もるがなのおばけ
*
最近の病院は、真っ白な病棟は減っているのだと聞いた。
だが、今現在、手島沙季が入院している病院は、右を見ても左を見ても上を見ても下を見ても真っ白だ。
個別に仕切るカーテンの色はやわらかなクリーム色。テレビの銀とキャビネットの贋物くさい木目模様。と、他にも色はあるのに全体からして白だと思ってしまうのはなぜだろう。
小さく聞こえないように溜め息を吐く。
六人も一部屋にいるのはなんというか‥‥‥息苦しい。
突然、バサリと大きな音を立てて雑誌が乱暴に閉じられる。
その音に沙季が目をやると、右隣のベッドの患者が奥を睨んでいた。空気が冷えてくるのは気のせいだろうか。
「塩津さん、イヤフォンをつけて下さい」
右隣のおばさんは、奥のおばあさんに注意をする。ピリピリとした言い方に、塩津さんと呼ばれた小柄で綺麗な白髪のおばあさんはブツブツと言いながらもイヤフォンを耳にした。
だが、彼女は三十分もしないうちにまたイヤフォンを外してしまう。
「塩津さん、いい加減にして下さい」
また右隣の人が、苛々とした口調で塩津おばあさんに注意をする。
「だって聞こえないんじゃ」
と塩津おばあさんが小さな声で呟くけれど「どうせ耳が悪いんでしょ?」と厭味ったらしく聞こえるように言って右隣の人は無視をする。
この人、さっき見舞いに来た子供への対応と他人への対応のギャップが凄じ過ぎる。
沙季は「おばあさん、そのイヤフォン壊れているんじゃない?」と声をかけて塩津おばあさんの傍に寄ろうとする。
だが、左足を骨折しているからすぐには自由に動けない。
「わたしが代わりに行ってあげるから、あなたは動かない方がいいわ」
のそのそとベッドから降りようとしたら、左隣の入院患者がひらりとベッドから降りて、塩津おばあさんのベッドに近付く。
「塩津さん、これを使ってみて下さい」
手にしているのは彼女のTVについていたイヤフォン。
塩津おばあさんは戸惑っていたが、背の小さなボブカットの少女はさっさと自分のイヤフォンと取り替えてしまう。
「どうでしょう? 聞こえます?」
少女がおばあさんの顔を覗き込むようにして微笑む。
それに対して塩津おばあさんも無邪気に笑って「よう、聞こえる」と頷いた。
やっぱりイヤフォンが壊れていたんだ。
「でも、あんまり大きな音量で聞いていると耳に悪いですから、もう少し小さくした方がいいですよ」
音漏れがするイヤフォンをやんわり注意するため、少女は自分の耳を指差して、微苦笑を浮かべる。
「ありがとうね」
塩津さんは素直にリモコンで音量を小さくした。
「嬢ちゃん、アメちゃん食べるかい?」
嬢ちゃんという言葉にピクリと少女が反応する。だが「ありがとうございます」と微笑んで黒飴をもらっていた。
「そっちのノッポのお姉ちゃんにもあげとくれ」
‥‥‥ノッポ。
小さい頃から言われ慣れた言葉だけれど、久し振りに聞くとちょっと胸が痛む。口元から乾いた笑いが洩れてしまう。
「はい、手島さん」
あれ? 名前?
