第三十七話 優しい幽霊
「小郡さん、幽霊って見たことあります?」
暑い夏がようやく終わり、秋めいてきたその日、場所は愛宕警察署の休憩室にて、宮下は唐突に小郡循へそんな言葉を投げかけた。コーヒーサーバーから苦いそれを注いでいた最中の循は、想像もしていなかった質問に面食らっている。
「突然どうしたんですか。見ちゃったんですか?」
「いいえ、見たいなと思って」
「なぜ?」
「だって、幽霊が見えたら、幽霊に犯人を教えてもらって、すぐ捕まえられるじゃないですか」
「なるほど。それは便利だ」
「便利って。あと、怪死事件の真相とか知りたいじゃないですか?どうしてそうなった?みたいな事件って結構あるし。中野の怪死事件も色々噂されてて、呪いだとかなんとか都市伝説化してたりしてて」
「中野の怪死事件・・・ああ、浴槽とトイレに首突っ込んで溺死していた事件ですか。もう10年以上前の事件ですね。しかも子供がいた痕跡はあるのに姿が見つからないと聞きました」
「そうですそれ!あれ、溜まってた水は海水だったって知ってました?すりきりいっぱいに海水が溜まってて、抵抗した様子もない。そこに自ら頭を突っ込んで死んだとしか考えられない状況だったらしいです。子供もどこ行っちゃったんだか。無事だといいけど。いやあ、マジ呪いですかね」
「あはは、呪いですか」
「幽霊とか呪いとか、子供の頃からそういうオカルトチックなものが結構好きだったもんで」
「なるほど、想像力豊かな子供だったんですね」
「はい、祖父にも父にもよく笑われていました。お前は夢見がちだって、警官なんて務まらないって。今もちゃんと警官やれているのかって心配されています、未だに子ども扱いです。自分、もうすぐ28ですよ?」
「愛されているんですよ。有難いじゃないですか」
「まあ、そうなんですけどねぇ。小郡さんは里帰りとかされてます?都会出身ですよね?」
「目黒です」
「うわ、ガチ都会じゃないですか」
「そうでしょうかね?周辺は住宅街ばかりで、面白味はさほど。里帰りもとんとご無沙汰ですよ」
「まあ、大人になったらそんなもんですよね。帰省の催促が煩いったらなくて」
循の過去を知る由もない宮下は無遠慮に自身の幸せな家族の話をする。しかしそんなことで腹を立てる循ではない。人の幸せを妬んだり壊したり、彼にはそういった負の感情があまりない。それは循の心が美しく健全な精神を持っているからだとか、辛い過去を乗り越えて悟りを開いているとか、そんな類の話ではなく、ただ単純に他人の事情などどうでもいいだけ。他人の幸不幸に興味がない、と言っていいだろう。よって、今この瞬間も循の心は凪のように静か。
だが、静かなそこへ一石が投じられ、波紋が生まれる。
「そう言えば、例の”佐藤”について、何か分かりましたか」
すぐさま循は首を横へ振る。激務の中で満足に調査ができていない。それに、探りたくても相手は容疑者ではないし、警察官という職を失いたくないのなら弁護士の関係者相手に下手は打てない。
循は険しい顔をしていたのだろう。いつも人の良さそうな笑みを浮かべているから余計その眉間のシワが目立つ。敬愛する上司をなんとか元気づけようと、健気で素直な後輩・宮下は話題を転じる。
「そうだ、例の浜松町の爆発事件、やはり何か裏がありそうですよ」
爆発物が仕掛けられたトワイトワ株式会社から、会社関連の資料を押収したまま返却せず、未だに警察庁に保管されているという。また、トワイトワ常務取締役の桐谷大聖は現在も出社せず、表舞台に出てこないらしい。
「それに、中森夫婦にあんな高度な爆発物が作れるはずないと思いませんか?絶対協力者がいる。上層部がずっとマークしてる連中かもしれませんよ」
「物騒ですねぇ」
「暢気ですねえ」
「だって、我々のような下っ端には関係のない話じゃないですか」
「まあ、そうですけど。ああ、あと、大聖が中森夫妻の息子をいじめていたという話は確かに出てきたんですけど、2人が談笑しているのを見たという証言もあったらしいです」
