表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君の手のひらで踊りたい。  作者: 田邑綾馬
第Ⅲ章 転

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

59/64

第三十二話 空蝉

「星野さんのお姉さんの名前、分かった?」

優子ゆうこさんだって。優しい子で、優子」


 俺の言葉を聞き、画用紙に文字を書き出す昴。


「星野、あ、いや、星野光子さんはあの事件後に親戚の養子になったから、優子さんは橋本優子か」


 星、と書きかけ、改めて“橋本優子”、名前の横に1937~1960と追記。とりあえずここまで分かったことを整理するため、昴はペンを走らせる。


 橋本はしもと優子ゆうこ 1937~1960

 ??? 1960~1984

 小郡おごおりたまき 1984~1998

 塩田しおたいこい 1998~


「優子さんは23歳、環さんは14歳で死んだんだ。若いね」


 悲しみの滲む声音で乃愛ちゃんが呟くと、「全員塩田らしいけどな」と昴は素っ気なく返す。余りにも浮世離れし過ぎている展開に、昴のみならず俺も正直着いていけないが、これが真実ならば無理にでも飲み込むしかない。


「???のとこ、ここは調べようがないな」


 ?部分をペンでコツコツと突きながら昴がぼやく。同意だが、他3つの人生が判明しているだけでも十分凄いのではないだろうか。


「じゃあ、憩ちゃんは88年近く生きていて、3回生まれ変わっている?」

「だったら飛鳥君があれほど言い渋るわけない。もっと、遥かに長い時間を塩田は生きているんだと思う」


 俺がそう言うと、乃愛ちゃんは顔を一層暗くさせた。「そうだよね」と、ため息交じりだ。

 息が詰まるような話が続いたので、息抜きの意味も込めてか、昴は本筋から少し反れた話題を出してきた。


小郡おごおりじゅんさんって、環さんの弟さんなのか?確かいたはずだよな?誘拐事件の時、4才?」

「いや、もし弟ならはっきり弟って言うんじゃないかな。隠す必要がない。循さんはごく近い親戚って言ってた」


 その翌週、小郡病院へ仕事で伺う予定があるから、ついでにその件を尋ねることにしよう。

 しかし、気合を入れて挑んだその日、職員さんに副医院長室へ通され、椿さんがやってくるのを待っていたが、約束の時間を20分過ぎても彼女は来ない。時間にルーズな人ではないからきっと急な仕事でも入ったのだろうと想像。

 気長に待とうと、ソファに座り直すや否や、ノック音が部屋に響き、肩が跳ねた。てっきり椿さんかと思ったが、相手は若い看護師さんだった。彼女に見覚えはないが、向こうは俺のことを知っているようで、「あの、倉田朝市さんですよね?」と言うではないか。


「あ、はい、そうです。えっと?」

「倉田さんと直接お会いしたことはないんですが、お名前は聞いていました、憩ちゃんから」

「え、塩田から?」

「私、深瀬ふかせひかりです。塩田家で少しの間居候になっていたことがあるんです。ご存じないですか?」


 思わず、「ああっ」と大きめの声が出た。慌てて口を覆いながら、頭の中で記憶があっちこっちと駆け巡る。

 そんな俺の様子を見て、深瀬さんは口元を緩め、ふふっと笑う。晴れやかな表情だ。きっと充実した生活を送っているのだろう。


「ごめんなさい、椿先生、急に外来の患者さんがお見えになってこちらに来れそうにないんです。商品は私が受け取りますので、今日はお引き取りいただいてもよろしいでしょうか」

「そうなんですね、分かりました。椿先生によろしくお伝えください」

「はい。あ、憩ちゃんにも、よろしくお伝えください」

「会いに行かれないんですか?」

「はい、あまり。連絡はたまに取っているんですけど」


 副医院長室を出て、出口へ向かおうとすると見送ってくれるつもりなのか深瀬さんも着いてきた。仕事の邪魔をするようで申し訳なかったが、彼女の切なげな横顔が気になったので、出口までの道のりを共にすることにした。


