表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君の手のひらで踊りたい。  作者: 田邑綾馬
第Ⅲ章 転

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

51/64

雫ちゃん(四)

 時は流れ、11月。この世にも奇妙な生活は8ヵ月続いていた。

 女が初めて新しい恋人を連れて来た。前の男よりずっと落ち着いた、人畜無害そうな男だった。女の子にも、「こんにちは、ゆめちゃん。初めまして、よろしくね」とにこやかに接した。女は猫を被って賢母を演じている。

 今日男を家に呼ぶため、部屋を大掃除し、床に散らばっていた荷物たちは女の子の居場所である押し入れにめちゃくちゃに詰め込まれている。おかげで女の子は珍しく部屋の中で、居心地悪そうに立っている。どこに座ればいいのか分からないといった様子で、目を泳がせ、不安からかわたしの身体を抱きしめる手が汗で湿っている。


 男は、緊張して固まる女の子にも優しく接した。カーペットの上で、女と自分の間に座らせ、「一緒にお話ししよう」と優しい声音で語り掛ける。女の子は怖い人ではないと思ったようで、腕の力が少し弱まった。女も男に気に入られるためか、笑顔を貼り付けている。


 この出会いは、女の子にとって希望に見えたかもしれない。しかし、わたしには分かっていた。この男は、いい人間ではない、と。もわもわ、ふわふわ、身体の至る所から黒く淀んだ煙を放っている。これが悪意や敵意というものなのか、具体的には分からない。近づいてはいけない、こいつは駄目だ、と、どこからか警告が鳴る。無念の内に死んだ者だからこそ分かる感だ。


 そして、その感は当たってしまった。

 最初の内は何事も起きなかった。男は紳士的だったし、女も健気に振る舞い、女の子への態度も軟化した。けれどある時期から男は女の子の身体を触るようになった。女の目を盗み、頭を撫でる、肩に触れる、手を握る、足を摩る。その行為はエスカレートしていく。わたしは必死に女の子の身体にしがみついた。決して離れない。女の子の大切な場所には触れさせない。女の子もわたしがしがみついて動かないことを不思議に思ったのか、それとも本能の内に男が危険と判断したのか、次第に男を嫌がるようになった。来訪時には押し入れに籠ろうとするが、我が子を虐げていると悟られたくない女はそれを阻止する。まあ、男はもうとっくの昔に我が子を虐待している女と見抜いているだろう。むしろそういう女だから近づいたのだろう。こいつは、社会との関わりが希薄で、SOSを出せる親戚も知り合いもない非力な子供を狙う卑劣な男なのだ。


 男の正体に薄々気付き始めるが、愛されたい要求が強く、かつ高給取りの恋人を手放したくない女は現実から目を逸らし続けた。

 その日も女は、分かっていながら女の子と男を2人きりにした。いや、女としては賭けに出たつもりだったのかもしれない。自分が買い物へ行っている間に、自分の恋人はあの部屋でどういう時間を過ごすだろうか、と。『仲良く娘と会話し、遊び相手になってあげる』に、女は賭けたのだ。この賭けに勝てば、自分を愛している証明になり、男と結婚という流れに向かって進んでいける。

 実に浅はかで、愚かな賭けだ。負けると分かっていて、自分の感情を優先し、娘を置いて出て行ったのだ。


 憤りしかなかった。しかし怒っている場合ではない。女の子を、気色を悪い笑みを張り付けるこの男から守らねばならない。ぬいぐるみが自我を持って動くという超常現象を知られるわけだが、そんなことどうでもいい。押し入れに女の子を引っ張り入れ、内側から突っ張り棒で即席の鍵をする。幸いと言ってはなんだが、わたしの姿は女の子の陰に隠れていて男には見えていなかったようで、不審に思われていない。あとは、この間に女が帰ってきてくれれば、とりあえず今日は凌げる。


「おーい、出てきて、一緒に遊ぼうよ」


 最初の内は優しい口調だったが、どんどんと語尾は強まる。押し入れの襖をガタガタと揺らす。その声は楽しげだった。それでも出てこない女の子に、痺れを切らしたのか舌打ちをして、ドンッと襖を蹴る。

 どうして男が蹴ったと分かったのか。ウサギのぬいぐるみから抜け、部屋に出てみたからだ。襖から飛び出て睨む姿はさぞかし恐ろしいだろうが、やはり男にわたしは視認されない。


