数えてる間に手ー中に突っ込んで来た。そんでも我慢しなきゃダメー?」
「そうか。じゃあ、あんまりいい方法じゃなかったな。別を考えるか」
少年がぱっと手を離すと、男は顔を覆いながら転げ回った。タイルについた血は、誰も掃除する者がいないまま、しばらくこの場所に残るだろう。虫屋はしゃがみ込み、血と唾液の混じった涎を垂らしながら言葉にならない声で喚いている男に言った。
「おい、ちょっと我慢して聞け。医者には連絡しといてやるが、俺達はずらかるぜ。悪かったな」
駅ビルに設置されている公衆電話で今も使えるのは、ダイヤル式の古いタイプだけだ。どうやら、これが一番壊れ難く出来ている。虫屋は小銭を数枚入れて、アドレスも見ずにダイヤルを回した。
「俺だ。駅の北口にケガ人が転がってるからよ。…ま、そうだ。…おう、じゃあな」
虫屋は受話器を置くと、修理屋に言った。
「子供の前で悪かったな」
「いや」
「爺ー、こいつ誰?」
「歩きながらお前さんと話をするのはやり難い。公園跡にでも行くか」
途中、虫屋と少年が話をする事はなかった。修理屋にも、虫屋は少年の呼び名と年齢を教えただけだった。
「こいつは肉を解体する仕事につく前から、解体屋と呼ばれてんだ。何でかなんてのは、さっきので察せるだろう。まあ、とにかく、解体屋でいい。この通り体格がいいんでな。もっと上に見えるが、これで年は十三だ。もうすぐ十四になるんだったかな」
遊具が取払われて何もなくなった公園でも、球技をして遊ぶ子供達ならいるし、たまに夕方から出店もある。今は誰もおらず、何もなく、がらんとした空間が広がるばかりだ。
虫屋は電灯が点いているベンチの下へ行き、やれやれと言って腰を下ろした。解体屋は虫屋の前に立ち、修理屋は大人一人分くらいを開けてその横に立った。
「お前さんの工場の一角を借りてえ奴がいる話はしただろう。彼だ」
「あー、好きに使えば?電気とか水とか、使った分を払っといてくれればいいから。前の持ち主がくれたんだけど、俺、あそこには興味ない」
「だとよ」
幾つか確認しておきたい事があったので、修理屋はGジャンの胸ポケットからメモ用紙とボールペンを取り出した。つきあいの長いらしい虫屋はともかく、今日初めて会った自分の口の動きは読み難いだろうと思い、筆談にしようとしたのだ。しかし、解体屋は修理屋がさらさらと書き始めた字を覗き込んだ途端、手の平を見せて振った。
「俺、バカだから難しい字はわかんないってー」
「彼は簡単な字でもダメなのかい?」
少し時間をおいてから、修理屋は虫屋に聞いた。
「そうだなあ、頭ン中は五歳児くれえか?俺にはガキがいねえから、どの程度の中身してやがんのかわからん。まあ、小学校もまともに行ってないらしいんでな。その年で大学を出ているお前さんの感覚は通用しねえ。こいつの顔を見て普通に喋りゃあいい。ただ、唇の動きを読むのもまだ完璧じゃねえから、それは頭に入れておいてくれ」
そう言った後は、解体屋と修理屋が中々疎通しない会話をしている間中、一言も口出しをしなかった。それどころか、終わったら起こせとばかりに寝てしまった。と言っても、仕事の話はすぐに終わったのだが。修理屋が何を言っても、解体屋は好きにすればいいと言うのだから、そうするしかないのだ。いっそ工場をくれと言っても、好きにすればいいと言うのだろう。
「とにかく、一度その工場を見ておきたいから、あんたが休みの日に一緒に来てくれ。本契約はそれからだ」
「あーあ。これ、借りた服なのに、さっきの奴の血ーついてる」
無視したのではなく、解体屋は修理屋から目を離していた。虫屋に自分が着ていた春物のコートをかけながらそう言った。大人ばかりに囲まれて暮らして来た修理屋は、世の中には色々な趣味を持つ人間がいる事くらい知っている。彼らは酷くストイックな面を持っている。同類の者以外に手を出したというのなら、この少年の方に問題があるような気がした。
「あんたのその髪、誤解され易いのかもしれないよ。俺にはよくわからないけどね」
「あー、これ?爺がこう括ったんだよー。聞こえないなら、よく見えるようにしておけって。その時は、何て言ってんのかわからなかったけどねー」
「他の髪型にしてもかまわねえんだぜ。いっそ切りやがれ」
「あれ、起きてたー?」
「今、起きた。つーか、終わったら起こせってんだ」
立ち上がり、解体屋がかけた服を押し付けるようにして返す。解体屋の髪を最初に括ったのは確かに虫屋だ。それは、老人にとってはそんなに昔の事ではない。いつものように店で居眠りをしていると、足元の鞄をごそごそと探る音が聞こえた。頬杖をついたまま、片目を開けて視線を落とすと、子供の黒い頭と、中から弁当を取り出す手が見えた。腹が減っているのかと思い、見逃すつもりでまた目を瞑った。しかし、盗って逃げればいいのに、子供はその場で食べ始めた。仕方がなく、頭を叩いたが、子供はかまわず食べ続けた。その様子に不気味なものを感じたのが第一印象で、出会いからして、ろくでもなかったのだ。
