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診療終了後の灯りの下で

作者: つきもり
掲載日:2026/03/23

消毒液の香り、コンプレッサーの重い音。歯科ユニットが並ぶ診療室でいつもの朝礼が始まる。

わたしは院長の隣に立つ人物を見て目を見開いた。

秋山直人。まさか幼馴染にここで再会するとは思ってもみなかった。


「今日から診療に加わってもらいます、秋山先生です。秋山先生、挨拶お願いします。」


「秋山です、患者様のために精一杯頑張りますので、よろしくお願いします。」


そう言ったあいつの横顔は心なしか不安そうに見えた。



「まさかここでくされ縁が復活するとはなぁ。咲良元気だった?」

「秋山先生、診療中です。名前で呼ぶのはやめてください。」


そう言うと直人は口を尖らせた。

ムッとした時の癖、相変わらずだな。


「とにかくここでは吉田さん、先生は秋山先生。わたしたちが幼馴染なのは公言しないでおいてください。診療に影響があるといけないので。」


そう言って手にしていたコーヒーを一口飲む。

顔を少しだけ直人に寄せた。


「とはいえ久しぶり。これからよろしく。お互い患者様のために頑張りましょう。」


そう言うと直人は満足そうに頷いた。




直人が赴任して数日が経った。

カルテを見ながら直人の方を見る。

ぎこちない手つきで院長の補助に入っている。最初は誰でもそうなる、そう思ってカルテに視線を戻した。


診療終了後、まだ灯りのついてる診療室に入る。

直人は練習用の模型をユニットにつけて練習をしていた。真剣な目に胸の中がやわらかくなる。


「秋山先生、お疲れ様です。練習ですか?」


一息ついたタイミングで話しかける。

ゴーグルをつけた顔がこちらを向く。


「あ、咲良。」

「吉田さん。」

「‥吉田さん。お疲れ様。」

「精が出ますね。」

「思ってたよりもさ、自分が不器用なことに気づいてさ。人一倍頑張らないとこれは追いつけないぞって。」

「応援してます、頑張ってくださいね。」

「ありがとう。」

「それでは失礼します。」

「気をつけて帰れよ、お疲れ様。」


最後くだけたな、と思ったけれど何も言わずに前を向く。

その日の帰り道は足取りが軽かった。



数ヶ月後、直人は一人で治療に入ることが増えた。

難しい症例にも挑戦するようになり、自信も少しずつついているようだった。



「今度自費のカウンセリングするんだ。」


診療終了後のスタッフルームで、直人は明るい声でそう言った。


「最近頑張ってるもんね。よかったじゃん。」

「院長にはもう言ってあるけど、これ言ったの咲良が初めて。最初に報告したくて。」

「そうなの?なんで?」

「ほら、咲良さりげなく俺のフォローしてくれてただろ?次の日の治療のカルテ用意してくれたりさ。あれ、すごい助かってた。ありがとな。」


ーー気づいてたんだ。


「ドクターの補助をするのも衛生士の役目だし。」


そう言いながらマスクの下で顔を緩ませた。



それから数日後のスタッフルーム。

直人は悔しそうな顔で椅子に座っていた。


無断キャンセル。

よくある話だけど、直人は相当こたえてるようだった。


「初めての自費だったんだけどなぁ、俺頑張ったよな?」

「‥。」


頑張っていたのは認めるけれどこれはよくある話。これで落ち込んでいてはこの先続かない。


でも。


「頑張ってたと思うよ。負けんな。」