「憩ちゃん忙しいですから、邪魔しちゃ悪いと思って」

「そんな。塩田も深瀬さんの元気な姿見たいと思いますよ。どんな生活をしてるのか、お仕事の話も聞きたいだろうし」

「はは、そうですかね」


 時刻は13時半少し過ぎ。出入り口付近の案内看板に、5階にある食堂のメニュー表が貼られているのが目に入ると、自分が猛烈に腹が空いていることに気付いた。隣の深瀬さんには聞こえなかったようだが、腹の虫がぐうぐう文句を言ってくる。


 小郡病院の食事は美味いと評判だ。せっかくだから食べて行こう。深瀬さんにその旨を伝えると、彼女も食堂へ向かう予定だったらしく、図らずも昼食も共にすることになった。会話内容はやはり塩田家の話題が中心。千叶ちゃんや風香ちゃん、飛鳥君の現在の様子や塩田の怪我の具合、それから塩田の彼氏の話など、会話は途切れることなく続いた。


「猫を二匹飼うことになったって千叶ちゃんから写真付きで連絡ありました。ケトと黒鉄。ふふ、ネーミングセンスが独特ですよね」

「あ、そうなんですか?」

「ええ、結構最近みたいですよ。庭に迷い込んできたとかで。成猫と子猫、どっちも黒猫らしいです」

「へえ」

「千叶ちゃん達、動物を飼いたいってずっと言っていたから嬉しいんでしょうね」


 そう言って、スマホの画面をこちらへ向けてきた。確かにそこには愛らしい黒毛の成猫と子猫が映っている。二匹の黒猫は境目が分からないくらいにくっ付いていて、仲の良い親子に見えたが、深瀬さん曰く血の繋がりはないらしい。

 深瀬さんは画面を見つめながらこんなことを言ってきた。


「語弊がありますけど、私は自分を保護猫みたいな立場だと思っているんですよ。保護主から巣立った元保護猫。巣立った先でしっかり根を張らないと、保護主は新たな猫を保護できないじゃないですか。だから今の私がすべきは、仕事を頑張って、自立して、憩ちゃんを安心させることかなって」


 言いたいことは、なんとなく理解できた。俺も施設育ちだ、保護されてばかりではいられない、早く独り立ちしなければならないと焦る彼女の気持ちは分かる。それでも、時々は塩田家に帰って羽を伸ばし、甘えられる部分は甘えてほしいと思った。以前の俺のように、投げやりにならないために。(まあ、彼女は俺のように弱くはないので大丈夫だろう。)


 食事も済み、腕時計を気にし出した彼女へ最後の質問を投げかけた。


「あの、深瀬さんは小郡循さんって方をご存じですか?警察官をされているようなんですが」

「ああ、確か、椿先生の息子さんだと思います」

「え!」

「私もよくは知りませんが」


 とてもとても驚いた。椿さんは独身だったはず。それに、循さんはあの時、椿さんとの間柄を「ごく近しい親戚」と説明した。母と息子の関係をそんな風に表現するものだろうか。

 深瀬さんは「お知り合いなんですか?」と問い返してきたが、小郡家の内情を明かすことになってしまうため、なんと説明すべきか迷った。それとも、小郡病院に勤めている看護師さんの間でも28年前の事件は周知のことだったりするのだろうか。――いや、ここはひとまずお茶を濁そう。曖昧に返事をしてやり過ごし、トレイを持って席を立つ深瀬さんを見送った。


 しかし驚きは冷めない。まさか循さんが椿さんの息子だとは想像していなかった。と、言うことは、循さんは環さん(塩田)と従姉弟関係ということになる。仲が良かったのだろうか。兄弟すらいない俺には従姉妹との正常な距離感は分かるはずもないが、28年の年月が過ぎても探し続けるほどの強い結びつきが二人の間にはあったのだろう。