『おい、こっちだって叱るのは面倒なんだ。人の弁当を食いてえなら、もっと上手くやれ』
『上手くやったら、また食える?』
『あほう』
それから、何が気に入ったのか、解体屋は時々虫屋の所に来るようになった。三年も経った頃、突然に姿を見せなくなった。半年前に、また突然現れた。会わなかった一年半の間に、聴力を失っていた。
『お前さん、随分でかくなったな』
『爺ー。何か喋ったのはわかるんだけどー、俺、聞こえないんだよ』
そう言ってしゃがみ込み、初めて会った時のように弁当を探り出した。
『あほう』
虫屋はぽかりとやり、弁当を包む新聞紙をとめていた輪ゴムで、解体屋の前髪を大雑把に括った。
『おう。聞こえねえならな、よく見えるようにしとけ』
そう。確かにそう言ったが、律儀に自分が括った通りを続けなくてもいいものをと虫屋は呆れる。
少年が何処にいたかは、見張っていたように現れた男の独特な風貌ですぐにわかった。プリズンの役人は大抵は大男で、頭髪の一部のみを剃り残し三つ編みにしている。場所は決まっておらす、後ろ髪だったり、前髪だったりだ。その日、虫屋の店に現れた男は、左耳の前に垂れるようにしていた。まあ、それはどうでもいい事だ。
『よお。そんな所に立たれると商売の邪魔なんだが、こいつに用があるのか?』
虫屋はボサボサの前髪を輪ゴムで結んでやったばかりの子供を足で示した。大男は答える代わりに、その体には不釣合いに小さな拳銃を懐から出して虫屋に見せた。銃身に罪人の名前が彫ってある。噂に聞いた事はあるが、見るのは初めてだ。
『これが何か、ご存知でしたら話は早いのですが』
『名前が刻まれている罪人を撃つってそれ専用の銃だろう。罪人をプリズンの外に放つ時に一般人に預けるってのは随分と乱暴な話だ。本当にやってるとは思わなかったぜ』
『素行に問題がなければ、こんな物は使われず、自由の身で一生を終える事が出来ます。ああ、出国は出来ませんけどね。実際、ボランティアでやって頂くにしては後味の悪い結果が出る事もありますし、引き受け手は殆どいないのが現状です。まあ、島から出る機会はこんな事でもなければないので、連れて来ました。当の本人はどうでもよさげですがね』
虫屋は枯れ枝のような指で頬杖をつき、少し考えてから、人生で一番くらいに大きな溜息をついて言った。
『その銃と子供を置いて帰んな。島の人手不足なんざ俺の知った事じゃねえが、こんなガキでも俺が生きているうちは死なせねえでやる』
『難しいですよ?この子は子供の頃、プリズンに送られて来ました。施設では対応出来なかったからです。十三になったので、これから何かあれば、特例で刑が執行出来ます。この子が出されたのは、そういう事です』
本当の事を言うこの男は、プリズンの役人にしては良心的なのだろう。厄介払いをしたいだけならここは黙って引き渡せば良いのだから。
『あんた、自分の周囲全部が薄い紙で出来ているとしたら、何も壊さずに生きられるか?物も人もそんなもんで出来ていたらよ』
『無理でしょうね。しかし、私は努力をしますが。この子は努力をしません。そこが問題なのです』
『だろうな。無理を承知で、出来なきゃ俺に撃たれて死ねってか』
小柄な虫屋は自分を見下ろす大男を睨みつけるわけでもなく、愚痴を言うかのように続けた。子供は老人と大男のやりとりには全く興味を示さず、しゃがみ石を積んで遊んでいる。
『よお、お前さんはもう少しこの世にいねえか』
虫屋は面倒な事は嫌いだった。しかし、この小汚い子供を生かす縁が自分にあるというのなら、せいぜい仕方がないくらいの気持ちで引き受けようと思った。
『俺は、人が生まれる前の世界なんざ、どんなもんか知らねえ。知らねえが、お前さんを見ているとな、ちゃんと生まれて来なかったんじゃねえかと思うぜ。何つーか、お前さん、あっちに残ってんじゃねえか?人を作ってるモンが半分くれえよ。足りねえってのは、そういうこったろ』
子供に虫屋の声は聞こえず、道に落ちている石を拾おうとして手を伸ばし、ようやく大男がいなくなった事に気がついた。
「あいつ、帰ったのー?ふーん。爺、受けたんだ」
子供は立ち上がり、他人事のように言って、服の中に手を突っ込み背中をポリポリと掻いた。老人が弁当を包んでいた新聞紙にマジックで何やら書き始めたので、一応といった様子で覗き込む。
『俺、難しい字は読めないんだけどな』
