雫ちゃん(終)
女の子と手を繋ぎながら、暗い夜の道を歩いた。歩くウサギのぬいぐるみと幼い女の子という組み合わせは愛らしいおとぎ話のようだが、わたしたちの真実は、『ついさっき人間を殺した幽霊と、幽霊に親を殺されたばかりの人間』でしかない。
人目を避け、なるべく裏路地を選んで進む。と、言っても、わたし達に行く当てなんてない。さ迷い歩いているだけだ。
12月の寒空の下、女の子は鼻を啜っている。彼女のコートなどあの家には無かったので、服を二枚重ね、女のショールを身体に巻き付けているがやはり防寒には足りないようだ。履いている靴も、もうとっくにサイズアウトし、かかとを潰して歩きにくそうにしている。わたしでは、この子にコートも靴も買ってあげられない。今日、寝る場所さえ与えてあげられない。悔しい。
路地の隅から、電信柱の陰から、黒い煙がこちらに近づいてくるのが分かる。さっきよりも量が多く、もはや煙というよりも廃油にようにどろりとした液体に見えた。それが、這いずるようにうごめきながらこちらへ向かってくるのだ。
直感した。あれは、元々人間だったものだ。わたしと似た存在だ。寄せ集まって、わたしを取り込んで、一つの個体になろうとしている。一つの個体なれば、わたしはもっと強くなる。人をもっとたくさん呪い殺せるようになる。実体を持てるようになって、この手で直接女の子に触れられるようになるかも。――でも、それは、だめだ。触れた瞬間、わたしはきっとこの子を殺してしまう。それだけは死んでも嫌だ。もう死んでいるけれど、嫌なものは嫌だ。
迫りくる煙たちから女の子を連れて逃げるのはもはや不可能。交番か、近隣の民家に預けていくしかないが、煙たちは四方から無煙慮ににじり寄ってくる。逃げなければ。わたしがこの子から離れれば、こいつらもわたしの方へ着いてくるはず。駆け出すが、小さな体に阻止された。置いていかれると思ったのか、わたしを抱きしめながら涙声で訴えてくる。
「ぴちゃん、どこいくの、いっしょにいて。ゆめとずっと一緒にいて」
しまいには、声を上げ、わあっと泣き出すので、わたしは動けず立ちすくむ。冷静に考えればぬいぐるみから抜け出ればいいだけの話なのに、足に根が生えたみたいに動けないのだ。
女の子を巻き込みたくない、守りたいという気持ちと、一緒にいてあげたい、離れがたいという気持ちがぶつかり合い、若干後者の感情が優勢になる。
黒い煙が眼前まで迫ると、諦めの境地に入ってしまった。確かあの日もそうだった。必死に逃げたけど、あの黒い波には勝てなかった。簡単に身体ごと飲み込まれ、抵抗もできず、死んだ。誰も助けてくれなかった。神様、助けて。そう何度も願ったけど無駄だった。そりゃそうだ、神様なんていないのだから祈りや願いに意味はない。神頼みをしたわたしが愚かだったのだ。なのに、死んでもなお愚か者のままのわたしは願ってしまった。
助けて、神様。わたしはもう一度死んでもいいから、この子を助けてください。
祈りを捧げたすぐ後、頭上から突如、生きた人間の声が降ってきた。
「大丈夫ですか」
若い男の声だ。女の子と揃って顔を上げる。そこにいたのは黒いコートを着た美しい男だった。わたしたちを怪しむでもなく、落ち着き払った顔をしている。
黒いコートの男は不思議なことを言ってきた。
「残念ながら僕は祓う力がないんです。蛙なので。けど、寄ってくることはありませんから心配しないで」
蛙ってなんだ?最初、男の言葉の意味を何一つ理解できなかったが、周囲の黒い煙が蜘蛛の子を散らすように去っていくのを見て、理解した。この男は黒い煙が視認できるのだ。そして、わたしのことも。
思い切って話しかけてみた。
「わたしが見えますか。声は聞こえますか」
「ええ、もちろん。見えていますし、聞こえています。ここではなんですから、僕の店へどうぞ。その子、震えてる。寒いんでしょう」
「店?」
「喫茶店を営んでいます。少し歩きますが」
それから、黒いコートの男は女の子の手を取り、歩き出した。女の子も素直に手を引かれている。わたし同様、悪い人ではないと感じ取ったようだ。道中、疲れた様子の女の子を気遣い、抱っこして運んでくれた。
着いた先は、男の言う通り喫茶店風の店で、『アンチクトン』という看板がかかっている。店内はおしゃれだったけれど、扉付近の椅子の上に置かれた蛙の置物が店の雰囲気と少しミスマッチに感じた。けれど明らかにわたしの方がこの店に不釣り合い。