そう言って缶コーヒーを置く。


「‥サンキュ、もうちょいあの患者の治療計画練り直すわ。」


そう言って机に向かったあいつを背にわたしは帰り支度を始めた。

なぜか心の隅に小石が転がった気がした。




無断キャンセルの一件後、直人の患者への説明が静かになった。以前はこちらに聞こえるくらい大きな声で喋っていたのに。


自費の件、相当引きずってるな。一回声かけるか。



終業後、缶コーヒーを片手にスタッフルームにいる直人の元へ向かった。


直人は一冊のカルテに視線を向けていた。

それを見る横顔は焦燥しているのが見て取れた。


「お疲れ様、どうしたの。」

「この患者、抜歯になかなか同意してくれなくて。これを取らなきゃ治療が進まない。」 

「あー、佐藤さんか‥。」


佐藤さん。重度の歯周病を患っているけれど歯を失いたくないからと定期検診に欠かさずに来院する患者さん。私の担当だ。


「歯を抜くのは怖いの、それに入れ歯になっちゃったらみっともないじゃない。なにより主人に知られたら恥ずかしいわ。だからケア、お願いしますね。」


そう言いながらわたしを試すような目で見ていたのを思い出す。


「咲良、お前この患者の担当だったよな?説得、お願いできないか?」


手に持った缶コーヒーがぬるくなってきたのを感じる。


「治療を進めるためのカウンセリングはドクターの役目だと思うけれど。」

「俺の話聞こうともしないんだよ。お前の話なら聞くと思うからさ、な、頼むよ。」

「‥わかった。でもカウンセリングには同席して。」

「サンキュー、助かる。」



後日佐藤さんにアポイントの連絡を入れた。

訝しげな声が耳に残っている。



「だから、歯を抜きたくないってずっと言っていたでしょ?!」

「佐藤さん、落ち着いて聞いてください。前々からお伝えしていたとおり、ここの歯は歯周病がかなり進行していて残すのはとても難しかったんです。このままだと他の歯への影響も考えられます。」

「そんなの聞いてない!だからそうならないようにあなたにお願いしていたのに!!なんなのよ。院長を出しなさい、こんなの納得できないわ!!」


指先がグローブの中で冷たくなった。

頭はクリアだけど目元が熱い。

直人は黙ったままだった。マスクに隠れて感情を読み取ることはできない。

でもカルテを握る手が震えていた。


ーーなんのためのドクターよ‥


心の小石が大きくなる。


「申し訳ありません、院長は現在他の患者様の治療中でして‥。」

「もういいわ!あなたに頼むんじゃなった。他の医院へ行きます。エプロン外してくださる?」


その後の診療をどうやってこなしたか私は覚えていなかった。



「佐藤さんの件、聞いたよ。なんで僕を呼ばなかったの。」

「院長は他の患者様の治療中でした。あと秋山先生にも同席してもらっていたので。」


院長は深くため息をついた。

時計の秒針の音がやけに大きく聞こえた。


「このことはヒヤリハットとして報告しといて。」

「え‥。」

「だってそうでしょ、今回のことは吉田さんの独断。そのせいで患者が1人減ったんだから。」

「‥わかりました。」

「患者一人から取れる点数もう一度確認しといて。まったくとんだ損失だよ。」


手のひらをぎゅっと握る。

そのまま診療室を後にした。



「咲良、悪かった。でも助かった。俺あの患者苦手でさ。正直他の医院行ってくれて助かったわ。」


直人が階段の下から声をかけてくる、少しホッとした顔で。


ーーなんでそんな顔ができるの?