『とにかく、ころすな。ひとをなぐるまえには十かぞえろ』
新聞紙には大きな字で、そう書いてあった。
『俺、数はもっと数えられるんだけどな』
『そうか』
ならば百にでもしておけば良かったと思いつつ、夜の街に消えていく子供を引き止めもせずに見送った。 銃は机の上に無造作に置かれていた。この銃は、後に指のきかなくなった虫屋が修理屋に預けることになる。
「よお、修理屋。こいつはな、輪ゴムもしばらくそのまま使ってやがったんだぜ。そんくれえ平気でバカだからよ。まあ、覚悟しといてくれ」
「俺が、何を?」
「わっしゃあ、もう年で無理はきかねっし。一人でこいつの後始末は大変だっし」
虫屋はわざとらしく腰を曲げて、弱弱しくさっきの肉屋の真似をしてみせた。
「あんた、俺みたいな子供に何を頼んでる」
「へっ。子供上等。お前さんは長生きしそうだしよ。俺はこの通り年寄りなんでな。こんなガキよりは先に逝く気満々なんだが、こいつは目を離すとすぐに連れてかれちまいそうでな」
「誰に、何処へだって?」
「神様みてえなモンによ、人が死んだら行く所へだ」
何とも漠然とした話で、まともに相手にするには馬鹿馬鹿しい。けれど修理屋は後ろで誰かが忘れて帰ったゴムボールを高く投げて遊んでいる解体屋を振り返り、何となく、ああ、つかまった、と思った。おそらく、意思ではどうしようもない縁というものに。
「でも、俺、輪ゴムしてたからステラに拾われたしー」
戻ってきた解体屋は汚れたボールを修理屋に投げて言った。解体屋の中では、こちらが思っているよりも前で話が止まっていたりする。ガードレールに座っていると、たまたま道を歩いていた知らない女が解体屋の髪に目をとめたという。一度は通り過ぎたが戻って来て、彼女は無言で後ろで一つに結っていた自分の髪ゴムを取って、解体屋の髪を括りなおした。輪ゴムなんかで括ったら痛いからと、そう思ったのだろう。
「ついて行ったらー、部屋に入れてくれた。そのまま、しばらく一緒に暮らしたー」
解体屋の拾われ癖はこの時以前からのもので、この後も今も色んな人間に拾われるようにして暮らしている。ステラは彼に関わった大勢の中の一人である。
「ステラってのは会った事があるな。美人じゃなかった。ちっともな。肌はシミのようなモンがいっぱい浮いててよ、ひどく痩せてて、薄幸そうで、とにかく辛気臭え印象の女だ。女ってのは優しいから、ほっとけなくてこいつに関わっちまうが長くは続かねえ。そんでもよ、そこらにいるとまた誰かが拾って帰るんだよな」
虫屋は耳の後ろを掻きながら、文句でも言うようにブツブツと言って歩き出した。
平均寿命はとうに過ぎた身だ。解体屋は神様でなく自分が連れて行く事になるかもしれないと思っていた。それも修理屋と解体屋が会うこの日までにして、この子供は少年を生かすだろうなんて、自分に都合の良い直感を信じてみた。
|||| 2193年 |||| ( 修理屋十五歳/解体屋十八歳 )
「……げっ」
道具屋のボロ机に解体屋の姿を確認すると、レンレンの鋼鉄自転車はあからさまにもUターンをした。
「って、何で追って来るのーっ!?」
レンレンがいかに飛ばし屋でも、バイクの方が速いに決まっている。すぐに追いつかれてしまった。けれど、解体屋は抜かさずにぴったりとレンレンの横をついて来る。
「うわわわわ何で何でっ?もしかしてヒマだから?それだけの理由なのねーっ」
街中を走り回っている内に、西の端まで来ていた。もう日暮れで、赤い大きな橋で繋がった小島がシルエットとなり、海に浮かんだ大きな船のように見える。ニホンにも昔、その外観から軍艦島と呼ばれた島があった。石炭を掘り出すために造られた人工の島だ。
防波堤に突き当たり、やっとプレーキをかけてサドルに座ったまま両足をつくと、バイクも隣に止まった。道具屋のバイクのように大きくはない。配達用のバイクであるから、かっこよくもない。この男にとって、物はそこにあるから使う。それだけでしかないのだろう。
「腹減ったー。あんたは食うもん持ってないよねー」
(あ、解体屋がバイクから降りたっ)
レンレンは自転車に跨ってブレーキを握り締めたまま、まだ陽の温もりが残っているコンクリートの上に寝転がった解体屋を置いて逃げようかどうしようかと考えた。
解体屋は仰向けになり、空に向かって腕を伸ばし、指で何か描いている。字はあまり書けないと聞いたから、絵かもしれない。そばに誰がいようがいまいがどうでもいい様子に気が抜けて、レンレンはやっと自転車から降りた。
落ち着くとまばらに人の気配がして、レンレンは周囲を見回した。海岸線に等間隔で車か、男女二人ずつの人影が見える。ここで花火大会があったのは随分と昔。自分の知らないことが新しく始まったのかもしれないと思い、好奇心に負けて聞いてみた。
