第三十三話 橋本優子の人生
優子は、右腕と左足が欠損した状態で産まれた。父・森二と母・和枝は、最初の内は我が子の将来を案じて悲観に暮れていたが、他の子と変わらずよく母乳を飲み、元気に泣き、無邪気に笑う優子を見て、全力で我が子を愛し、支える覚悟を決めた。
幸い、橋本家は金銭的にかなり余裕のある家庭だったこともあり、質の良い義足や車いすを優子専用にあつらった。学業においても一般の学校に通えるように手配し、送り迎えをし、不足があれば家庭教師を雇った。
ある日、家庭教師は感嘆とした様子で森二に言った。
「優子ちゃんは平均的な子よりずっと学習能力が高いです!いつもお行儀よく私の授業を聞いてくれますし、予習復習もしっかりしてくれます。何より、好奇心が強い」
その言葉の続きに、勿体ないですね、と付きそうな表情を家庭教師はした。どんなに出来が良くとも、あの子は障害者で、女。しかも、喘息持ちで身体も強くないときた。金や時間を掛けても、優子の人生は大輪を咲かすことなく散る運命にある。家庭教師がみなまで言わずとも、森二も和枝も分かっていた。けれど、優子は一生懸命に勉学に励み、人々との関わりも積極的に持った。
おかげで、優子の成績はいつも学年一位で、周りに人が集まる子に育った。障害者だからと差別されなかったのは父親の威光もいくらか影響したろうが、それ抜きにしても優子の明るい性格と、何事にも臆せず取り組む姿勢は周囲の人々を惹き付けた。また、なかなかの美人でもあったので、優子に片思いしていた男子は多かったようだ。
弟・剛と、妹・光子も優子をとても慕っていた。光子が産まれて間もなく、産後の肥立ちが悪かったのか、あっけなく和枝は死んでしまい、母親の不在を埋めるように弟たちの面倒を一生懸命したからか、弟たちはどちらかと言うと父親よりも姉の言うことを聞いた。それについて、森二は部下たちに「剛と光子は、俺の言うことなんて聞きゃしねえ。優子にべったりだよ」と、嬉しそうに語った。
優子が弟たちの世話をし、勉強を見たので、家政婦や家庭教師を雇わずに済み、わずかばかり家計の助けにもなったおかげか、書生を招き入れることにした。世は戦争ばかりが続き、親のいない子供も増え、学問を修めたくても叶わない時代だった。なんとか若者の力になりたいと考えた森二は、書生を迎えることにしたのだ。
一人の書生はこう名乗った。
「初めまして。夜野月雄です」
透き通った白い肌をした美形の男性だった。月雄の男性らしからぬ美しさと、放つ洗練された雰囲気に剛と光子は思わず怯み、姉の陰に隠れてしまう。こんな美しい人、この世にいるのか、と兄妹の顔には書いてある。
一方、優子は冷静だった。年頃も近く、この辺りにはいないタイプの男性の登場に、少しくらい浮足立ってもいいところだが優子は表情すら崩さない。優子の反応が予想通りだったのか、森二は声を上げて笑った。「ほらな、うちの娘は肝が据わってるだろう!」と。自分の娘は見た目の良さで男に惚れたりしない、森二はそう言いたいらしい。
森二は誇らしげにしていたが、実はそれは少し違う。優子には分かっていたのだ、この夜野月雄と言う男の正体が。
優子は中学生になった頃から誰かと文通を始めた。相手は“佐藤未来”という人だ。高校に入学してからは、近所の喫茶店でその人物と頻繁に会うようになった。佐藤未来は男で、年頃は優子の少し上、華美さは無いものの顔立ちの整った好青年風。端から見れば二人は恋人同士にしか見えなかったが、当の本人たちは「友達」との主張を崩さなかった。
その内、佐藤未来は橋本家へ出入りするようになり、剛や光子、月雄たちとも親しくなっていった。特に月雄とは、こそこそと二人きりで内緒話をするほどの仲に。
一方、愛娘の恋人登場に森二の心中は複雑だった。優子の将来を考え、自分が良い男を用意してやろうと意気込んでいただけに、「優子のやつ、勝手に男を見つけてきやがった」と少し不満げ。しかし誰より優子を信頼している森二は、娘が連れて来たこの男は、娘が惹かれるに値する男なのだろうと必死に自身を納得させる。
実際、父親と言う立場から言わせると、佐藤は理想的な婿候補だった。礼儀正しく物腰柔らかで、自己主張は控えめで、とにかく優子を優先する。薄く繊細なガラス細工でも扱うように、いささか自己犠牲的に映るほどに、佐藤は優子に優しく接した。その眼差しから、態度から、優子への愛情が滲み出ているのが、疎い森二にもよく分かった。