「談笑?書いて字の如く、 心打ち解けて楽しく笑いながら話していた、と?いじめている側といじめられている側が?」
「はい」
「まあ、学生時代というのは特殊ですからね。いじめっ子の機嫌が良ければ笑顔を向けることもあるでしょうし、いじめられている方も自分の立場を改善させるためいじめっ子に媚びざるを得ない」
「そうなんですけど、証言した住民曰く、本当に仲が良そうだったと。中森家に出入りして、中森夫妻とも付き合いがあったようで」
「ほう」
「息子がいじめられている事実を知らなかった、という可能性はもちろんあると思います。当時それ知らず、時を経て真実を知り、復讐を決意した。無くはないです。でも、復讐方法に爆発物を利用することも、夫婦が今も黙秘を貫いていることも可笑しい。法廷で、息子の復讐が目的だったと明かす方が大聖や会社にダメージを与えられるのに」
宮下の指摘はもっともだった。循も同様の疑念を抱いている。
続いてもたらされた情報に、疑念はさらに膨らんでいく。
「それと、中森奏斗と大聖と同じ学校に、板垣蓮という同級生がいて、イタガキコーポレーションの跡取り息子なんです」
「トワイトワ株式会社の親会社ですね?」
「よくご存じで。その通りです」
「つまり同じクラスに、イタガキコーポレーション社長の息子、その子会社の社長の息子、さらにその子会社の社長の息子がいたわけですか」
「はい。イタガキコーポレーションって政治家ともズブズブだって聞くし、戻ってこない書類といい、高度な爆発物といい、未だに黙秘を貫く中森夫妻といい、ホント闇深ですよ」
「確かに、単純な復讐ではなさそうですね。上がさっさとこの件を片付けたのがその証左でもある」
そう思ったとしても、彼ら一兵卒の警官に出来ることなどない。相手が政治家と懇意にしている有名企業となれば迂闊な行動はとれない。懲戒処分になりかねない案件だ。警察官という職を続けたいなら、この胸に痞えるような不快感のある疑念を飲み込み消化しなくては。循の目的は、環を見つけ出すこと。それまでは、石に噛り付いてでも警察官でい続けなくてはならないのだ。
プラスチックカップを持つ指に力が入り過ぎていたのか、ペキ、と小さな悲鳴が聞こえて慌ててテーブルにカップを置いた。
と、ほぼ同時に、宮下が何かを発見したように「あっ」と声を上げので、つられて、彼が視線を向けている方に循も顔を上げた。
「――百合警視ですね」
「いやー、相変わらず美形っすね~」
小声で宮下が言う通り、百合警視の出自や経歴、活躍、それからその美貌も相まって、彼の存在は所轄関係なく有名だ。こちらには一瞥もくれず、廊下を威風堂々歩き去っていく。きっと奥にあるエレベーターに乗り、上階の所長室へ行くのだろう。彼が面会するとしたら所長しかいない。
「そういや、百合警視もあの爆発事件を早々に片付けようと動いていましたもんね」
そう宮下が言うので、すかさず「彼は政治家一家出身ですからね」と返す。彼らの声音は若干の皮肉を含んでいる。
旧華族で、曾祖父の時代から有名政治家を輩出してきた百合家の嫡男。華麗なる一族の出身で、あれほどの美貌を持ち、海外の有名大学を首席で卒業後、警察庁へ入庁し、エリート警察官まっしぐら。自分達と比べるのもおこがましいが、この差は凄まじいものがある。
だからと言って、妬むほどでもない。循も宮下も大人なのだ、どんなに恵まれているように見える人間にも苦労があると知っている。むしろ、華々しい経歴を持っているからこその重責や気苦労は循達よりずっと多いだろう。相手の立場を推し量れるくらいには、この2人は大人だった。
「戦後、落ち目だった百合家を、彼の祖父である百合剛が盛り立てた。百合剛は8年ほど前に亡くなりましたね。宮下君は百合剛、ご存じですか?」
「それくらい知っていますよ!法務大臣やっていましたよね」
「ええ。法改正に積極的な方で、国家諜報室の拡充やスパイ防止法の制定に尽力されていた。だから敵は多かったと思いますよ」
「へえ、そうなんですか」
