番外編 蛙の子は蛙(上)
音を立てないように、一晩かけてゆっくりゆっくり引き裂いた上着の袖。細長いひも状にしたそれの強度を上げるため三つ編みにして、留置場の明かり窓の枠に通して、即席の首吊り縄は完成した。高さがないから首を吊るのは無理だろうけど、自分の体重で窒息するまでじっと待とう。大丈夫、待つのも耐えるのも得意だ。ずっとそうやって生きてきたんだ、なんてことない。僕のこれまでの人生を思えば、死ぬ方がずっと楽だと思う。我ながらよく生きてきたものだ。最後くらい自分を褒めてやろう。誰も褒めてくれないから、最後の最後、自分を褒めてやろう。
「よく頑張った、正道」
噛みしめるように呟いて、自作した首吊り縄を握りしめた。
僕の死を悲しんでくれる人はたぶんいない。家族はとっくの昔に死んだ。父は死刑囚で獄中で死んだし、母は心を病んで病死、姉は可哀そうに自殺した。幼くして家族を亡くし、父の関係で親類からも見放された僕は12歳で天涯孤独となり、施設で暮らし、誰に引き取られることなく成長し、施設から出た後は一人暮らしを始めた。高校にも通ったが、父の噂が立つと酷いいじめに合い、卒業したかったけれど結局退学を選択した。
勉強は得意ではなかったけれど、”知る”ということは好きだった。本を読むのも、文章を書くのも好きだった。物語を読んでいる時だけは現実から逃避できたから。映画もドラマも嫌いじゃないけど、施設ではあまりテレビを見せてもらえなかったから本の方が馴染みがある。映画館で映画を見るなんて、えっと、そうだな、うん、4回しかない。そのうちの一回は、初めて出来た恋人と行ったっけ。父のことが知れて、すぐフラれてしまったけれど。
高校中退後から色々なアルバイトを経験し、最終的に清掃会社に正社員として勤めて20年余り。遅刻も早退もなく、丁寧に仕事をしてきたつもりだ。綺麗な空間になればみんな喜んでくれる、こんなどうしようもない僕の人生が誰かの役に立つのなら、これ以上嬉しいことはない。給料は安いし、恋人もいないし、ボロアパート住まい、他人から見れば面白みも刺激も希望もなく見えるだろうがそれで良かった。除け者にされず、罵倒されず、暴力も振るわれず過ごせるのだから、僕にとっては有り難い日々だった。
けれどその平穏な日々も、ある日突然に終わってしまった。
その日、仕事場にある僕のロッカーに、見覚えのない紙袋が入っていた。くしゃくしゃになった茶色の紙袋。不思議に思って開けてみると、そこにはキャラクターの靴下と、髪ゴムが入っている。どちらも幼い女の子が好みそうな代物だが、僕のロッカーにある心当たりが全くない。はて、これは一体どういうことか。紙袋を持ったまま困惑していると、廊下からばたばたと慌ただしい足音が複数聞こえてきた。足音は勢いを増し、「どこだ」「ここか」「こちらです!」と、切迫した声も混じり始め、ついにこの控室へ雪崩れ込むように男性達が入ってきた。先頭にいたのは僕の上司、後ろには険しい顔をした制服警官が3人いて、なぜか僕を睨んでいる。
「四月一日正道さんですね?」
名前を呼ばれた。条件反射で「はい。そうです」と素直に答える。きっとこの時の僕は間抜け面だっただろうな。
そこからは怒涛の展開が続き、記憶がひどく曖昧だ。両脇を警官に押さえつけられながら連行されてしまった僕の罪状は、幼い女の子への乱暴行為を働いたというもの。
「え、ちょ」「どういうことですか?」「なんなんですか?」「僕は何もしていません」確かそんなこと言って無実を訴えたと思うけれど、警官の1人から「あなたの部屋から証拠が出ました」の台詞が飛び出て驚いた。加えて「こちらも押収させていただきます」と、先ほどの謎紙袋をかっさらう。
あれよあれよという間に、僕は幼女への暴行犯として緊急逮捕された。激流に流されるような圧倒的なスピード、無力な僕は抗いようが無かった。
「やっていません!信じてください!」
「その時間、誰かと一緒にいましたか?証言してくれる人は?」
そんな人、僕にはいない。家族はいないし、恋人もいない。僕の身の上を知っても離れていかなかった友人は奇特にも何人かいるが、その日その時間、僕は一人で家にいた。監視カメラとか、第三者の視線とか、そういったものに期待したが、僕の無罪を証明するものは何も出てこなかったようだ。
「あなた、お父さんがあの四月一日正和なんですね」