イヤホンをつける。

聞き慣れた音楽が心を平らにしてくれる。

わたしだって何も感じないわけないじゃない。波立つ日だってある。

今日は波が強い日だった。


「ちょっともう無理かもしれない。ごめんだけど。あんたの声聞くの辛い」


そう言って直人に背を向ける。


何か言ってる声が聞こえた。

多分「おい」とか「それどういう意味?」とかだと思うけれど、それは音楽にかき消されていった。


ーードクターならもっと患者と向き合うべきでしょ‥


その日は家に着くまでに時間がかかった。




ーー佐藤さんの一件の後、咲良は明らかに俺を避けるようになった。

LINEを送っても既読にならない。

診療中に視線を感じることが減った。

そしてなによりも。


「秋山先生、次の患者様いらしています。なるべく早めに切り上げてください。」


助手が耳打ちしてくる。

前までは時間通りに回せていた治療が滞ることが増えた。


「あれ、杉山さんのカルテってどこにありましたっけ?」

「秋山先生、カルテの管理はご自身でしてください。」

「‥すみません。」


俺はカルテの管理もできないのか、自分に苛立ちを感じる。


ーー何がドクターだよ‥


確かな焦りは大きくなっていく。

それを打ち消すように治療計画をノートに書き殴ることが増えた。

でもどんなに書いても不安は消えなかった。


「秋山先生、ちょっといい?」

「はい、院長どうしましたか?」

「佐藤さんのことだけど、一度秋山先生から連絡とってくれる?」

「どういうことですか?」


院長の目は俺を見ていない。代わりにペンを回す速度が速くなる。


「理事長からね、謝罪をしろって連絡が来てね。同じことが何度も起こる可能性があるぞって。そういうのは担当ドクターからしてもらうのが一番だから。」

「それは‥。」


担当衛生士の吉田さんが、と言いかけて口をつぐむ。

あの日の咲良の声がよみがえる。



ちょっともう無理かもしれない。



あぁ今更わかった。

咲良が背負ってるものは俺が思うよりずっと大きかったんだ。

院長の横顔をしっかりと見る。


「わかりました、佐藤さんへの連絡、もう今してもいいでしょうか。」

「そうだね、こういうのは早い方が後々のトラブルに繋がりにくくなるからね。よろしく頼むよ。」



受話器をつかむ手が震える。だんだん指先が冷えてくる。

呼び出し音が鳴る、俺の呼吸の音がやけに大きく響いた。


「はい、佐藤です。」

「夜分にすみません、わたくし青石歯科医院の秋山と申します。いまお時間をいただくことは可能でしょうか。」

「‥急になんですか。私はもう他の医院に通ってます。あなたと話すことはありません。何よりあの時あなた何も喋らなかったじゃない今更なんなの?」


心臓に鋭い刃を突きつけられたような気持ちになる。

あの時の咲良も同じ気持ちだったんだろうか。


「その件についてですが、大変申し訳ありませんでした。完全に僕の説明が不足していました。もう一度来院していただけませんか?もう一度治療の説明を、今度は僕の方からさせてください。」

「‥。」


電話口でため息が聞こえた。言葉がくだけたのは自分でもわかった。でもこれが今の自分の精一杯の言葉だった。


「わかりました。明後日の15時半でしたらそちらに行けます。それ以外の日にちは伺えません。」


冷たかった指先に熱が戻った。


「大丈夫です!!ありがとうございます、お待ちしております!!」

「あんまり大きな声を出さないでくださる?それじゃあその日に伺いますので。失礼しますね。」


電話は一方的に切れた。

しばらく受話器から手を離せないでいた。






「明日、佐藤さん来院する。」


診療室に入ってすぐに直人に呼び止められた。

あの日のことを思い出してスクラブの裾を握る。


「急な話ね、なんでそうなったの。」


できるだけ平静を装う。動揺を直人に知られたくなかった。


「俺が直接佐藤さんにお願いしたんだ。もう一度説明からさせてほしいって。治療計画も練り直した。」


そう言う直人の目の下にはわずかにくまが浮かんでいた。徹夜でやっていたんだろうか。


「咲良、俺お前に頼り切ってた。‥ごめん。」  


直人の目はまっすぐわたしの方を見ていた。

喉がごくりと鳴る。


「明日の佐藤さんのカウンセリング、同席してほしい。俺、もう逃げないから。」

「‥わかった。」


正直まだ不安の方が大きい。でもどこかで期待している自分もいた。

直人が前を向き始めてる。それを見守りたいそう思った。



次の日、佐藤さんは時間通りに来院された。


「それで、歯を抜いた後どうするの?わたし入れ歯は嫌って言ったわよね?」

「それなんですが、こちらの模型も見ていただけますか?」


そう言って直人が模型を持ち上げる。

‥ノンクラスプデンチャーだ。


「これはいわゆる義歯、入れ歯になります。」

「だから入れ歯は嫌だって‥。」

「ただし、両側のバネがないものになります。できるだけ自然に抜いた後の部分を補ってくれます。」

「‥。」

「本当はインプラントが一番自然かと思って検討をしてみたんですが、残念ながら佐藤さんの顎の骨は歯周病の進行でかなり減ってしまっていて。この状態にインプラントを打っても、すぐダメになってしまう可能性が高いんです。緩んだ土地に家を建てるのと同じになってしまうんです。」