「――あの、」


 一人思いふけっていると、突如、背後から声を掛けられた。女性の声だ。振り返ると、中年の男女が向かい合って食事をしている。俺には二人が夫婦に見えた。

 女性の方が俺のすぐ後ろに座っていて、「循を知っているんですか?」と聞いてきた。


「え、あ、はい。この間お会いしました」


 戸惑いながらも正直に答える。すると、恵比須顔のその女性は人好きのする笑みを浮かべ、気さくに喋りかけてきた。


「循は元気そうでしたか」

「あ、はい。お元気そうでしたよ」

「よかった!最近めっきり顔出さないから心配で」

「おいおい、いきなり話しかけるなよ。すいませんね。俺達ここの6階で理髪店してて、循は子供の頃から知ってるから、名前が聞こえてつい話しかけちゃったんです、こいつ」


 女性の旦那さんなのか、白髪交じりの頭をした男性も会話に入ってきた。2人とも感じの良さそうな人だな、というのが第一印象。


「今度もし会ったら、顔出せって言っといてください」


 と、男性に言われてしまったが、あいにく循さんと次に会う約束はしていない。


「あー、次いつお会いできるか分からなくて」

「そうですか。あいつも忙しいからなぁ」

「あの、お二人は、環さんとも面識はありますか?」


 人の良さそうなこの人達なら答えてくれそうな気がして、無遠慮に聞いてしまった。けれど、聞いてすぐ後悔した。なぜなら、彼らの顔から笑顔がすうっと消え、悲しげな表情に変わってしまったから。


「どこで、環ちゃんのことを?」


 男性は怪訝そうに聞いてきた。怪しい者ではないと伝えたくて、輸入雑貨を扱う仕事をしていること、椿さんはお客様であることを単刀直入に答えた。加えて、佐藤さんの件も話した。誠実に接するべき相手だと思ったからだ。


「6年前、小郡さん宅に訪ねてきた佐藤さんという方を知っていますか?その佐藤さんと、俺の学生時代からの友人がお付き合いをしていて、俺個人も面識があります。循さんは、佐藤さんがどういう人か知りたくて俺達に聞き込みに来たんです」

「さ、佐藤さんはどういう人ですか?環ちゃんのこと、何か分かりました?」


 今度は女性が聞いてきた。身を乗り出し、目の色を変えて、俺の言葉を待っている。

 申し訳ない。あなたが望むような答えは持っていない。おそらく失踪したあの日に、塩田の前世である環さんは死んだ。環さんはあなた達の元へはもう帰らない。


「・・・佐藤さんは、いい人です。たぶん本当に、子供の頃、環さんに遊んでもらったことがあるだけで、失踪については何も知らないと思います」


 そう、嘘を吐くしかなかった。

 2人は落胆した様子ながら俺を気遣い、先ほどまで見せてくれていた優しい笑みを再び浮かべる。きっと何度も期待して、何度も落胆して、この28年あまりを過ごしてきたんだろう。やるせなかった。


 食堂を出て行く2人の背中を見送ってから席を立つ。トレイを戻し、エレベーターに乗り、出入口へ。

 むわっとした外の暑い空気を浴びると、落ち込んでいた気持ちはなぜか少し持ち直した。肌に纏わりつく重たい湿気もいつもは不快に感じるのに今日は身体を優しく包むベールのように感じ、この時ばかりは蝉の鳴き声が応援歌に聞こえてくる。不思議だ。


 暑い夏は、何かを成さねばならないと、そう思わせる不思議な魔力がある。

 俺は意を決し、身体を反転させた。病院内へと舞い戻り、エレベーターに駆け乗り、6のボタンを押した。理容室はエレベーターを降りてすぐ右手の通路奥にあった。

 逸る気持ちのままに店へ飛び入って、俺の再登場に驚く2人へ一方的に宣言した。(幸い客はいなかった。)


「突然すみません。環さんのこと、自分で少し調べました。興味本位ではないのかと問われると、違うと言い切れません。でも、知りたいんです、環さんのこと。どういう人だったのか、あの日何があったのか。教えていただけないでしょうか」