警察官の目は軽蔑が、口調には嘲笑が、態度には嫌悪が満ち満ちていた。その後に続く言葉あるとしたらきっと「親が親なら子も子」「蛙の子は蛙」だろうな。ああ、蛙ってどうしてこんなひどいことわざに使われてしまったんだろう、「井の中の蛙」もあるし、可哀そうだ。そんなことを考えて、ちょっと現実逃避。
僕の父親は、幼い女の子2人を性的乱暴をして殺した鬼畜である。そんな悪行を重ねたのだから当然、死刑判決を受けた。悪いことをしたら捕まる、相応の罰を受ける、これは法治国家として当たり前のこと、異論はない。
ただ、当時幼かった僕は知らなかったが、父は終始「自分は何もしていない」「女の子と会ったこともない」と無罪を主張していたようだ。被害者とは同じ市内に暮らしていたため、すれ違ったことくらいはあったかもしれないが、顔も名前も知らない、そう必死に訴えたが、聞き入れられなかった。僕と同じように、父の証言を担保するものが出てこなかったのだ。逆に、父の犯行を疑わせる証拠だけはあったようで、父はれっきとした死刑囚の仲間入りを果たした。
父が逮捕され、起訴され、罪状が確定し、死刑囚となってから、母は日に日に衰弱し、市の勧めで精神病院に入院した。次いで、僕の面倒を見ながら学生生活を送っていた姉は、きっと学校で酷いいじめに合っていたのだろう、とある日に自室で首を吊って死んでしまった。第一発見者はもちろん僕だった。
思えば、姉が一番可哀そうだ。父が最低最悪の罪を犯し、母親は戦わずして現実逃避し、頼れる親類もいない。誰もが敵。そんな中、幼い僕だけ残された。どんなに不安で、怖くて、辛かっただろう。あの時の姉も、こんな気持ちだったんだろうか。死後が安息の地だと錯覚してしまうほど現実に絶望して、生きることを諦めた。今、僕も同じ気持ちだよ、姉さん。
父は最後まで無実を訴えたまま、刑務所で病死した。だからと言って残された僕の処遇が良くなることはなかった。施設でも学校でも、僕は腫れ物扱いだったし、いないも同然だった。けれどそうされる理由は分かっていたし、暴力を振るわれるわけでもないから耐えられた。仕方がないと納得できた。姉さんはもっともっと辛かっただろうと思えた。
人生で一番辛い時期は高校時代だった。無視、暴言、暴力。より取り見取りの1年半だった。抵抗はしなかった。だって僕が、僕の父親が悪いのだから、こういう扱いを受けても仕方ないのだと自分を言い聞かせ、日々理不尽を噛み殺していた。いじめっ子たちへの腹立たしさや憎らしさはもちろんあった。同じ目に合わせてやりたい、いやこれ以上に苦しい目に合わせたいと何度思ったか知れない。実際、頭の中であいつらを何度も殺したし、呪いの言葉も吐いた。実行しなかったのは一重に、父と同じになりたくなかったから。それと・・・、
――「君はどうしてやり返さないんだ?」
ああ、思い出した。一人だけ、僕を助けようとしてくれた人がいる。あの人なら、僕が死んだら悲しんでくれるかも。
その人は、僕が通っていた高校に教育実習生としてやって来た大学生だった。高身長で、なかなかのイケメンだったからすぐ学内で噂の的となり、人気者になった。
「君はどうしてやり返さないんだ?」
寒空の下、便器から回収した上履きを洗っていると、実習生の先生にそう声を掛けてきた。無表情だが、うっすら怒りが滲んでいる。
人気者に話しかけられ、さらにいじめられていることを知られ、恥ずかしさから顔が熱くなった。
僕はこう答えた。
「やり返して、もっと酷くなると嫌だから」
これも本音である。もっとも、相手は僕がやり返さないと高を括っているので、一度抵抗してみる価値はある。けれどそんな気力すらないというのも本音だ。
実習生の先生、もとい名前からもじったあだ名・メグミ先生と呼ばれる彼は、僕の返答に納得したように頷き、「君は大人だね」と、言った。
自分より年上の人から「大人」と言われたわけだが、果たして僕は大人なのだろうか。臆病者なだけではないだろうか。
「担任の先生や他の先生は対処してくれないのか?それともいじめを知らない・・・てことはないよな、俺ですら気付くんだ、彼らが知らないはずがない」
「よく気付きましたね。先生が実習に来てからは少し治まってたから」
「わかるよ、雰囲気っていうのかな、伝わってくる。いや、ごめんね、こういうの本人に直接言うのはデリカシーがないな。申し訳ない」
「いいえ。原因は僕にもあるので」
「どうして?君は彼らに何かしたのか?」
「僕の父親のこと、もう知ってますよね?」
「父親と四月一日君自身は関係ないじゃないか」
「誰だって犯罪者の子供と関わりたくないでしょ」