「‥。」

「いかがでしょうか、‥一度僕に佐藤さんのお口を預けていただけないでしょうか。」

「‥わかりました。それで、それは保険はきくのかしら。」


直人の眉が動く。

ノンクラスプデンチャーは自費になる。

それでも直人の視線は佐藤さんから離れなかった。


「保険はきかないんです。申し訳ありません。」

「‥いいわ、見積もりを出してくださる?秋山先生、あなたにお願いするわ。よろしくお願いしますね。」

「承知いたしました。全力を尽くします。」


直人の目に光が差し込んだ気がした。



診療終了後スタッフルームで缶コーヒーを飲む。


「咲良、今日ありがとな。カウンセリング同席してくれて。」

「今回わたしは何もやってないよ。今日は直人が主導してた。とりあえず最初の型取りはわたしで予約しとくから。」

「いや、いい。最初から俺がやる。抜歯後の歯肉の状態も確認したいし。」


そう言う直人の目はわたしを見ていない。

視線は今日撮った口腔内写真に向けられている。


「結構歯肉退縮すると思うんだよな。咲良、どう思う?」

「わたしもそう思う。リベースで対応して最終的に新製するのが一番綺麗におさまると思う。」

「確かにそうだな。長丁場になるな、これ。佐藤さん繊細だからな。俺もできるだけフォローに入るけど咲良にもメンタルサポート入ってもらいたい。‥頼んでもいいか?」


真剣な直人の表情。

今までみたいな甘えの言葉とは違うように聞こえた。


「わかった。できる限りのことはする、任せて。」

「サンキュ、あのさ昨日も言ったけど俺、咲良に‥。」

「大丈夫、その話はもう十分伝わった。‥また明日からお互い患者様のために頑張りましょう。」

「‥そうだな。」


いつかの台詞を言うと直人は笑ってコーヒーを飲んだのだった。



佐藤さんの治療は順風満帆とはいかなかった。

特に抜歯の日はメンタルの揺れを強く感じた。

治療後は一筋の涙を流していた。


「本当に抜いちゃったのね。抜いたところ隙間ができて落ち着かないわ。主人が見たらなんて言われるか‥。」

「大変でしたよね、‥でも大丈夫です。秋山先生がきれいに治しますから。」

「そうしてもらわないと困るわ。よろしくお願いしますね。」


直人はできるだけ柔らかい声で佐藤さんに話しかけているように感じた。

治療後、今後の予定を何度でも説明して納得させてから帰ってもらうようにしていた。


そうして2ヶ月後、ついにノンクラスプデンチャーのセット日がきた。


「思っていた以上に綺麗に入ったわね。違和感も少なくて‥これなら使えそうだわ。」

「ありがとうございます。取り外しの仕方は大丈夫そうですか?」

「えぇ、先生が丁寧に教えてくださったから。最初は頼りなくて不安でしたけど、あなたに任せてよかったわ。ありがとうございます、秋山先生。」


会話を隣で聞きながらようやく肩の力が抜けた。



その日の診療終了後の灯りの下で直人に話しかける。


「佐藤さん最後落ち着いてたね。よかった。」

「そうだな、でも他の歯もがたがきてるのは変わらないからこのあとはメンテ頼んだ。」

「わかった。‥直人お疲れ様、頑張ったじゃん。」


直人の表情が明るくなる。

これだけ感情を表に出す直人は久しぶりだ。


「それ咲良に言われるとすげぇ嬉しいな。‥どうしようめちゃくちゃ嬉しい。」


直人がまっすぐこちらを見る。

見つめられて妙に気恥ずかしい気持ちになる。


「急にどうしたの。」

「だってさ、咲良はいつも落ち着いてて、常に患者のこと考えてて。尊敬してたんだ。あと、ちょっとだけ嫉妬もしてた。俺にはまだないものだから。」

「そんなこと‥。」


思わず視線を床にむけてしまう。

そんなこと思ってたんだ。知らなかった。


「これからも俺頑張るからさ。咲良に見ててほしい。‥俺いつかは開業しようと思ってる。その時はついてきてくれないか?」


真剣な直人の目。

わたしも見つめ返す。


「なにそれ、引き抜き?」

「いや、その‥。」

「‥休日の振替出勤なしにしてくれたら考える。」


驚きと嬉しさが混じって思わず軽い言葉で返してしまう。でも半分は本音だ。

思いもよらない返事だったのだろう。直人は目を丸くしたあと笑い出した。


「なんだよ、それ。」

「衛生士にとっては切実な願いなんだけど。」

「考えとく。」

「でも直人も、わたしも、まだまだ勉強と経験が必要だから。」

「そうだな、だからこれからもよろしく。吉田さん?」

「わかりました、こちらこそよろしくお願いします。秋山先生。」


消毒液の香り、コンプレッサーはもう落とされて静まり返った空気が漂う。

わたしたちの会話に合わせるように、診療終了後の灯りはいつもより少しだけ優しい気がした。

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