「ねえ。ここ、何かあるの?」
解体屋はむくりと起き上がると、ふざけるわけでもなく目の前にあるものを指差して言った。
「海。と、空。と、島ー」
レンレンは素直に解体屋の指の先を追った。自然、最後に解体屋が指した島で視点が止まった。
「あの島、あれ、空港だったのよ。わたしは飛行機には乗れないから、昔も乗った事はないけど」
西の小島を見る解体屋の目は、他の何を見る時とも変わらなかった。レンレンは知らない。そこが、今はプリズンと呼ばれ、彼が聴覚を失った場所だという事も。海に沈む夕日は美しかった。その色が映っているはずの瞳も、何を見る時とも変わらない。
「あんた、駅前の公衆電話から修理屋にかけてよ。メシーって」
解体屋はいつも与えられた仕事は忘れないでいた。修理屋が工場にこもって仕事をしている時は、食事の世話は解体屋がしている。レンレンが初めて工場を訪れた時もそうだった。
「でも、わたし急いで帰らないと。危ないから暗くなったら一人で外にいるなって修理屋が言うの」
「一人じゃないじゃん?」
首を傾げられてしまっては、あんたが一番危険だとも言えず、今度は解体屋のバイクの後ろをついて走る。解体屋がレンレンに危害を加える気はない時でも、やってしまうのが彼だ。だから、配管屋は解体屋とは常に距離を保っておくように言うのだとレンレンは思った。
駅前ビル。素行よろしくなさそうな若者達が地下へ降りるのを横目で見ながら、レンレンは古いダイヤル式のずっしりと重い受話器を耳にあてて、修理屋が出るのを待った。
「あ、修理屋?わたしだけど、今日の夕食はどうするのかって解体屋が…。今? ここにいるわ。…うん。わかった」
「工場で食べるって」
「そ。じゃあ、ついて来て」
「えっ !? まだ何か用があるのっ?」
「暗くなってるじゃん。俺は修理屋にあんたを送れって言われなけりゃ家まで送る気ないしー」
「わたし、自転車だし飛ばして帰ったら大丈夫だからっ!って、もう人の話を見(聞い)ちゃいない…」
とほほの気持ちで再び解体屋の後ろをついて走る。水銀灯が途切れずに点く大きな道路を通って、橋を渡らずに手前で曲がった。土手に咲くハルジョオンの群れがだんだんと薄暗い中に消えていく。解体屋は虫屋の店近くの食堂に入り、十分ほどで持ち帰り用の白いビニール袋をさげて出てきた。バイクや自転車なら、ここから工場まではすぐだ。
工場の作業員は夕方になると機械を停めて帰る。非常灯の小さな灯りが見えるのみで、建物の中は真っ暗だ。乗物は裏門に置いて、建物の外を通って修理屋の作業場に行く。
「わたし、ここの工場の作業員の姿って見た事ないのよね。昼間、機械が動いてる時に窓から覗いても、誰もいないんだもの」
暗くて解体屋に自分の顔が見えないのはわかっていたので、これは独り言だ。
作業場の扉を開けても、作業台に修理屋はいなかった。食事前に仮眠をとる癖があるから、また長椅子で寝ているのだ。レンレンは起していいのかわからず、何かメモでもないかと机の上を捜した。あるのは、いつものようにレンレンにはさっぱりわからない機械と工具。そして、図面のようなものが書かれた紙と、長椅子に向かう前に脱いだのであろうGジャン。その横に、拳銃。
(ひゃあああああーーーっ!修理屋ってどうしてこうヘンなところで雑なのっ!? )
修理屋はレンレンが彼と出会う前から、これを所持している。護身用以外の使い道など思いつきもせず、レンレンが特には興味を持たなかったものだ。しかし今は、すぐそこに解体屋がいる。解体屋が手に取りでもしたら危ないと思い、解体屋からは見えないように自分の体をずらして、Gジャンのポケットにしまおうとした。そこで、初めて、レンレンは銃身に文字が刻まれいる事に気づいた。男名だ。修理屋の名前なのだろうかと、そちらに気をとられていると、解体屋が後ろから覆い被さるようにしてレンレンの手元を覗き込んだ。
「うひゃあっ」
「何?あー、それ?」
「修理屋が持ち物に自分の名前を彫るなんて珍しいと思って…それだけよ」
これ以上解体屋の興味が拳銃にいかないように、レンレンは拳銃を服で包んで見えないようにした。解体屋は子供と同じでそばにあっても見えなければ興味を示さないところがある。けれど、レンレンはその前の段階で間違った。
「違うよ。それ、俺の名前ー。難しくて書けないから俺は使わないんだけどね。修理屋が持ってるのはセーシキなナントカだからー」
「セーシキって…ちょっと!わたしの髪をひっぱらないで!」
解体屋の手がコードを指に巻いて遊ぶかのように、レンレンの三つ編みで遊んでいる。本当に、目の前にある物で遊ぶ男なのだ。本人はさして力を入れてないつもりなのだろうが、レンレンの体に嫌な予感を伴う緊張が走った。