と、思っていると少女が枕元のネームプレートを手のひらで指し示す。この子、意外と見た目よりも年齢が上かもしれない。
見た目はどう見ても高校生、もしくは中学生。
一五〇センチくらい、もしくはないくらいの身長。淡い薄紅色のパジャマがさらに幼く見せている。
濡らした黒い絹糸を思わせる髪。それを肩より上で綺麗に切り揃えている。真っ白な肌。紅をさしたようなぽっちゃりとした唇。
「ありがとう‥‥‥えーと?」
ネームプレートを見ようとするがカレンダーなどが邪魔をして見えない。
「わたしは楓。柘植楓。よろしくお願いします」
ふっと微笑んだ姿はどこか大人びていた。
「あたしは仕事で足を骨折しちゃったんだけど、柘植さんはどうしたの?」
ギプスでぐるぐる巻きの左足を指差して苦笑する。
「わたし? わたしはベッドが足らなくて外科にお邪魔しているの。それより仕事って怪我するような危ない仕事をしていらっしゃるの?」
確信。
この人は病気の話を聞かれたくない。そして、けっこう年は上だ。さらに、たぶん入院期間も長いのだろう。
「えーーと、撮影補助の仕事を‥‥‥」
言葉を濁すことしかできない。
自分の目標と夢は明確だけれど、現段階でそれを語ることはできない。だって「カメラマンの卵です」なんて、今の現状を認識するとそんなことはこれっぽっちも言えない。
ラフ版を持って走り回るだけ。
そんな毎日を送っているのに、カメラマン志望だの、カメラマンの卵だの、とても口にできない。
「撮影補助?」
「え‥‥‥ええ。光の加減を整えたり、撮影に必要な物を揃えたり」
楓は振り返るとベッドサイドからメモ帳とシャープを取り出した。
「その話、もっと聞かせて!」
瞳が爛々と輝いている。
さらに確信。
この人、絶対に巨大な猫を身に纏っている‥‥‥
**
あたしが病院にいたのは一週間。
けれど、この足のせいで仕事は三ケ月の休職扱いになってしまった。ちょっとその対応は酷過ぎるだろうと思ったが、足が使えないのでは役に立たない現場なのだ。あたしが動けない間、臨時のバイトを雇うためにも休んで欲しいと所長の奥さんに懇願されては頷くことしかできない。
――― でも、自分だって、骨折をしたくてしたわけじゃない。
所長や奥さんが無理矢理バンに荷物を押し込んで、それが崩れてきて負った怪我なのに‥‥‥
気が滅入る。
こういう時はカメラを持って出かけたい。
あたしが、気が滅入るとカメラを持って放浪するのは癖のようなものだ。気がつくとカメラを手している。
最初は祖父がくれた古い一眼レフ。
祖父の暗室を借りて、基礎の一通りのことを習った。
その次は母が安物買いをして失敗した、外国製のすぐに電池が切れるデジタルカメラ。
デジタルカメラ特有の、どうしても撮りたい瞬間をおさめられないのが疳に触ったが、フィルム代が極端に減るのはありがたかった。
その後、父や母がデジカメや携帯を買い替える度にその恩恵に浴してきた。
本当なら、もっと良いカメラが欲しい。
一眼レフのデジカメ、レンズは別でつけて、シチェーションに合わせて買い揃えて‥‥‥プリンタも性能が良いのが欲しい。
だが、現状ではそれは望めない。
はあ~、と溜め息を吐く。
すると玄関の呼び鈴が間延びした音をたてた。
のそのそと出迎えると、そこには明治時代の夢路の画集から飛び出してきたような女性が立っている。
「楓、いらっしゃい」
着物の女性というものはいいものだ。彼女には悪いけど、被写体として時間を止めてフィルムに焼きつけたくなる。今はフィルムじゃないからデータか。
「沙季さん、お邪魔します。足の具合はいかがですか?」
小首を傾げる仕草は可愛らしいけれど、さすがにもう彼女のことを可愛いだけだとは思えない。こいつは、話せば話す程、漢前なのだから。
「さすがに痒い。はやくギブスを外して風呂でゴシゴシ垢を落としたいよ」
笑いながら言うと楓はいやそうに眉根を寄せた。
「それはともかく、入って。汚い部屋で悪いけど」
部屋に入ると、楓は用意しておいたパソコンに目を留めた。
「フォルダは開いてあるから、どれでも好きなのから見てていいよ」
「いいんですか?」
「ああ。その間にお茶でも淹れるから。楓は珈琲と紅茶、後はビールくらいかな、どれがいい? 珈琲はインスタント、紅茶はティーバッグだから期待されても困るけど」
「じゃあ、紅茶をお願いします。カップは私が運びますから、淹れ終ったら呼んで下さいね」
「了解」
ぺた。カコ。ぺた。カコ。