 ほぼ同時に2人は顔を見合わせた。言葉を交わさずとも意思疎通ができる関係のようで、女性の方はこちらに一礼し、携帯電話を持って店を出て行った。その間、男性に誘導され、カッティングチェアへ座る。白いカットクロスを身体に掛けられたところで、戻ってきた女性は言った。


「あなた、この間の通り魔事件で女性をかばって刺されてしまった人なんですってね」

「えっ、あ、いや、」

「お若いのに立派ね。椿さんもあなたを褒めてた」


 懐かしのガラケーを両手で握りしめ、女性は心底感心したといった風に微笑む。

 きっと、他人に環さんや循さんのことを話してしまっていいか確認連絡を椿さんにし、その際に俺の事情を聞いたのだろう。意図せず俺の人物評価が上がったことに戸惑うが、おかげでスムーズに話を聞けそうである。情けは人の為ならず、とはよく言ったものだ。


 男性も盛大に俺を褒めてくれた。思った通り2人はご夫婦で、先代の医院長が存命だった頃からこの病院で理容室を営んでいるのだという。小郡家とは家族同然の仲で、環さんの誘拐事件・失踪事件も知っていた。


「環ちゃんが失踪した理由は、事件と家出が半々だと当時は思った。環ちゃんがいなくなった前日が、ちょうどかおるさんの四十九日だったんだ」

「菫さん?」

「ああ、環ちゃんの母方の祖母だ。先代の医院長婦人。とても良い人でね、俺達にもよくしてくれた。環ちゃんは誘拐事件後から菫さんの家で、椿さんと一緒に暮らしてた。環ちゃんはお祖母ちゃん子だったから、菫さんが病気で亡くなって相当ショックを受けていた。四十九日が経ち、衝動的に家出をしてしまったのかと当時は思っていたんだけどね、でも、それが28年も経っちゃあね、もう事件と認めるしかない」


 そんな重たい話をしつつも、プシュッ、プシュッと、髪に霧吹きで水を掛けながら手早く散髪を進めていく。鏡越しに見る男性は口元は笑っているが、目元は下がり、悲痛な面持ちだ。女性も椅子に腰かけて、うな垂れるまではいかないが、俯いて床を見つめている。


 男性は続けて、循さんについて衝撃的な事実を教えてくれた。


「循はね、戸籍上は菫さんの子供なんだよ」

「え!?」

「実の子じゃない、養子だよ。菫さんが亡くなった時、循はまだ10才だったから、椿さんが親代わりになった。循は、椿さんの一番いい時期を奪ってしまったと思っているから遠慮して母親だと言いにくいんだろう」

「そ、そうだったんですか」

「循はね、環ちゃんと一緒に保護された子供なんだ」

「一緒に保護?」

「おそらく、犯人グループの誰かの子供だ」


 一瞬、フリーズしてしまった。ハサミで毛先を切る音がやけに際立って聞こえる。ジャキ、ジャキ。


 犯人グループの誰かの子供だって?確か、先代院長は犯人達に殺されている。菫さんは孫を誘拐され、自分の伴侶を殺され、そんな憎い犯人の子供を養子にしたと言うのか。人が出来過ぎている。


「犯人グループのアジトが火事になったって知ってるかい?」

「あ、ああ、はい」

「そうか、ネットってのはすごいね。火事になって、子供2人を捨てて犯人グループは逃げた。その後そいつらがどうなったのかなんてどうでもいいが、子供2人はアジトから少し離れた民家で過ごしていたらしい。偶然、その家主のおじいさんが足を骨折して入院して不在。裏口の鍵は閉め忘れ、電気やガスはそのまま、だから2週間近くそこに留まることが可能だった。季節も夏だったしね」