それでも、優子は佐藤との関係をこう説明した。「恋人じゃないよ、未来は友達。腐れ縁みたいなものだよ」と。
橋本家の裏家業は確かに森二が始めたことだったが、裏で父親を操っていたのは実は娘で、橋本家に真の主は優子である。優子は、自分の特殊能力をフル活用し、橋本家へ出入りする工作員の精査を行い、情報を適切な人物や然るべき機関へ横流しした。父親もそれなりに優秀だったが、橋本家に出入りする工作員全員が忠実だったわけではないし、二重スパイを行う者もいたから、逆に利用されてしまわないよう優子が立ち回ったことが橋本家の主交代のきっかけ。
また、優子は優秀な書生を仲間に引き込み、自身の手足となって動いてもらっていた。彼もまた、当時の政府や市民が置かれている環境に強い不信と不満を抱えた、信念ある若者だったのだ。
「情報は集めるだけ集めてあなたに託します。資金も譲渡します。でも約束をたがえないで。これは個人的な思想や私欲のための活動じゃない、他国の利益や資源を奪ったり踏みにじったりするためでもない。あくまで、自衛のためだから」
橋本家の真の主である優子の真剣な眼差しには熱意や期待、牽制などが込められている。答えるように、書生は力強く頷いた。
ついに、橋本家で行われていることが対抗勢力に知られてしまったと勘付いた森二は、そうなった場合は証拠を抹消し、自ら命を絶とうと初めから決めていたため、直ちに行動に移した。
残していく我が子への愛情と、巻き込んだ書生たちに申し訳なさを抱きつつも、激動の時代を生き抜いた達成感を胸に、愛する妻の元へ旅立った。
自らの首を掻っ切り死んだ父親を前に、優子は取り乱した様子もなく、いつものように表情を崩さない。対して、書生は絶句し、力なく膝を付き、慟哭した。彼は、自分を拾い上げてくれた懐深い森二のことを敬愛していたのだ。恩人のこの突然の死を、受け止められるはずもなく。
床に伏して嘆き悲しむ書生を前に、優子は淡々と今後の流れを告げる。
「今日、私は死ぬことにするわ。星野のおじさんはとても良い人だけど、子供3人預かるのは大変だもの、剛と光子だけお願いしましょう。この身体はどんどん弱ってきてるし、私が父から情報を預かっているかもしれないと考えている輩もいるはず。だからいっそ親子の無理心中に仕立てる。あなたもすぐこの家を出て」
「でも、お嬢さん、」
「大丈夫、前にも話した通り、私は生まれ変わりを繰り返しているの。今日私は死ぬけれど、またすぐ別の人間としてこの世に産まれてくる。ずっとそうしてきた。産まれてきたら、あなたに必ず連絡をするから」
そう言い残し、書生の制止を振り切り、部屋の内鍵を掛けた。そして、既に事切れている父親の傍らに立ち、愛をもって育んでくれた礼を告げ、血まみれの包丁を取り上げ、それを自身の首元に当て、躊躇なく刃を引いた。
ドタンッ。
室内から誰か倒れる音がして、書生はがっくり肩を落とした。声を殺して再び泣いた。が、物音を聞きつけて誰かが階段を駆け上がる足音が聞こえ始めると、窓から屋根に移り、慎重に地面へ降りた。それから物置に用意していた荷物を持ち、10年暮らした橋本家を後にした。たくさんの思い出、強い喪失感、未来への不安と恐怖。色々な感情が胸を駆け巡り、頭も顔もぐちゃぐちゃだ。この家を去ることは名残惜しかったが、それでも走る足を止めない。
それから、書生は優子との約束を守り続けた。
自分達の活動に、自分達の意思や思想は必要ない。しかし、活動は過酷さを極めた。資金は当分心配しなくて良かったが、優子亡き今、情報の調達や精査は自分の判断に委ねられる。その重責は彼を押しつぶさんばかりで、さらに仲間集め、トラブル続きの日々に心は折れかかっていた。
そんな時だ、森二と優子が死んで6年目のある日、元書生の彼の元へ、人伝いに連絡がきた。優子しか知り得ない人脈とルートからの連絡だったため、一瞬彼女が実は生きているのではと期待してしまったが、相手は生まれ変わった優子で、自分が知る優子の姿も声もしていない。
――ああ、自分の知るお嬢さんはもうこの世にいない。
その現実をその時ようやく認めざるを得なくなった彼は、新たな優子を受け入れる決心をした。姿も声も変わったが、中身は間違いなくあの優子なのだから。
優子の新たな名は、三上栞と言った。