裸足と松葉杖の音が交互に響く。
ホーローの片手鍋で水を沸かす。
なんというか、奇妙な交流に沙季は頬を緩ませる。
いつのまにか名前で呼ぶようになり、こんなふうに家にまで招いているのが不思議だ。
楓はビジネスだという。
その、ビジネスというのがまた新鮮で面白い。
ぷつぷつと小さな泡が浮かんできた。
沙季はティーバッグをマグカップに放り込んで、沸いた湯を注ぎ込む。
あまり一人暮らしのこのアパートで過ごすことはない。日々、仕事と雑務に追われていて、この部屋は寝に帰るだけになっていた。
だから、室内にも生活感があまり漂っていない。
「沙季さん、お手伝いに参りました」
ティーバッグを取り出していると楓が傍に寄ってきた。
「あ、はい。あと、楓はおせんべい好き?」
「はい。好きですよ」
ふんわりと微笑むのを見て、冷蔵庫の隣のキャビネットから銀色の缶を取り出した。中からは大量のおせんべい。
「実家の母が送ってきたんだ。食べ切れないから半分持っていかない?」
「よろしいのですか? このおせんべい、ネットでも人気のあるお店なんですよ」
両の手のひらを口の前で合わせて楓が喜ぶ。
「へえ、そうなんだ」
あたしは楓と違ってネットはほとんどしない。フリーメールを確認して、時折本を買うくらい。
反対に楓はネットにどっぷりだ。
病院で知り合って、だいぶ経ってからパソコン関係の仕事を家でしていると聞いた。
一〇〇円ショップで買った安物のトレーに載せて、楓がリビングに戻る。リビングといっても藤の衝立でベッドと仕切っているだけだけど。
紅茶を少し飲んで、おせんべいを一枚食べて、他愛もない会話を少し交わして、そして楓はパソコンに集中をしてしまった。
自慢じゃないが枚数だけならそうとうある。
気に入っているものからまあ普通かな‥‥‥というものまで。ダメだと思ったデータは遠慮なくごみ箱にポイだ。
パソコンに集中している楓を見て、あたしは彼女をどこで撮れば一番彼女らしさを出せるか考えてみる。
今日、身に纏っているのは緑地に黒の矢羽根の着物。半襟はベージュの縮緬、帯は黒地に赤と白の芍薬が大きく描かれ、薄紫色のレースのリボンが舞っている。
青い、空が大きく見える場所で、彼女をファインダーの右に捕らえて、流れる雲を描きたい。
今日の着物だったら森よりも空。
林よりも空。
海よりも空。
この前の紅い着物だったら断然、緑萌ゆる小川の傍だけど。
撮りたいな。
写真を撮りたい。
こんな家の中で燻っていないで、思いっきり写真を撮りたい。
ぼんやりと考えていると「沙季さん!」と呼ばれた。
「あ、ごめん。考え事してた」
「もう、先程から何回もお呼びしたんですよ」
ぷうと膨れて楓が言う。
悪い悪い。と謝れば、楓はじっと瞳を見据えてくる。楓のこういうところはちょっと苦手だ。
彼女の視線は真っ直ぐで、自分の心の奥まで入ってくるようで‥‥‥なんというかくすぐったい。
「で、こちらにあるデータなんですが、もし沙季さんがよろしければ、わたしが有料でお借りしたいのですが‥‥‥」
「借りる?」
「はい。以前から、わたしは自分のホームページの背景写真を探していたんです。自分でサイズや濃度や縁の加工をして、わたしのサイトに合うようにできる写真を。沙季さんの撮られた写真は植物が多くて、私の欲しいものと似ています」
正直、あんまりよくわからない。
「それで、考えたのですが、いっそのことわたしが作成しますので沙季さん専用の画像サイトを作ろうと思うんです。背景用に加工したものを自由にダウンロードできるようにして、もちろんアフィリエイトを組み込んで‥‥‥わたしが使いたいのが主なので、リングなどには登録はしないつもりなんですが」
ますますわからない。
瞳を丸めていると目の前の楓がぷっと吹き出した。
「沙季さん、まるっきりわからないって顔をしていらっしゃいます」
くすくすと袂で口元を押さえながら楓が笑う。
それを見て沙季はガシガシと頭を掻いた。
「しょうがないだろう。もう、塩津のおばあちゃんにもわかるように今の言葉を要約をして」
楓は、あたしだけじゃなくて塩津のおばあちゃんともいつの間にか仲良くなっていた。今では茶飲み友達なのだという。
「じゃあ‥‥‥沙季さんの撮られた写真を私が加工して、誰でも使えるようにしたいんです。主に使うのはわたしなので、宣伝などは派手にはしませんが」
「誰でも使える?」
誰でも見れるならわかるけど‥‥‥