男はソファ席に女の子を座らせると店の奥に引っ込み、ブランケットと救急箱らしきものを持ってきた。
「骨折はしていないようです。顔の腫れは引くのを待つしかないですね」
「ありがとうございます」
「いえ。あ、お腹空いてる?温かいココアも飲む?」
女の子はこっくり頷く。再び店奥に戻り、今度は円錐状の器を持ってきた。カラメルはかけられていないが、プリンのようだ。
「アレルギーは?」
わたしに向かって男が問う。
「ないと思います。少なくとも卵は大丈夫」
「そうですか。じゃあ、どうぞ」
スプーンを渡たされると、女の子は不安げにわたしを見た。食べてもいいか、と聞きたいようだ。頷いてやると、女の子は痛々しい顔に笑みを作って、黄色い表面にスプーンを刺した。
「おいしい!」
本当に美味しそうに食べるので、なんだかこちらが嬉しくなる。わたしも一緒にプリンを食べられたら、どんなにいいだろう。そんなわたしの心情を読み取ったのか、男はわたしの前にもプリンを置いた。驚いて見上げると、男はうっすら笑みを浮かべ、不穏当な台詞を吐いた。
「残念ですが、これがあなたにとって最後の晩餐です」
「わたしは食べられないです」
「はい、なので陰善というやつですね」
さらりと真面目な顔して言うので、こちらが笑ってしまう。
「お兄ちゃん、ぴちゃんとおしゃべりできるの?」
女の子が会話に入ってきた。男は首を傾げる。
「ぴちゃん?」
「ぴちゃんは、ゆめのおともだち!」
ぎゅうっと後ろから抱き締められる。男は何とも言えない顔をした。その表情から、わたしが間もなく消されてしまうことを悟る。
店奥からチーン、と機械音が鳴る。男は席を立つと、温めたココアを持ってきた。湯気が立つそれを見て、慌てて「熱いよ、気を付けて」と口をつく。女の子に聞こえないこの声を、男が「熱いよ、気を付けてって、ぴちゃんが言ってるよ」と、伝えてくれた。すると、初めてわたしからのメッセージを受け取った女の子は驚いた顔をしてこちらを見た。次の瞬間には嬉しそうに顔を綻ばせ、わたしの頭を撫でながら、「うん!」と元気よく返事をする。
そこから、女の子はたくさん質問をしてきた。
「ぴちゃんは男の子?女の子?」「なん才?」「好きな色はなに?」「一番好きな食べ物は?」「ゆめがぎゅっとして痛くない?」「ごはんは食べれる?」
男の通訳を介し、わたしたちは会話をした。出会ってから初めて、そして最後の会話である。
「ゆめが大人になったら、ぴちゃんとお喋りできる?」
わたしは答えられなかった。答えたくなかった。あなたは大人になってもわたしとは喋れないよ、あなたは生きた人間だし、あなたが大人になる頃わたしはここにいない。いや、今日死ぬだろう。2度目の死だ。
しばらく会話していると、次第に女の子は瞼を重たそうにし出した。怒涛の一日だったのだから当然だ。ゆっくり眠らせてあげたい。ソファに横になるよう促し、身体にタオルケットをかけてやる。女の子はわたしを抱きしめたがったので、素直にその胸に飛び込んだ。そして女の子に「おやすみ。何も心配しないで、ゆっくり眠って」と告げると、男はそのまま伝えてくれた。安心したように頷いて、女の子はまどろみ、眠りに落ちる。
女の子が寝入ったところで、わたしはウサギのぬいぐるみから抜け出て、男と向かい合う。男から切り出してくれた。
「多少察してはいますが、事情を簡単に教えてもらっていいですか」
全て話す他ない。なぜわたしが死んだのか、あのアパートで起きたこと、女の子の母親とクソ男を殺したことを洗いざらい白状した。向かいで、男は黙って話を聞いていて、眉一つ動かさない。察していたというのは本当のようだ。
わたしが正直に白状したからか、男も人間が知るはずのない話を教えてくれた。
「――あなたは一般的には幽霊と呼ぶべきでしょうが、厳密には違います。幽霊というものは存在しない。ですが、死者の強い感情はこの世に残ります。あなた方を襲っていた黒い煙のようなものがそれです。その黒い煙が、神が放つマイナスなものに触れてしまうと、まれにあなたのように、幽霊に近い存在に変わる。黒い煙はくっ付きたがりますから、互いを吸収し、膨張し、力を得て、人を呪うようになる」
随分スピリチュアルな話だと思った。けれど事実なのだろう。わたしは現に黒い煙を吸収し、力を得て人を殺した。