「なぜすぐ助けを求めなかったんでしょうか」

「さあ、よくは分からない。大人は頼りにならないと思ったのかもしれないね。でも食料も底を尽き、公衆電話から警察に通報をした」

「・・・循が保護されたとき、ひどいもんだった」


 そこで、女性がやっと重い口を開けた。


「きっと、その2週間の間でいくらかマシになったんだろうけど、全身アザだらけで、肌は青白くてガリガリで、言語も幼くて、挙動も子供らしくなくて、いつも怯えた様子で環ちゃんの背に隠れてた。あの2週間は、いきなり太陽の下へ連れて行くと循がびっくりしてしまうから、慣らすため、2人きりの時間を敢えて作ったのかもしれないね。環ちゃんはそういう子だった。相手を思いやれる心優しい子だった。そんなんだからね、循にとって、環ちゃんは神様みたいなものなんだよ。そしてその神様は、とても良い神様だった」


 神様。最近ぐっと身近になった単語だ。神は実在する。でも、塩田は神じゃない。神に何かしらの事情で生まれ変わりを強制されている人間に過ぎない。

 しかしあの塩田なら、誘拐されても対処できそうだし、幼い循さんを2週間面倒見るなんて簡単だったろうな。


 女性は懐かしむように、当時の思い出を語る。


「循はみるみる回復して、笑顔も見せるようになって、年相応に勉強も出来るようになった。環ちゃんが体調を崩しがちになってからは一生懸命看病してた」

「環さんは何の病気だったんですか?」

「免疫系の病気だったみたい。――椿さんが言ってた。夕方になるとあの子達は一緒に散歩して、自販機で好きなジュースを買って、近くの神社の中にある公園のブランコに座って飲むのをルーティンにしていた、あの日もそうだったって。循が環ちゃんを気遣って、「先に座ってて、僕が買ってくるから」って一人で自販機に向かって、ジュースを買って戻ったら、もうそこに環ちゃんはいなかった」

「それきり、ですか」 

「ええ、それきり。だから循はずっと自分を責めてる。あの日、自分がちゃんと環ちゃんを見ていたらって。だから、循は、環ちゃんを探すために警察官になったの」


 そうか、そうだったのか。循さんの人生は環さんの存在によって救われ、生かされ、支えられ、そして支配されている。失踪した理由も分からない、事件か事故かも分からない、生きて戻らないし死体も発見されない。こういった曖昧な状況は、終わらない螺旋階段を昇るようなものなのだろうと思った。


 けれど環さんの失踪について、循さんには何の責任もない。目を離していなくても環さんは失踪したはずだ。どんな理由か知らないが、その日、環さん、いや、塩田は自ら姿を消した。環さん失踪事件は決して循さんのせいではないのだ。


「近所の神社って、どこですか?」

「え?ああ、確か、目黒区碑文谷の――」


 散髪と、話をしてくれたお礼を丁寧に告げて、理髪店を後にした。それから小郡病院を出て、教えてもらった神社へ向かう。その神社に行ったって何もならない。だって、環さんはその日に死に、生まれ変わって塩田憩になった。全ては本物の神様のせい。こんな事実、循さん達に教えられるわけがない。


 訪れた神社には今でもブランコが置かれてあった。真夏の夕方、気温はまだ下がらない。神社や神社内の小さな公園にも、人は俺しかいなかった。蝉の鳴く声と、誰もいない公園。強い物悲しさ、なんとも言えない切なさが込み上げてくる。

 久しぶりにブランコに乗ってみた。大人がブランコにひとり乗る、その光景が客観的にどう映るかは考えないことにする。


 ゆらゆらと穏やかに揺れてみると余計に切なさは増長した。視界には背の高い木々がいくつも生えていて、都会の住宅街のど真ん中なのに神聖な雰囲気がある。この景色を、28年前の塩田も見ていたのだろう。そして隣には、10才の循さんもいた。誰も座っていない右側のブランコへ顔を向ける。ああ、もうここに、環さんと循さんが来ることはないんだ。2人並んでブランコに乗る日は、もう永遠に来ないのだ。そう考えたら、鼻の奥がつんと痛くなった。


 蝉の鳴く声だけが、その場に響き続けている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