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君の手のひらで踊りたい。  作者: 田邑綾馬
第Ⅲ章 転

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蛙の子は蛙(下)

 いじめっ子たちは僕をかばうメグミ先生に反発し、授業をボイコットしたり悪口を言うようになった。けれどそれだけだ、それ以上の真似なんてあいつらに出来るわけがない。相手は先生の卵で、年上で、いつも毅然としている大人の男性。あいつらがかまうのは僕のように反抗しない気弱な奴だけ、いじめてもいい理由を持つ奴だけ。


 メグミ先生は明日、実習を終えて東京に戻る。そうすれば僕を気にかけてくれる人はいなくなり、いじめはもっと苛烈になるだろう。考えるだけで、身体が鉛のように重たくなって動けない。呼吸が浅くなって、頭がくらくらして、もう立ってもいられない。手足が痺れる。

 とうとうしゃがみ込んで、しばらくぶりに泣いた。気付いたら泣いていた。こんな様をあいつらに見られたら面倒だ、早く泣き止まないと。


「四月一日君、大丈夫か!」


 顔を上げるとメグミ先生がいた。鞄の中身をぶちまけてその場に座り込む僕を見つけ、心配そうに駆けてくる。

 ぶちまけた荷物の中に、落書きされた教科書があって、先生はそれを険しい顔して拾う。


「あ、いや、それは今やられたんじゃないです。結構前です。心配しないでください」


 可笑しな説明をしているな、と自分で言っていて思った。落書きされた時期ではなく、落書きされたこと自体が問題なのに。僕の感覚はすっかり麻痺してしまっている。

 僕の説明を聞いて、メグミ先生は意外な提案をしてきた。


「逃げなさい」

「え?」

「四月一日君、この高校を辞めなさい」


 その瞬間、ざあっと強い風が吹いて、配られたプリントが飛んでいった。進路希望のプリントだった。飛んでいく紙を見ながら、メグミ先生から言われた言葉を反芻する。

「逃げなさい」「この高校を辞めなさい」、提案や助言というより、指示や命令に近い口調だった。そしてそれは僕の中になかった選択肢だった。何があっても耐えねばならない、ずっとそう自分に言い聞かせていたから。


「学校は、人との関わり方を学び、集団行動を練習する場所でもある。でもそれ以前に、勉学を修める場所であるべきだと俺は思う。君の場合、ここではそれが満足にできない。勉強はここにいなくともできる。友人を作ることもだ。これ、通信や夜間の学校を調べた。俺が学校側に掛け合ってもいい。逃げた先で、今後のことを考えなさい。このままじゃ、君の心が壊れてしまう」


 ぐっと口を一文字に結んで、端正な顔を歪ませて、メグミ先生は一筋涙を零した。「助けられなくてごめん。申し訳ない」と、言いながら。


 ――ありがとう、先生、僕のために泣いてくれて。でも”逃げること”は”間違い”ではないですか。僕の名前は正道です。正しい道と書いて、正道です。父が付けてくれた名前です。父は世間では鬼畜だけど、僕の記憶の中では、どこにでもいる普通のお父さんです。仕事ばかりであまり遊んでもらった記憶はないけど、寡黙で、野球が好きで、庭いじりが趣味で、お酒が入るとお喋りになってよく笑う人でした。僕にとって、僕らにとって父は、普通の良いお父さんでした。その父が、「正しい道を行く人になってほしい」と願って名前を付けてくれました。だから僕は正しい道を行く人になりたいんです。逃げるという道は、正しいでしょうか。


「先生、前、言いましたよね、なんでやり返さないのかって。やり返して、もっと酷くなるのが嫌だというのも本当だけど、僕、少しでも良い奴だって思われたいんです。いじめに耐える、健気で良い奴だって」


 僕はしゃくり上げながら、必死に訴えた。


「だって、『蛙の子は蛙』って言うでしょ。親子は似ている。それなら、良い蛙の子供の親は、良い蛙ってことになります。俺が良い蛙でい続けたら、こんないい奴の父親が鬼畜な訳ないって、もしかしたら、冤罪だったんじゃないかって思う人が現れるかもしれないじゃないですか。姉も、母も、あんな風に死んでいい人間じゃなかったって思ってくれるかもしれない。いつか、いつか、僕が正しい道を歩き続けたら、僕ら家族の無念を晴らしてあげようって思ってくれる神様みたいな人が、現れるかもしれないじゃないですか」