「市販の画像や、たくさんある背景サイトの写真はどうにも大きさや加工方法の使い勝手が悪くて‥‥‥ずっと、自分の自由に加工できる写真を探していたんです」
「加工って?」
さっきから楓の口から出てくる『加工』という言葉がどうにも気になって問い掛ける。
「色をセピアにしたり、画像のサイズを変えたり、縁をぼかしたり‥‥‥そうですね、一応市販の素材集を持ってきたので見て下さい」
楓が手にしていた紙袋から薄い一冊の本を取り出した。開くと、小さな絵がいっぱいある。
「写真の項目を見て下さい」
楓の小さな手があたしの手に触れる。
細く、白い、力仕事をしたことのない手。
楓自身が、小さな頃から体が弱くて力仕事をしたことがないと言っていたので、それは本当なのだろう。
促されて前の方を開くと‥‥‥空、海、街、小物。いろいろな写真がページいっぱいに並んでいる。
「こういうはっきりと四角になっている画像はサイトで浮いちゃうんです。できたら季節ごとに写真は張り替えたいので、あまりサイズの差がなく、季節感が出るもの。可愛いものも、あまりリアリティがあるのはわたしは好きではないので、それを避けるために全体的に薄めてあって、こんなふうに縁がぼかしてあるものがいいですね。だからといって四角で縁がぼかしてあるものばかりじゃつまらないですし‥‥‥でも、写真の加工はだいたいどこの画像サイトさんも禁止をしていて‥‥‥わたしの場合は一応商用になりますし、許可などが面倒ですし、こういう私的に開設している画像サイトさんは突然閉鎖されたり移転されることもあって‥‥‥」
楓の言葉は正直に言ってわからないことが多い。
でも、こういう小物って撮ったことがないな‥‥‥なんだかあの決められた四角に切り取らなければと思っていたけれど、こういうのもひとつの写真なんだと感慨深く思う。
「ねえ、これって‥‥‥わたしでも撮れるかな」
可愛い小物が並んだページを指差して尋ねる。
「大丈夫だと思いますよ。こういう小物を撮るのにいい道具なども売ってますし、なんでしたらお貸ししましょうか?」
楓の言葉に顔を上げる。
「沙季さん、休職中でお暇なんでしょう? 支払いはだいぶ遅くなりますがよろしければわたしのところでバイトでもなさいます?」
楓の瞳がギラリと煌めくのは気のせいではないだろう。
***
楓は実家で家族と一緒に暮らしている。
翌日、彼女に連れられて家に着くと、母親が穏やかに迎え入れてくれた。着物は着ていない。
「ちょっと待っていて下さいね」
紺に赤の格子柄の着物、白地に雪輪模様が薄紅色と薄紫色で彩られている帯。
そんな姿の彼女はお茶の準備をすると隣の部屋に消えてしまった。
仕方なく用意されたパウンドケーキと、紅茶を口にする。
思わず口を押さえてしまった。
めちゃめちゃ美味しい!
なんだろう、このパウンドケーキに入っているの‥‥‥レーズンでもないし‥‥‥干し果実だというのはわかるけれど‥‥‥むぐむぐと咀嚼する。
たぶん、無花果だ。これ、絶対に手作り。
凄い。
「お待たせしました」
戻ってきた楓は紺の作務衣を身につけていた。うお。やっぱり漢らしい。
「これのが動きやすいんです。やっぱり明治になってあっという間に着物が衰退した理由がわかります。自転車にも自動車にも乗りにくいし‥‥‥」
なんてブツブツ言っている。
きっと、塩津のおばあちゃんともこういう話をしているんだろう。
「ちょっ、楓。このケーキ、ものすっごく美味しい!」
ついぱたぱたと動きながらケーキを指差すと楓が心底嬉しそうに笑った。
「本当ですか? ありがとうございます」
この笑顔は‥‥‥これは楓の手作りなんだろうか。
「すごいなぁ、これって無花果?」
「よくわかりましたね。このあたりの名産品、なんですよ」
楓の住んでいるのはあたしが住んでいる北苑市の隣だ。意外と知らないことは多い。
ぱくぱくと食べているとそんな沙季を見て楓は微笑んでいる。なんというか食べ辛い。
「あ、お仕事の話ですよね」
楓は机の上から紙を持ってくると沙季に差し出した。
そこには英語の羅列と多少の日本語。
「現在、わたしは一〇個のサイトとブログを平行して管理しています。その紙に各サイトの名前とジャンル、イメージカラー、対象年齢を書き記しておきました」
見てみると、家計簿サイト、着物ブログ、焼きっぱなしのお菓子のブログ、初心者向けアフィリエイトのサイト、材料別の料理サイト、新米主婦向けの節約サイト、あみぐるみの販売サイトなどなど‥‥‥ブログってなんだ?