「何を騒いでいる…」
中途半端な時間で起されたといった様子の修理屋が起きて来た。まだ半分閉じた目で、二人の足元から視線が上がらないでいる。 それには答えられず、顔を引き攣らせて宙を見つめたまま、レンレンは消え入れそうな声で言った。
「嘘ぉ…今…ぶちって……ぶちって…っ」
「……解体屋。レンレンを壊すなと言っただろう」
「えー?あー、抜けてる。修理屋ぁー、せっかく人間じゃないんだからさー、ジョーブに作っといてよー」
「俺が作ったわけじゃない。だが、髪が傷んだり抜けたりしたら、植毛するのは俺で、俺はその作業だけは嫌いなんだ…」
余程嫌いなのだろう。修理屋の体は眩暈でも起したかのように一瞬ふらついた。一方、解体屋はもう夕食の事しか頭にない。持ってきたビニール袋をガサガサとやりだした。
「修理屋もメシ食うー?」
「ああ…」
「ハゲが…わたしの頭にハゲが…」
オヤジの言う事は正しかった。しかし、レンレンだってちゃんと逃げたのだ。ただ、やりかたがマズかっただけなのだ。この事を知れば渋い顔をするであろう配管屋の顔を思い浮かべつつ、がっくりと机に手をつき呟くレンレンであった。
髪型を工夫すれば分らない。ハゲがあるなんて分らない。だけど、そんなものが頭にあるという事実が女の子としてはイヤなのだ。修理屋の仕事が忙しくて、植毛は二ヶ月も先になってしまった。当然、レンレンは不機嫌だ。
「こんな頭だもの。何処にも出かける気分にならないわ」
画用紙の上を滑る色鉛筆の音に、レンレンの溜息がかぶる。
「俺の部屋はいつからお前ン家になったよ。すでに俺の机周辺はお前の巣になってるしよ。俺ぁ、お前が眠らない体質で良かったと心底思うぜ。フトンまで取られりゃ俺の居場所がなくなるからな」
配管屋はもう一度枕に顔を突っ伏してから、のろのろと立ち上がった。
「…って、ありゃ何だ?」
いつのまにか戸棚に置かれていた布人形と目が合い、半分も白くなったボサボサの頭を掻く手が止まる。最初の三年で机を占領したレンレン。次は戸棚だとしても、やはりそのくらいはかかるのだろう。それ程悠長に事を運ばれては、もう好きにしろといった気になる。
「それね、文化人形っていうんだって。昔、ニホンで流行ったんだって。修理屋のお兄さんがくれたのよ。可愛いでしょ」
「あー、お前はあいつと趣味が合いそうだよなあ。修理屋はあの兄貴の土産ってのをいつも持て余していたけどよ」
そう返事をしてタバコに火をつけ、窓辺に座ると、やがてこちらに来る雨雲がビルの向こうに見えた。派手な配色の看板群は色褪せて、世界から少しずつ色が消えていく。そしてこの街は年々雨の日が多くなる。空までが灰色になる。
「ねえ。解体屋って修理屋の友達じゃないの?修理屋は解体屋を撃つ銃を持ってるんでしょ?昨日そう聞いたの。わたし、解体屋の事はよくわからないけど、修理屋が銃を持っているから言う事を聞いてるようには見えないわ」
「あー、あれな。あれはお飾りじゃねぇんだが、お前が感じた通り、修理屋は銃を持っている事であいつを支配してはいねぇよ。だが、友達ってのも違うだろ。お互いそうは思っちゃいねぇだろ。修理屋に言わせればそういう縁ってヤツだ」
「それって、確かに修理屋の言いそうな事だわ」
修理屋は基本的に面倒がりだ。縁という言葉は抹香臭さよりも、そういった修理屋の気質を感じさせた。
「あ、銃に刻まれていた解体屋の名前なんだけど、とても難しい字で読めなかったの」
「あいつにはいい名前じゃねぇから、忘れてやれ。あいつが今まで無事なのは、本人が使ってねぇからだ」
「そうなの?じゃあ、わたしの名前は?」
「お前はいい名前をつけてもらってるぜ」
「そうなの?ヨシザキは女の子の名前をつけるセンスがないって自分で言ってたわ。わたしの名前は台風の名前の中から適当に選んだんだって。考え過ぎてヘンになるよりはマシだけど、いいかげんよね」
「まあ、偶然でも 『玲玲』 はお前には強運だ。大事にしろや」
「配管屋は時々、不思議な事がわかるのね。修理屋のお兄さんよりずっと本物の占師みたい」
修理屋の兄は道具屋の店員だ。道具屋は殆ど店から動かないから、代わりに彼が現地に飛ぶ。
「あいつのは自称だ。ここじゃ男は職業が名前みてえなモンだからよ、便宜上、胡散臭い職業の中から選びやがったんだろ。実際、当たりゃしねえや」
「配管屋が占師になれば当たったんじゃないの?」
「俺のはな、もう出涸らしみてぇなモンだ」
「ハタチ過ぎればタダの人ってヤツかしら?配管屋はハタチを倍以上も過ぎてるけど」
「ほっとけ」