 そんな、訪れるはずのない幻を生きる支えにして、僕はこの現実を必死に生きていた。


 先生は「正しい道かどうか、進んでみないと分からない」と言った。メグミ先生の助言通りに、高校は辞めた。

 結局、どこの高校へも通わなかった。アルバイトをしながら高卒認定試験の勉強して合格すると、そのまま大人になると決めた。17歳で施設を出て、都会へ。それなりに大変な日々だったけど、これまでの生活を思えばさほど辛くはなかった。事情は違えど人に言えない秘密を抱えた者同士、友人も何人かできた。時たまお酒を飲んだり、行きつけの店を見つけたり、好きな小説を読んだり、ささやかだけど僕には十分すぎるほど幸せで、その幸せを噛みしめて生きてきた。けれどその幸せも、ある日突然あっけなく消えてしまった。


 一度疑われれば、元の生活にはもう戻れない。仕事もクビになるだろうし、あのアパートにも住みにくくなる。噂は、どんなに隠そうとも煙のようにすり抜けて辺りに充満する。過去の経験から知っている。今回の件は完全なる冤罪だが、刑事さんも判事さんも僕を疑ってかかり、こちらの言い分を聞き入れない。僕の反論など彼らには無価値で、説得力がない。だって、『蛙の子は蛙』だから。僕も小さな女の子に興味があると思い込んでいる。先入観、決め付け、思い込み。趣味趣向なんて人それぞれ違うだろうに。

 僕が犯人であった方が楽なのだろうな、とも思う。悪い奴の子は悪い奴。彼らも深く物事を考えるのが面倒なのだ、分かるよ、日々生きるのは大変だよね。


「疲れたな」


 薄暗い留置所に、今にも消えてしまいそうな、ひどく弱々しい声が響く。情けない声だ。


「消えてしまいたいな」


 自嘲気味に笑って、両手で顔を覆った。声を殺して少しだけ泣いた。泣きながら笑った。

 自分の人生とは何のために存在しているのか、自問自答すると笑いが込み上げた。なんなんだ、僕の人生は。なんのためにあるんだ。それとも人生に意味はないのかな。意味もないのに、どうしてこんなに苦しくて、どうしてこうも報われないのかな。


 ひとしきり泣いて、笑って、ようやく諦めがついた。もう、すべて手放してしまおう、と。

 気持ちが決まると行動は早かった。長袖シャツを脱いで、それを咥える。音がしないよう、ゆっくりと布を裂いていく。あの明かり窓の枠に通すにはそれなりの長さがいる。これが人生最後の仕事だ、これまで通り丁寧にやろう。

 そして、最後くらい自分を褒めてやろう。誰も褒めてくれないから、最後の最後、自分を褒めてやろう。


「よく頑張った、正道」


 噛みしめるように呟いて、自作した首吊り縄を握りしめた。深呼吸をして、一思いに首を通し、自らの体重で自らの首を絞めていく。苦しいが恐れはない、心は穏やかだった。晴れやさえ感じる。


 薄れゆく意識の中、最後に脳裏に浮かんだ顔は家族ではなく、メグミ先生だった。あの人は今どこで何をしているだろうか。結局教師になったんだろうか。幸せに暮らしてくれているだろうか。叶うなら、どうか僕の死を知らずにいてほしい。正直で正義感の強い彼は、きっと気に病んでしまうだろうから。


 メグミ先生について考えていたら気分はもっと静まり、多幸感に満たされる。ここは温かくて、柔らかい。ふわふわと身体が浮かんでいるみたいだ。

 死後の世界ってこんな感じなのかと余韻に浸っていると、そこへ水を差すように人の声が聞こえ始めた。遠く、隔たりの向こうからその声はする。男性二人の声だ。


「よかった、危うく死なせてしまうとこだったぞ」

「その弁護士先生に感謝だな。未遂ならなんとか隠せるだろう」


 僕の話をしているのだと直感した。だとすると僕は、死に損なったのか?

 無情な現実を突きつけられ、意識が急浮上し、夢から覚醒した。もう二度と、戻りたくなかった場所へ、再び舞い戻ってしまった。かつてないほどの絶望に胸が押し潰されそうになる。思わず胸を押さえ、苦痛に顔を歪め、うめき声が口から漏れる。


 ここは医務室か。見慣れない天井、仕切られたカーテン、薬品の匂い。カーテン越しで、警官が話をしているのだろう。僕の身体にはなんの管も繋がれていないから比較的すぐ発見され、ここへ運ばれたのだろうと思った。


 横たわって苦しむ僕にはお構いなしに、仕切りカーテンを勢いよく開けた警官は言う。


「目が覚めましたか。よかった。さっそくで申し訳ないのですが、あなたに面会したいという人が来ています。緊急だそうで」

「面会?」

「弁護士の先生です。あなたを、弁護したいと」


 こちらの意思や体調は二の次のようで、すぐ車椅子に乗せられ、面会室へ運ばれる。

 早い段階で弁護士に相談するべきだと分かっていたけれど、当てなどないし、依頼する気力もなくこの日まで来てしまったから、これから会う弁護士先生に心当たりはない。誰が手配してくれたんだろう、ダメだ、ぼんやりして頭が働かない。