この男もまた神なのか。聞く気にはなれなかった。恨み言を言ってしまいそうになるから。神が実在するのならば、どうしてあの日、自分達を助けてくれなかったのかと。あの日、どれほど多くの命が失われたのか、あなた知っているでしょう。そう、責めたくなる。怒りをぶつけたくなる。けれど、口を噤む。相手はおそらく神で、女の子の命運を握る者なのだ。
「友人を呼びます。彼なら、あなたをきちんと祓えます」
「はい」
「そして、この子は然るべき場所に預けます」
「施設ですか?」
「そうですね。よい施設を選びます、安心してください」
「あなたが育てるのは無理ですか?」
男は面食らった顔をした。わたし自身、思わず口から飛び出てしまい、自分に自分で驚いている。
男は困惑しつつも正直に答えてくれた。
「僕は、あまり適任ではないですよ。子供を育てた経験はあるのですが、日中は店をやっていますし、あまりかまってあげられないかと」
「そうなんですね、無理言ってすみません」
「いや、でも、」
「え?」
「一人、その子を養育する人物に心当たりがあります。若い女性で、とてもしっかりした人です。事情を話せば、もしかしたら・・・」
「お願いします。施設が嫌というわけではありませんが、可能なら、家庭で育ててあげたいんです」
「分かりました。ですが、約束はできません。彼女にも生活がありますから」
「はい。どちらにしても、この子が安全で健全な生活が送れるのなら構いません。そこだけは、約束してください」
念を押すと、しっかりと頷いてくれた。大丈夫、この男は、この神は嘘を吐かない。わたしとの約束を守ってくれる。
男は胸元からおもむろに小瓶を取り出すと、それをテーブルの上に置いた。なんでも「記憶を曖昧にする水」だそうだ。
「記憶を完全に消す効力はありません。辛い記憶を軽減し、楽しい記憶を増幅させるものです。まだ幼いですから、実の両親のこと、あなたのことも忘れてくれると思います。いいですね?」
「もちろんです。願ってもないことです。わたしのことは、忘れて欲しい。忘れて、幸せになって欲しい」
そうこうしていると、店の扉が開いた。ふり向いた先には男性が立っていた。彼が、男の言うわたしを祓える友人なのだろう。
水村蛍と名乗る男はこう言った。
「あなたが触れたマイナスの気の発生主は、きっと力の強い神なんだと思います。ここまできちんと自我があり、意思疎通ができる方はとても珍しい」
神が放つマイナスな感情とやらに触れた心当たりはないが、神が言うのだから真実なのだろう。
水村と名乗る彼は右手に青い炎を宿し、眉根を下げて謝った。
「怖い思いをさせてごめんなさい。一瞬です、痛くも痒くもありませんから」
「はは、大丈夫です、既に一回死んでますから」
「そうだ、ちょっと待って。あなた名前は?僕は佐藤未来と言います」
名前、わたしの名前。懸命に記憶を掘り起こそうとするが、やはりなにも思い出せない。忘れてしまったようだ。
一つの可能性として頭に浮かんだのは、もしかしたら、わたしはいくつもの人間が寄せ集まった存在なのではないかということ。母親だった人、母親になるはずだった人、母親になりたかった人、そんな人たちが集まったものが、『わたし』。だから、わたしに決まった呼称はない。
言い淀むわたしを見て、なにか察したらしい佐藤さんはある提案をしてくれた。
「雫、という名前はどうですか。ぴちゃん、に一番近いかと思って」
「しずく、」
「代わりに、その子の名前はあなたが付けてあげてください」
「え、わたしが名前を?」
「元の名前では色々と不都合ですから」
名付けを提案され、すやすや眠る女の子の方へ目線が自然と落ちる。その頭を撫でようと手を伸ばすも、ただ手が空を切るだけ。やはり最後までこの子に触れることは叶わなかった。けれどそれでいい、神によってこの子の未来を保証してもらえるのだ、これ以上は望んじゃいけない。なにより、この子にとってわたしは母親を殺した仇だ、殺人犯だ。それなのに願いを叶えて欲しいなんて欲張りにも程がある。罰当たりである。――でも、だけど、これだけは願わせてほしい。この子の願いが、たくさんたくさん叶いますように。
「ちか、はどうでしょう」
「ちか?」
「千の願いが叶いますように、で、千叶」
わたしはその日、神の聖なる炎によって、2度目の死を迎えた。痛みも苦しみも恐怖もない、穏やかな死だった。
わたしは”ぴちゃん”から雫に名を変え、”ゆめ”から千叶となった女の子の母親になった。
【終】