そう呟いた後もレンレンは続きを待っているふうだったので、冷蔵庫からビールを二本取って戻り、それを開けてから話してやった。
「名前といえば、俺の故郷は大陸でな。国境の川を越えた山岳地帯にある。前にも言ったが、ずっと北だ。目に見えない精霊たちと当たり前に日々を暮らすそんな土地では、運命的にあまり長くは生きられない子供は何となくわかるものでな。病弱であったり、また、いかに丈夫であろうとも、ある日突然、事故などで嘘のようにあっけなく死ぬ。だから、密かに神様の名前をつける。護りの意味もあるが、早くに亡くなっても神様のところに帰ったのだと、そう家族を慰めるためだな。そんな事も、子供の死亡率が高かった昔には必要だったんだよ。似たような慣習は世界各地に残っている。ニホンじゃ、七歳までは神の内といったらしいぜ」
話してはやったが、レンレンは生死の観念からして人とは違う。配管屋は自分の話がレンレンにわかってもわからなくてもそんなものだと思うだけだ。
ふわりと湿気を含んだ風が配管屋の腕に触れた。俯いていた顔を少し上げ、細い雨が音もなく迫ってくるのを見た。レンレンはずっと色鉛筆を動かしたままだったので、下手な絵がまた一枚完成間近だった。 ひょろりと茎の長く先端が卵形の植物のようなものが幾つも並んでいる。
「何を描いたんだかなあ…山菜か?お前は食い物にはあまり興味がねぇと思ったが」
「これ、水銀灯よ。どうして分らないのかしら」
「お前以外の誰にもわかりゃしねぇや」
「あら、分かるわよ。賭けてもいいわ」
「何を賭けるってんだ。お前の持ってるモンで俺が欲しいモンなんかありゃしねぇや」
「わたし、あの大きなコップが欲しいわ。あれに金魚の絵を描きたいの」
「お前、賭けって知ってるか?」
降り出したのは窓を開けていなければ気づかないくらいに静かな雨だった。
それから、夜明けまで降った。
でこぼこのアスファルトにはまだ水溜りが残るというのに、道具屋の前の黄色い道は見事な水捌けだ。レンレンは顎の下でリボン結びをするタイプの帽子を被って鋼鉄自転車を走らせる。この帽子も服も、仕立て屋に文化人形と同じデザインで作ってもらった。布地は全体に白で、襟元や袖周りに付いた紺色の波型テープが気に入っている。
「フンフンフン♪フ…あら?」
道具屋のボロ机に座っているのは二人。一番多い組み合わせは道具屋と配管屋なのだが、体格や座り方が全然違う。二人のうちの一人に解体屋の姿を確認したところで一旦ブレーキをかけたが、もう一人が修理屋である事に気づき、ペダルを高速の勢いで踏み回した。忙しいはずの男がこんな所でヒマそうに座っているのだ。レンレンだって嫌味くらい言いたくなる。
「ヒマなら私の髪を何とかしてくれないかしら」
「俺は先約の仕事で来ている。道具屋もしばらく忙しい」
修理屋は鉄扉を指した。道具屋は中にいて、レンレンにはわからないことをしているのだろう。待とうかどうしようか迷っていると、解体屋が手を伸ばしてレンレンが持っていた紙を引っ張った。破れないように手を離した咄嗟の判断力は、彼と関わったこの数年で培われたものだ。
「それ、道具屋に見せようと思って持って来たんだけど。ねえ、修理屋はわたしが何を描いたか分かる?」
「俺には分からない」
「何で?あっちの道路に立ってるヤツだろ」
「えっ!解体屋は分かるの?」
「だって、そうじゃん?」
解体屋は青を青と答えて何故そう見えるとでも言われたかのように首を傾げた後、何の躊躇いもなく紙ヒコーキを折り始めた。
「あああああっ!それ、道具屋に見せるって言ったのに全然覚えてないしっ」
しかし、本気で腹をたてる事もない。誰にも分からないという配管屋の言葉は、解体屋が分かったところで否定出来たのだから、目的はクリアしている。
レンレンは口の動きを読まれないよう解体屋の後ろに回り、修理屋に聞いてみた。
「ねえ。解体屋は手にした物で遊んでいるだけで悪気はないのよね?」
「悪気は相手に対しての悪意。悪意は他人に害を与えようとする心だ。解体屋には他人に害を与える事で快感を得る趣味はないけどね。行動の結果、害をなしたとしても何とも思わない」
「それって、他人を思いやる心がないってこと?」
「全くないわけではないよ。殆どないだろうけどね。誰しも欠けていたり足りない部分はある。生まれつきなのか、育たなかったのか、理由すらあったりなかったりだろう」
生まれつきなのか、育ったのかといえば、レンレンのこの心は育ったものだ。レンレンにはそうなる時間があった。では、人としての様々な心身に欠けていた頃、足りなかった頃に自分は何を思い、何をしていたのか。そんな事を考えていると、解体屋に強く腕を引っ張られた。
「飛ばしに行くよー」
「何処へ?わたしも行くのっ?何でっ!?」