 面会室の扉が開かれる。アクリル板の向こう側には、紫色のスーツを着こなした美しい女性がいた。艶のある黒いロングヘアのクールビューティは、よれよれのスエット、髭の伸びた蒼白な顔の僕と目が合うと、口角をふっと上げて微笑んだ。


 もちろん面識のない女性だ。しゃんと背筋を伸ばし、落ち着き払った様子でこちらを見据える彼女は頭も育ちもよさそうで、自分に自信があるタイプのようにこの目には映った。胸元で輝くバッチは彼女によく似合っていて、きっと優秀な弁護士なのだろうと想像できた。アクリル板のこっちとあっちで区切られていなくても、僕などとは、住む世界の違う人種だ。そんな彼女がなぜ、僕の弁護を申し出たのか謎である。


 彼女はおもむろに、アクリル板越しに名刺を押し付ける。名刺には所属している事務所名や住所、電話番号、そして名前が記されている。

 無意識に、その名前を読み上げていた。


「――塩田しおたいこい


 塩田。一人の男性の顔が浮かんだ。混乱と動揺で視線があっちこっちと動き回り、挙動不審になってしまう。

 綺麗な黒髪をさらり垂らしながら、彼女は僕に頭を下げた。頭を下げながら、なぜが謝ってくる。 


「遅くなって申し訳ありませんでした、四月一日正道さん」

「え、」

「私は、あなたが無実であることを()()()()()()。それを証明し、堂々とここから出ましょう。そして、あなたに理不尽を敷いてきた奴らから謝罪と償いをしてもらいましょう」

「つぐない?」

「そうですね、とりあえずお金かな。可能なら、その命をもって償わせたいですね」


 目を丸くして絶句する僕とは対照的に、彼女は軽快に笑う。後ろに控えている警官が驚きから息を飲むのが分かった。そりゃそうだ、あまりにも不穏当で、仮にも弁護士が言っていい台詞ではないから。

 それでも彼女は止まらない。


「ここに来る前、あなたのお友達からあなたのお話を聞いてきました。皆さん、心配していましたよ。そして、あなたの無実を信じていました。お人好しで抜けてるから、きっとハメられたんだろうって」


 言って、スマホの画面を向けてくる。友人達が僕の人となりを証言している映像が流れた。時たま口が悪くなる彼らには、画面の中でも言いたい放題しながら、必死に僕の身の潔白を訴えている。「あいつは馬鹿正直で、お人好しで、情けない奴だけど、いい奴です。自分の人生にちゃんと向き合ってる。強い奴です」と。

 気付くと、だらり、たらり、目から涙、鼻から鼻水、口からは抑えきれない嗚咽が流れる。


「戦いましょう、四月一日さん。戦うんです。あなたが良い蛙であることを、正しい道を歩んできたことを、世間に証明してやりましょう」


 ダンッ。

 アクリル板に手を押し当て、こちらに身を乗り出して近づく。その拍子に髪がふわっと広がる。表情は自信と闘志に満ちていて、まるで凄まれているようだった。


 期待がむくむくと膨れ上がる。この人なら、僕を救ってくれるかもしれない。でも、裏切られるかもしれない。はっきり言えば、僕にはもう他人を信じる勇気や気力が無いんだ。戦う力なんて、もっと無い。


 怖い。震えるほど、怖い。信じたい、怖い、裏切られたくない、助けてほしい、諦めたい、諦めたくない、信じてほしい、信じられない、怖い、逃げたい、逃げたくない。苦しい、助けて。助けて!


 ――「正しい道かどうか、進んでみないと分からない」


 たった今耳元で囁かれたかのように蘇ってきた恩師のかつての言葉。正直、歩んできた道が正しいかどうかなんて僕にも分からない。結局、父の冤罪を信じる人などいなかったし、財産も築けない生活を送り、挙句の果てには身に覚えのない罪で不当逮捕された。けれど今、目の前には「あなたが無実であることを知っています」と断言してくれる人がいる。


 もう一度、女性を見つめる。恐る恐る、と。彼女は挙動不審な僕を前にしても微動だにせず、凛と背筋を伸ばして真っ直ぐ見つめ返してくる。その瞳はあまりにも透き通って美しく神々しかった。僕の葛藤や恐れなどお見通しのようで、微笑を浮かべたまま、急かすことなく返答を待ってくれている。


 この人を、メグミ先生の面差しが確かにあるこの人を、僕は信じたい。

 情けなくも涙声、震えながら、了承の言葉を口にする。


「――はい、お願いします」


 この数か月後、憩ちゃんによって、僕だけでなく、父の無実も証明されることになる。

 留置所を出て真っ先に向かったのは、塩田しおたけい先生のお墓だった。

 墓の前に膝を付き、手を合わせ、礼を何度も呟いて、僕はやっぱり泣いた。


(完)

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