よくわからん。
「この焼き菓子のサイトはサイトのイメージもお姫様やティアラ、ビーズのアクセサリーなどの可愛いものをイメージしています」
イメージカラーはピンク。
よくわからんが、なんというか‥‥‥ひとつひとつにイメージカラーやモチーフがあるのだ。
あたしが写真の中に物語を折り込むかのように‥‥‥
「モチーフになりそうなものや撮ったら面白そうだと思うものを、とりあえず家中からかき集めてみました。あと、あの青い小さな傘みたいなのが小物の背景を白に撮るための道具です」
折り畳みテーブルに、小物が山のように乗っていた。
そしてその傍に開いた傘を置いたような形をした、ちっちゃなテントのような道具。白い布で覆われた内側。中にライトが仕込んであってこれなら背景が白に撮れるだろう。
こういうのがあるんだ。知らなかった。
「あと、この中に入らないような少し大きめのものや、もし倒すと怖いものなどは白い布を引いたりB紙を広げて、テーブルライトをずらして撮ったりします」
なんというかいつも自然のものばかり撮ることが多いから、こういう写真の撮り方は新鮮だ。
この小さな傘がスタジオで、小物がモデルということなのだろう。
へえ、と感心しながら続きを待っていると楓が口籠る。
「楓? なんかリクエストとか他にないの?」
あたしが今から撮る写真は楓のサイトとやらで使われる。だったら、楓の、クライアントのリクエストを聞くのは当然のことだ。そう思って尋ねると、楓は視線をつと逸らして口元を覆う。
「楓?」
顔を覗き込むと、楓は頬を赤くしている。なんだろう?
「‥‥‥あ、あの、今から恥ずかしいこと言いますけど、笑わないで下さいね?」
「え‥‥‥う、うん」
あたしが頷くと楓は上目使いに見上げてくる。
なんだか、こっちが照れてくる。
「昨日の、沙季さんの写真を見て‥‥‥沙季さんの写真に、お、お、音楽を感じたんですっ。だから、道具とか小物とかは用意しましたけど、後は沙季さんの自由に撮ってもらいたいと思って‥‥‥最初はわたしの好きなように置いて、使いたいサイズで撮ってもらおうかとも思ったんですけど、そういう制約をしていい写真にはどんどん思えなくなって‥‥‥」
楓は言うと、身を小さくしてしまう。
あたしの写真に音楽を感じるなんて‥‥‥
はっきり言えば気障な言葉だ。
大げさだと思う。
恥ずかしいとも思う。
でも、なんでだろう‥‥‥
「沙季さん?」
気がつくと楓が心配そうに覗き込んできた。
頬に手やると、自分が泣いているのがわかる。
「‥‥‥ご」
言いかけた言葉を飲み込む。
ああ、この返事は『ごめん』じゃない。
「ううん‥‥‥楓、ありがとう。じゃあ、このテーブルの子達、借りるね」
あたしが泣きながら笑うと、楓は瞳を一度瞬かせてやさしく夜にほころぶ花のように笑う。
「はい。わたしは隣の部屋にいますので、自由に撮って下さい」
あんな小さくて、可愛くて、艶があるのに‥‥‥去っていく背中を見て沙季は笑う。
なんて、漢前なんだろう。
その背中に「楓」と呼びかける。
「なんですか?」
振り向く顔。
「あたし、プロのカメラマンになるのが夢なんだ。ううん、夢じゃ終わらせない、必ずプロのカメラマンになる」
あたしは、産まれて初めて自分の夢を自分以外の人に語った。
夢なんて蜃気楼みたいなものだ。空中楼閣、竜王遊び、モルガナのお化け。
曖昧で、不安定で、誰かに語るものじゃない。
無言で実行して、成功して、叶ったら誰かに言うものだと思っていた。
だけど、楓には聞いて欲しかった。
応援して欲しかった。
頑張れと、言って欲しかった。
支えに、なって欲しかった。
それを聞いて楓は慈愛に満ちた表情で沙季を見る。
「必ずって重い言葉ですよ」
「わかってる」
即答すると、目の前の少女のような女は快活な笑みを浮かべた。
「じゃあ、わたしは沙季さんの騎士になります」
「騎士?」
思い掛けない言葉に絶句する。
「はい! だって、姫君を守るのは騎士の勤めでしょう?」
言っていることの意味がわからない。
困惑しているとふふふ~。と笑いながら楓は隣の部屋に行ってしまう。ちょっと、待て。
長い間、呼吸を繰り返す。
痛む眉間を押さえて息を吐き出す。
そして、持ってきた鞄の中からカメラを撮り出した。どれが合うのかわからなかったので手持ちのカメラを四台とカメラ機能しか使わない電話として役に立たない携帯電話を二台取り出した。
一番お気に入りのカメラのファインダーを覗き込む。
「沙季さん、母が梨を食べますかって‥‥‥いかがですか?」
ふわりと覗き込んできた楓の姿を捕らえて、シャッターを、切った。
おしまい