相手は重いレンレンを担いで歩ける男なのだから、抵抗するだけ無駄というものだ。修理屋に助けを求めるが、大丈夫だという合図なのか左手を小さく上げられた。
「修理屋のばかーっ!わたしが丸ハゲになってもちゃんと植毛してもらうわよーーーっ!」
丈の短いスカートからかぼちゃパンツが見えそうになるのも気にせずに、空いている腕をきいきいと振り上げて叫ぶ。丁度、道具屋が鉄扉を開けて出て来て、その様子を笑った。
「行かせたのかイ。今夜だヨ」
「ああ。今夜だ。だから、まだいい」
解体屋に連れられて入ったのは高層ビルのひとつだった。以前は工場で働く人々が住んでいた。不用品として残された家具やらが廊下のあちこちに散乱している。荒らされたのもまた昔。今は全てが等しく薄白い埃を被っている。
ずっと階段をのぼって屋上までどのくらいかかっただろうか。ここはレンレンが修理屋と出会う前に、彼の兄と出会った場所だ。黒い帽子に黒いコート姿の男は異国の魔法使いに見えた。柵もない屋上の端に立ち、街を見下ろしていた。解体屋は紙ヒコーキを手にその場所へ向かって歩いている。
あの時と同じ強風がビルの下から吹き上げて、ゆったりとした解体屋の服を捲り上げる。彼は修理屋の兄よりも重いだろう。けれど、端になんか立てばきっと簡単に飛ばされる。レンレンは慌てて駆け寄ると、服を掴んで背中を叩いて自分のほうを向かせた。
「何?」
「わたし、前にもここに来たことがあるわ。そこに修理屋のお兄さんが立っていた。彼は自分は落ちないって言った。不思議と、わたしもそう思った。だけど……あなたはそこに立ってはダメ。あなた、本当は、危ない事しちゃダメなのよ」
落ちたら確実に死ぬという分かり易い危険な場所が、レンレンにひとつのことを理解させた。この男は死にたいわけじゃない。ただ、いなくてもいいのだ。世界に自分がいなくてもいいのだ。そばに誰がいてもいなくてもいいように、自分さえもいなくていいのだ。レンレンはこの感覚を知っていた。レンレンが人のカタチをとっていたかどうかも定かではない昔に知っていた。その記憶も、ニホンを脱出する直前にヨシザキ博士の助手がレンレンから取り上げたものだ。今はレンレンから遠く離れた場所で、小さな器の中に眠るものだ。
解体屋は不機嫌になる様子もなく、レンレンに手を伸ばした。
「じゃあ、あんたが俺の手ー繋いでてよ」
重石。女の子としてこの下はないくらいの扱いだが、それよりも躊躇われたのは、ここが地上から二百メートルという事だ。レンレンの体は低い体勢をとっていればこの程度の風には飛ばされないけれど、解体屋の力にはかなわない。いいかげんに引っ張り回されたらと思うと怖い。落ちれば自分だって修理屋でも直せないくらいに壊れる。けれど、修理屋は自分をこの男と行かせた。だから、大丈夫のはずだ。でなければ、化けて出てやるとも思った。
「あら…これって、華子と手を繋いだときに似ているわ。子供ってこんなふうに手を握るの。こういう感覚って、思い出せるのね」
解体屋には聞こえないので、レンレンは声に出して独り言を言うクセがついた。こうすれば、彼といても少しだけ落ち着くのだ。
紙ヒコーキは飛行機というよりも嵐の海に浮かぶ船のようだった。上昇と下降を繰り返し、随分と長い間視界から消えずにいた。
「ずっと部屋に閉じ込められてたからさー。窓から紙ヒコーキばっか飛ばしてた。だから俺、よく飛ぶヒコーキは作れる」
「プリズン…で?」
「違うよ。ちっせー時ー。猫が出入りする所からメシ入れられんだけどー、手だけしか見えないんだよ。んー、あれ、誰だったのかな?」
それから、解体屋は目の前から消えた紙ヒコーキにはもう興味がなくなったのか、仰向けに寝転がるとすぐに寝てしまった。女の子とデートしている時もきっとこんな調子なのだろう。我侭勝手な男だ。
「今なら分かるわ。この人はわたしが先に帰っても気にしないって。起きた時にわたしがいなかったら、一緒に来たことも忘れてるんじゃないかしら。もう帰ってしまおうかしら。解体屋はすぐにお腹が空くから、暗くなる前に自分で起きるだろうし」
ただ、その前に寝返りをうってうってうって端から落ちるなんてことも有り得る。ベッドから落ちるのとはわけが違う。解体屋の寝相なんか知らないけれど、そのわずかな可能性がウッカリ頭を過ぎってしまっては放っておけない。仕方がなくレンレンは隣に座り、抱えた膝を揺すらせた。
「すごいと思うのは、誰もこの人を変えようとしないことだわ。この人がどうあれば幸せかを決めたりしないことだわ。この街の人間はみんな少し変わっているってヨシザキが言ったのは、こういうことかもしれないわね。それって、人の社会では難しいことだもの。わたしにはこの街こそが奇跡だわ」
