第三十八話 蚊帳の内
秋の風が吹くその日、渋谷の大型書店にて、山田無量のサイン会が行われていた。設営準備と来場者対応に三屋書店の跡取り息子の俺・三屋朔も臨場していた。
ご存じの通り、俺は無量先生の大ファンで、そのことを知っている書店長が「スタッフとして手伝ってくれないか、無量先生に会えるぞ」と、連絡をくれたのだ。
以前、ブーランジェリー・トチノミでお目にかかった時の記憶が蘇る。俺を覚えていてくれているか自信はないが、一面識があるという前提が憧れの存在を身近に感じさせる。
「はあ、ドキドキする。はあ、うえっ、はあ」
「さっきからそればっかり。キモいよ、お兄ちゃん」
「うるさいぞ、今日くらい大目に見てくれ」
偉大なる兄であるこの俺をうんざざり顔で見てくる妹。スタッフとして今宵も連れてきたが、失敗だったかもしれない。
いざサイン会が始まって、妹がこそっと耳打ちしてきたのは「無量先生っていくつ?思ってたよりずっと若々しい。イケメンだね、イケオジだ」の外見評価。白けた目で口を慎むよう促すが、どこ吹く風で笑っている。
しかし、改めて言われてみると無量先生は若々しくて年齢不詳気味の容貌をしている。正確な生年月日は公表していないが、デビューから逆算して大雑把に検討を付けるなら50代前半~60くらいだと思うのだが、お世辞抜きで30代後半~40代前半に見える。
年齢だけでなく、出身や経歴も一切公表しておらず、そこもミステリアスな無量先生らしくもある。
サインを求めてずらり並ぶ人々も、学生からお年寄り、和服を着たご婦人からパンクファッションの青年と様々。久々の短編集の出版、実に10年ぶりのサイン会なだけあって、来場客はなかなか途切れない。
そんな列の中に、知った顔を見つけた。三屋書店が本を届けているNPO法人代表・松下さんだった。彼女も無量先生のファンだと聞いたことがあり、今回のサイン会情報を早い段階で伝えていたから、日々忙しい仕事の合間を縫ってやってきたのだろう。松下さんも俺に気付いて、こちらが仕事中だと分かっているからか、列からひょこりと半身だけ出し、笑顔で手を振り、再び列に戻る。
今宵が「松下さん?」と耳打ちしてくる。今宵と松下さんはそこまで親しくしてはいないが、顔くらいは覚えていたようだ。
「うん。松下さんも無量先生のファンだからさ、教えといた」
「そうなんだ。松下さん、そもそも本が好きなんだろうしね」
「どうなんだろ、たぶんそうかな」
「そうだよ、だって松下さんのNPO法人の名称、bookmarkでしょ」
ああ、そう言えば確かにそうだ。
そんなことを考えながら列の乱れが無いかどうか、松下さんから視線を後方に移したところで、なんともう一人、よく知った顔を見つけた。その人物はかなり目を引くのですぐに存在を認識できた。隣に立つ今宵も「あっ」と小さい声を漏らし、その人物の名を口にする。
「憩だっ、お兄ちゃん、憩がいるっ」
「ほんとだ。え、先生のファンなの?」
「いやー、どうだろ、聞いた覚えないけど」
その日、憩ちゃんはロングヘアをそのまま流し、黒いパンツスーツ、サングラスという出で立ちで、スタイルのいい長身も相まってとても目立っていた。周囲の人も、冤罪弁護士の塩田憩だと気付いたらしく、ちらちら視線を送っている。けれど彼女は意に介さず堂々と、真っすぐ前を見据えて、それでいてどこか優雅さを感じさせる立ち姿で、列に並び続けている。
声を掛けたくてうずうずしている妹の葛藤オーラを横から感じるが、ついに話しかけられる位置に憩ちゃんが来ても、互いに小さく手を振り、笑みを交わし合うだけ。妹のその場を弁えた行動に、ああ、妹も大人になったのだなと、しみじみ実感。
「――松の木の松に上下の下で、松下。下は美しいに白亜紀の紀で、美紀です」
いつもと違い若干騒がしい書店内だが、松下さんの聞き取りやすい声がかろうじてこちらまで届いた。無量先生は微笑を浮かべながら、サインに松下さんの名前をさらさらと記入していく。初対面時は不愛想でぶっきらぼうな印象を受けたが、やはりファンを大切にする方なのだ、我らの無量先生は。
感慨にふけり、うっとり先生を眺めていると、ついに俺達との距離が最短になった憩ちゃんがまるで独り言のようにこう囁いた。
「美紀か、いい名前だね」
続けて、「そう伝えておいてください」と、俺を見て言う。発言の意図を量りかね、曖昧な了承の返事を返すのが精いっぱいで、前方に進んでいく憩ちゃんをただ見送る。相変わらず、憩ちゃんは謎である。
視線をそのまま憩ちゃんの背に固定していると、ついに無量先生の前に立った。長い髪を揺らしながら軽く会釈する。すると、2人の視線が合うなり、無量先生の挙動が停止した。無量先生の険しい表情は「どうしてお前がここにるのか」と言いたげだが、すぐ手元の本に目線を落として、サインを始める。けれどまたその表情には驚愕と動揺が滲む。憩ちゃんに何かを言われたのだろうか、先生の瞳は小刻みに左右に揺れ、明らかに狼狽している。対照的に、さっさと本を受け取り、再び会釈して立ち去る憩ちゃんの顔色はすこぶる良くて、とてもご機嫌な様子だった。
まさか、無量先生と憩ちゃんは知り合いなのか?心理的な距離感を感じたから親しい間柄ではないだろうと思うが。
疑念が生まれると同時、居ても立っても居られず、妹にその場を任せて憩ちゃんの後を追った。
「ねえ、憩ちゃん、無量先生と知り合いなの?」
「あ、朔さん、お疲れですー」
「お、お疲れ。知り合いなの?先生、めちゃくちゃ動揺していたけど、何の話?」
「よく見てますね。ああ、朔さんは山田無量の大ファンでしたね」
「うん、そう。で、どうなの?」
「知り合いの知り合いという感じで。今日が初めましてですよ、私はね」
煙に巻くような物言いに、謎はさらに深まってしまう。分かり易い回答を望む俺の阿呆顔がよほど可笑しかったのか、心底愉快そうに笑っている。
笑いながら、「内緒です。神のみぞ知る話、といったところでしょうか」と言った。