 ドンッ、ドンッ。ガタ、ガタ。

 女はまだ帰らない。


「おーい、出てきて~。何も怖いことしないよ。何かつっかえ棒してるの?」


 ガタガタ。

 おぞましい男の声を耳に入れながら、ぬいぐるみ以外に憑依できる対象を探す。けれどこの家には碌なものがないし、過去に本や包丁といった物体にも乗り移れないか試したが無駄だった。それは今この時も同様。あのぬいぐるみ以外、わたしは乗り移れない。

 ああ、どうして。わたしは幽霊なのに、どうして人間一人ちゃんと呪えないんだろう。


 モクモク、黒い煙がどこからともなく流れてくる。男の放つ煙も相まって、部屋は視界が奪われるほど真っ黒に染まっていく。


「もう、ゆめちゃんはわがままだなぁ。そんなんだと、僕は君のママを嫌いになっちゃうよ」


 事態はそんな最悪な言葉によってさらに悪い方へ転がる。女の子が押し入れから出てきてしまったのだ。わたしは慌ててぬいぐるみへ戻ろうとするが、すぐさま男が押し入れを閉めてしまう。あいにく、ぬいぐるみは押し入れの中。女の子がもう押し入れに隠れられないよう、戸の前にスーツケースを引っ張り置くその行動はあまりにも異常で醜悪だった。


 女の子の肩に、男の手がかかる。わたしはぬいぐるみに戻る間も惜しくて、発狂して叫んだ。「触るな!死ね!」と。やはり男には聞こえていない。黒い煙は量を増すばかりで視界はもう暗闇に近かった。女の子の姿が、見えなくなる。


 その時だった。玄関のドアが開いたのだ。女が帰ってきた!

 この時ばかりは救世主に見えた。が、自分の恋人がまだ幼い我が子の服を脱がせて肌に触れている場面を目の当たりにして、一瞬にして修羅に変わった。今度は女が発狂した。男にではなく、自分の娘に対して、だ。


「あんた何してんの!私の幸せの邪魔しないで!」


 その顔は嫉妬と憎悪で歪み、見ていられないほど醜かった。買い物袋を投げ捨て、靴も脱がずに部屋へ上がり、男の前だというのも気にせず、女の子の顔を思い切り叩く。それから、「あんた邪魔なの!消えて!ねえ、こいつが勝手に服脱いだんだよね?こいつが悪いよね?」と、金切り声を上げる。刺激しない方がいいと考えたのか、男は女に同調した。すると女はますますヒートアップし、顔を真っ赤にして、ふうふうと肩で息をしながら、もう一発、さらに一発、小さな頬を殴打する。


 鼻血を出して倒れる女の子を見下げる女は、それまでほんの少しあった我が子への情を完全に失ったようだった。どんなに面倒で負担であっても、結局この家に戻ってきたし、我が子に不遇を強いる後ろめたさのようなものを若干は感じられた。きっと、自身の幼少期と重ねたり、己の不甲斐なさを恥じる瞬間もあったと思う。わたしは女に少し同情もしていた。この女も、こんな大人になりたいわけではなかったろう。もっと素敵な大人に、優しい母親になりたかっただろう、と。

 けれど、女は踏み止まれず、一線を越えてしまった。


 鼻血を流し、朦朧とする女の子は、うわ言のようにわたしの名を呼んだ。「ぴちゃん、」と。

 名を呼ばれたその瞬間、わたしは腹を決めた。この黒い煙を、吸うことにしたのだ。


 すうっと立ち込めていた煙を全て吸う。するとすぐ、女と男がこちらを見た。幽霊になってから、初めて人と目が合った。こんな最低な人間たちでも、久々に目線が合うとやはり嬉しいものだ。わたしはにっこり笑ってやる。笑ってあげたのに、女も男も絶叫した。まるで恐ろしい幽霊でも見たかのように狼狽うろたえている。男は力なくその場にへたり込み、女は立ちすくむ。にじり寄ると、足をもつれさせながらも玄関へ走り出すがもう遅い。その頭を掴み上げ、悲鳴を上げる男女をユニットバスへ連れて行く。


 わたしが願うと、風呂場の戸が開き、便器と浴槽にぶくぶくと海水が湧き上がる。そこへ、男女の顔を押し付けてやった。女は浴槽、男は便器に顔を突っ込むと、気泡を大量に放出しながら手足をばたつかせて暴れた。とにかく暴れた。けれど今のわたしは暴れる男女を押さえつけるなど容易だった。少しの力もいらない。願えばその通りになる。もっと早くこうすればよかった。そうすれば女の子は傷つかなかった。虐げられても、それでも好きな母親から「邪魔、消えろ」など言われることもなかったのに。


 静かになったユニットバス内に、わたしの涙が一粒、ぴちゃんと落ちた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