解体屋が寝返りをうって、柵代わりとなったレンレンにぶつかる。かすかな寝息が足首にかかった。寝顔は年相応の青年だ。解体屋は反省能力に著しく欠けるけれど、悪いことを悪いと知っている。いい人じゃないけど、ちゃんと人間だ。全く悪気がないでする相手よりよっぽど話が通じるようで安心する。そんな事を思った後は、何もせず、何も考えず、解体屋の横に座っていた。その様子は節電モードの機械のようでしかない。手の甲に落ちた雨に反応するまで、二時間ほどもそうしていた。
「起きて。小雨だけど止みそうにないわ」
遠慮がちに揺すると、解体屋はすぐに目を覚まし、両腕で反動をつけて上半身を起こした。素晴らしい寝起きの良さだ。
「雨はー、どしゃ降りが好きなんだけどなー。あんた、家に帰んの?」
「ええ」
「ふーん。じゃあ、途中まで同じ方向だねー」
外に出ると、もう薄暗かった。霧雨越しに見える灯りはどこか優しい。両端にずっと水銀灯が続く道。解体屋のバイクはレンレンの前をゆっくりと走った。分かれ道で手も振らず、言葉もなく、通りすがりのように別れた。
不思議と、後に思い出せばこの時の記憶には音がない。聞こえていたはずの去っていくバイクの音も、かすかな雨音も。
|||| 2196年 |||| ( 修理屋十八歳 )
椅子の背凭れに掛けてあった修理屋のGジャンが床に落ちた。拾って、机の上に置く。ポケットには紙幣と小銭の重みしかない。いつも持ち歩いていた銃はもうないのだ。
「どうしておサイフを使わないのかしら」
修理屋の寝顔に呟いてみる。
レンレンは紙ヒコーキを飛ばした日から数日後に、解体屋のバイクらしい一部を西南の崖の下に見た人がいるという噂を聞いた。その場所に行ってみたけれど、波にさらわれたのか、もう見つけられなかった。
『この街にいないということは、大陸に渡った可能性もある。解体屋に出国許可はおりないから、それは難しいけどね』
修理屋の何を言う時も変わらない声が、解体屋の何を見る時も変わらない目とリンクした。
もし、出国を可能にした人物がいるというのなら、それは道具屋に違いない。レンレンが聞いたところで道具屋は仕事の内容を教えないだろう。だとすれば、修理屋の口から伝えられた事がギリギリの譲歩だ。レンレンには解体屋がこの街を出て何処かへ行きたがっていたようには見えなかったけれど、自分の知らない事情などいくらでもあると思った。それとも、修理屋が言ったのはただの可能性で、本当に海で死んだのかもしれない。そして、その頃から見なくなった銃のことも聞けずにいる。どちらにしても、彼は自分達の周囲からはいなくなってしまったのだ。
『修理屋は淋しい?』 『そうだね』
三年前はこんな短い言葉で、いなくなった男の話は終わった。
この頃はよく修理屋を鋼鉄自転車の後ろに乗せて走る。十八歳になった今も、レンレンより少し背が高くなったくらいで軽いものだ。つきあいは相変わらず悪いけれど、以前ほどレンレンと出かけることを嫌がらなくなった。
「今日は行きたいところがあるの」
「毎度あんたが行きたい所に行くだろう」
修理屋はいつも荷台には後ろ向きで乗る。行き先には興味なさげなのも、いつもの事だ。
「ここはずっと水銀灯が点いているいい道なのに、交通量が少ないわね」
「何処へ行くにも遠回りになって不便だからだ」
「わたし、結構通るわよ。お気に入りスポットがあるもの。それでね、この頃ようやく気づいたの。ここって、途中からアスファルトのでこぼこも少ないし、亀裂もないし、小さな飛行機なら離着陸出来そうよね」
修理屋は返事もせず、被っている帽子を手で押さえてから、また荷台をしっかりとつかんだ。レンレンも相変わらずの飛ばし屋だ。
「あの人はプリズンに戻ったんじゃない。海で死んでもいない。ここから本当の飛行機に乗って何処かへ行ったんだわ。小型のプロペラがぷるぷると回っているあれは、たまに空を飛んでいるもの」
「俺は何も言わないし、言えない。そういう立場にいる」
「うん。だからずっと聞かなかったの」
レンレンの出した答えがあっているかは、修理屋の態度からはわからない。何事も顔には出ない男なのだ。
「飛行機か…あのビルの上から見たら、この道は本当に滑走路に見えそうだね」
「わたしもそう思った!ねえ。今度見に行かない?明るいうちに昇っておけば危なくないわよ」
「いや、悪いが階段であの高さまで寝袋と食料を担いで昇ってまで見たいとは思わないんでね」
「そう言うと思ったわ。言ってみただけってヤツかしら。さぁて、ここからは飛ばすからしっかりつかまっていてねーっ!」
「あんた、今までは飛ばしていなかったつもりだったのか…」