「それは、その子供の性格によると思う。ここ数日、君を観察していたが、特別おかしな子とは思わなかった」
それこそ、本人を前にして言うことではないだろうと思った。
メグミ先生は持っていたビニール袋を差し出してきた。中には、コンビニのおにぎりが3つ入っていた。
「いじめっ子に弁当を隠されたり捨てられたりしてるんじゃないかと思って。ああいう連中は定番をやりたがるだろう」
元々昼食は持ってきていなかった。メグミ先生の見立て通り、定番をやられてきたから。誰かの前で弁当を広げることにすっかり臆病になってしまった。校内の売店で買ったりもしたが、ずっとそれでは金が尽きてしまうので、飴やガムで凌いでいた。
「ああいう連中は定番をやりたがるだろう」
真顔でそんなことを言うので、僕は久々に学校内で笑った。つられて、先生も口元を綻ばせた。
その日から、メグミ先生は度々僕を気にかけてくれるようになった。だからと言って無理にみんなの輪に引きずり込んだり、いじめっ子に直接いじめを止めるよう訴えるような真似はせず、着かず離れず、その視界に僕を入れてくれていた。
それでも、陰湿さは加速し、いじめは続いた。学校側も、おそらく僕を疎ましく思っている。被害妄想も入っているだろうが、先生達から向けられる視線は恐ろしく冷たかったし、僕がいじめを受けていることなど、どうでもよさそうだった。
「やめろ!何してるんだ!」
人気のない階段の踊り場で、いつもの連中に絡まれている時、メグミ先生が割って入って来てくれたことがある。いじめっ子たちはそそくさといなくなったが、我慢ならなくなったらしいメグミ先生は僕を連れ、そのまま教員室へ。
「四月一日君の処遇が改善されるよう、彼らを指導してください。あんまりです」
言いながら、僕のシャツを許可なく捲り、背中や腹のアザを他の先生達に見せつける。素肌を見られても、どうでもいいやと投げやりな気持ちになっていて、されるがままになっていた。
「見て見ぬフリですか?彼が何をしたって言うんですか?」
「いや、塩田先生、落ち着いてください」
「先生方は、どうして落ち着いているんですか?」
メグミ先生の真っ直ぐな瞳に、校長先生や担任の先生はふいと目線を下に落とす。一応、見て見ぬフリの後ろめたさはあるらしい。
しかしそこで、僕らのやり取りを見ていた若い数学教師が、こちらに聞こえるか聞こえないか絶妙な音量で「正義感がお強いことで」と、メグミ先生へ向け、そう揶揄した。かなり小声だったが、メグミ先生には聞こえていたようで、顔をそちらに勢いよく向けると、感情任せではない冷静なトーンで、でもはっきりとした口調で言い切った。
「正義感以前の問題です。これで四月一日君が死んだら、あなた達は人殺しですよ。俺は人殺しになるのは御免です」
僕を含めて、その場の全員がぎょっとした。またもや本人の前で言う台詞ではないことをさらりと言ってしまう。相変わらずのメグミ先生の真顔に、僕はなんだか笑ってしまいそうになった。この人は嘘のつけない人なのだろう。いつも何事にも真剣で、全力。
「ごめんな、あの先生達、全然ダメだ。教師になるべき人じゃない連中の集まりだ」
「メグミ先生も、あんまり教師に向いてないかも」
「・・・そうかな」
「うん」
教員室から出て、廊下を抜け、もうすぐ学生の出入口というところ、定番の質問をしてみた。
「メグミ先生はどうして教師になろうと思ったんですか」
メグミ先生はきちんと答えてくれた。
「父親が教師だった。尊敬できる人だったから、父のようになるために教師を目指した」
「へえ。きっと良い先生なんでしょうね。先生のお母さんはどんな人ですか?」
「母は元芸者なんだ」
「え!すごい!」
「色々と苦労の多い人だったみたいだよ。父との結婚も、父の両親に反対されて、駆け落ち同然だったと。料理は不得意だけど、綺麗好きで物を大切にする人でね」
普通なら、僕の前で親の自慢をする人はデリカシーが無いと判断されるのだろうけど、先生はそういった配慮はしない。遠慮なく対等に接してくれる。それが嬉しかった。
「先生は都会の人ですよね。どこでしたっけ」
「世田谷」
「うわ、めちゃくちゃ都会だ」
「そんなことない。周りは住宅ばかりで面白くないよ」
「なんで群馬に?」
「特別な理由はない、大学の担当教授がここの高校の卒業生なんだ。だからここを実習先に選んだ。とても良い学校と聞いていたけど、騙されたな、教授に文句言わないと」
メグミ先生は本当に嘘のつけない人だ。嘘のない言葉は、僕を心を少しだけ軽くしてくれた。笑顔にしてくれた。