「ええ。お姉さんの影響を強く受けていると聞いたことがあります。人望があり賢くて、先見性のある方だったそうです。百合剛曰く、姉が男なら総理大臣になれただろうと、何かの手記で拝読しました」
「百合剛はシスコンだったんですか」
「はは、なるほど。そういう見方も出来る」
「まあでも、そんな人の孫が隠ぺいに加担しているかもしれないなんて、百合剛も草葉の陰で泣いてますよ」
「蛙の子が蛙とは限りません。悪人から善人が、善人から悪人が産まれることだってある」
カップに残された冷めたコーヒーを一気に煽り、循は脱いでいたジャケットを羽織った。そろそろ休憩は終わりだ。宮下もパイプ椅子から立ち上がり、軽く伸びをする。伸びのついでに出てきてしまったあくびを噛み殺しながら、宮下は「百合剛か。はは、苗字と名前が反発し合っていますね」などと無邪気な発言が飛び出す。裏表のない素直な宮下らしい発想だ。
ややミスマッチな苗字と名前の組み合わせの訳を知っていた循は、可愛い後輩にそれを教えてやった。
「剛は婿養子、旧姓は星野だそうですよ」
合点がいったとばかりに宮下は大きく頷いた。
「あ、宮下君」
「はい?」
所属する部署へ向かう分岐路で、循は宮下を呼び止めた。
「幽霊。子供の頃にね、一度だけ見たことがあります。満身創痍な幽霊でした」
なんとも引き込まれる話だったため、宮下はすぐ続きを聞きたい衝動に駆られるが、生憎もう仕事に戻らねばらならず、「その話、後で必ず!」と言い残し、名残惜しそうに消えていった。
循は、後輩のその様子に心からの笑みが零れた。なんと素直で、屈託のない人間だろう、と。自分とはまるで違う。同じ警察官だけれど、志した動機もモチベーションもまるで違う。違うが、それなりに仲の良い関係を築けている。この署内でも輪を乱すことなく、円滑に業務を遂行している。溶け込めている。全ては、あの日、誘拐されてきた環のおかげ。自分を見捨てず、助けてくれた環のおかげ。 家畜に近かった自分を人間にしてくれた環のおかげ。
満身創痍な幽霊とは、寒くて薄暗い、埃と煙草がしみ込んだあの部屋が火に包まれ、2人で逃げ出した時に出くわした。その幽霊は、壁に手を添えて、足を地面に押し付けながらゆっくり歩いていた。長い髪の、着物を着た女性だった。循はそれまで着物を見たことがなかったので、炎に包まれたあの家から脱出し、少し歩いた先の民家に忍び込んだ日の夜、環が教えてくれた。
「着物を着た幽霊だったね、あの人、きっと私達を助けてくれたんだよ」
環はそう言って口角を目いっぱい上げた。幽霊の真意なんて分かるはずもないが、循を安心させるため、そして自分を鼓舞するため、環は敢えてそう言った。事実、幽霊が歩く先は火の手が失せ、子供が這い出られるほどの小さな換気口があった。環の発言も、あながち外れていないのかもしれない。
「あの幽霊、謝っていたね。ごめんなさい、ゆるしてって」
「きこえなかった」
循にはそんな声は聞こえなかった。環はきょとんとしていた。当然、循にも聞こえていたと思っていたのだろう。自分に聞こえないものが、環には聞こえる。ああ、やっぱり環は特別なんだと、その時の循は思った。
その後、2度ほど、環は同じ幽霊が見えると言ったけれど、自分には見えなかったし、幽霊を見たという割に怖がる様子がなかったため、循は菫にも椿にもこのことを伝えなかった。
その幽霊は、変わらず「ごめんなさい、ゆるしてください」と謝っているようだ。よくよく聞くと、「かみよ、ゆるして、ごめんなさい」と、神に許しを乞うているらしい。加えて涙まで流すから、環は怖がるより気の毒になり、成仏を願った。
――その幽霊なら、環の居場所を知っているかもしれない。幽霊に会うには、一体どうしたらいいんだ。
心で呟いて2秒後、自嘲気味に笑った。こんなことを考えてしまうなんて、いよいよ末期だ。
親指と人差し指で眉間を挟み、軽くマッサージ。それから浅く息を吐き、パソコンと向き直り、したくもない事務作業に取り掛かった。




