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君の手のひらで踊りたい。  作者: 田邑綾馬
第Ⅲ章 転

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雫ちゃん(三)

 わたしは女の子の友達であるが、母親の役割も担った。身体を得たことで物を持てるようになったので、女の子の世話をするようになったのだ。女が外出している際や酔っている時を狙って、分からない程度に食料をくすねたり、風呂に入れたり、トイレにも付き添った。わたしが付きそうことによって粗相することは減り、女から女の子が叱られる頻度は少し減った。


 一番最初だけ、風呂に一緒に入った。毎度一緒に入浴していては、わたしの身体はびしょびしょで乾かない。

 薄汚れた服を脱いだ彼女の身体は予想よりずっと細かった。火傷跡や切り傷こそなかったが、つねられた痣が二の腕や背中、お尻にある。時折、ストレス発散するためか、女が力いっぱい細い手を握るので、女の手形が腕にくっきり残っている。こんな細く頼りない腕を大人が力いっぱい握りしめたらどうなるか、あの女は想像も付かないのか。それとも、自分も経験してきたから、この程度では骨は折れないと考えているのか。


 赤く腫れた手形を優しく撫でると、女の子は「だいじょうぶだよ」「もう痛くない」と笑った。痛くないわけがない。無理をしているだけ。汚い浴槽内で、シャワーを二人で浴びながら、わたしはガラス細工を扱うように、丁寧に女の子の身体を洗った。ついでに自分の身体も洗った。石鹸がすぐ泡立ち、ぬいぐるみは泡だらけになる。女の子も優しい手つきでこの身体を洗ってくれた。水を切るため、犬のように身体を震わせ、自分で自分を絞っている光景が可笑しかったのか、女の子は声を出して笑う。女の子が笑っている瞬間が、わたしが唯一安らぐときだ。


 それから、棚から一つくすねた歯ブラシで、ほぼしていなかった歯磨きの仕方を教えた。食事をする前と食事を終えた後に手を合わせるジェスチャーを見せると、女の子は真似をした。チラシの後ろに絵やひらがなを書いてみせると、女の子はわたしを描いてくれた。女に見つかるといけないので、チラシは押し入れの天井の隅に挟んで隠した。


 女の外出中は大忙しだった。女に見つかったら不味いことを全て済ませないといけないからだ。洗濯をして干して取り込んだり、少し掃除もしてやった。家事をすれば、女が女の子に優しくなると考えたからだ。だから、ゴミを袋に入れたり、洗濯を畳んだりといった子供でも出来る範囲の家事をした。思った通り、女は少し機嫌が良くなった。でもそれも一瞬。「へえ、偉いじゃん。賢いなぁ」と、男が女の子を褒めると、女は一気に膨れ面になり、女の子を押し入れに追いやり、襖を締め、なんと襖の前にトランクケースを置いてしまう。さすがにやりすぎだと男の方は言うが、女は男に抱き着き、ベッドになだれ込んでしまう。

 この時、わたしは押し入れの外にいて、女の子のそばにいてあげられなかった。あの暗くて狭い押し入れの中で、きっとあの子は泣いている。わたしは悔しくて、悲しくて、情けなくて、憎くて身体が震えた。ここで動いたら、気味悪がられて外へ捨てられてしまうかもしれないと、暴れそうになるのを必死に耐えた。声は聞こえないのだから呪いの言葉でも吐いてやればいいのに、わたしは黙って床に倒れたまま。


 もく、もく、もく。どこからか湧いてくる黒い煙が自分を包むのが分かる。マイナスな出来事が起こるたび、わたしの周りには黒い煙が現れ、数と量を増やしていく。


 女の子と一緒に過ごす時間が、黒い煙を消してくれた。

 並んでテレビを見たり、絵を書いたり、シャボン玉や砂糖氷を作ってみたり、そんなささやかな時間がわたしを別の生き物へ変容してしまうのを留めている。わたしはまだこの子のそばにいてあげたいから、黒い煙の存在について無視を決め込んだ。


 だから、女が男にフラれて暴れ、女の子に八つ当たりをしてきても感情を爆発させないよう耐えた。女の子の身体にへばり付いて、女の拳から守るクッションになった。三週間近くも自宅へ戻らなくて食料が尽きそうになっても、ベランダから抜け出て近所の庭の柿を採ったり、店先に商品が並べられている店から品物を盗んだりもした。心の中で家主と店主に謝りはしたが大した罪悪感はなかった。アパートで待つあの子のことしか頭になかったのだ。


 ある日の夕暮れ、人目を憚りながら柿を抱えて走っていると、道の反対側の垣根に立派な蛙がいるのが見えた。人間の拳大くらいの焦げ茶色の蛙が、ちょこんと座り、こちらを見ている。わたしを白い猫とでも思っているのか、大きい瞳が追ってくる。こんな都会でもあのサイズの蛙はいるものなのだなと、ぼんやり考え、しかしすぐさま前を向き、女の子の元へ急いだ。

 ベランダから部屋に入ると、女の子は押し入れからすぐ顔を出した。泣き顔である。一瞬、女が帰ってきてまた理不尽に暴力を受けたかと心配になったが、どうやら一人ぼっちがよほど寂しかったらしい。


「ぴちゃん、行っちゃだめ。ゆめといっしょにいて」


 そう言って、わたしを抱きしめた。胸が締め付けられる思いがした。出来るなら、女の子をここから連れ出して、綺麗で安全な家で一緒に暮らしたい。栄養満点のご飯を作ってあげたいし、足を伸ばせる湯舟にゆっくり浸かって、太陽に匂いのする布団で寝かせてあげたい。お友達と遊ばせてあげたいし、きちんとした教育を受けさせたい。

 けれど、それらは全て叶わない。わたしはもう死んでいて、ぬいぐるみの身体に入っただけの幽霊なのだ。今のわたしに出来るのは、『ぴちゃん』として、女の子を抱きしめることだけ。


 女が3週間ぶりに帰宅した。ドアをゆっくり開け、忍び足で廊下を抜け、恐る恐るといった様子で押し入れを覗く。女の子が遠慮がちに顔を出すと、女は緊張した面持ちから気の抜けた笑顔に変わる。3週間も放置して、女の子が死んでしまったかもしれないと怯えていたのだろう。なんとも醜悪な女である。


「ゆめ、偉いねえ、ちゃんと良い子にしてたんだねえ。身体もきれいだし、そんな痩せてもないし、5歳で一人暮らし出来ちゃうなんて天才ないんじゃない?」


 甲高い声が耳に障る。実に腹立たしい。一人で生活出来るわけなかろうに。どうしてわたしは幽霊なのに、この女を呪えないんだろう。

 帰ってきた女は妙に上機嫌で、どういう風の吹き回しか、掃除をしたり料理をしたり、これまでにない行動を見せ始めた。しかしわたしには女の行動の理由に見当が付いていた。別の男が出来たのだ、と。


 これは良い兆候かもしれない。新しい男が、女を経済的・精神的に支えてくれるなら女の子の待遇も改善されるかもしれない。嫉妬深く幼稚な女を上手く懐柔してくれれば、あるいは女の子の待遇を不憫に思って児相に通報してくれるかもしれない。

 女が握ったおにぎりを嬉しそうに頬張る女の子を見つめながら思う。やはり実の母親がまともになって、この子を養育するのが一番いい。わたしはおにぎり一つ握ってあげられないのだから。


 けれど事態はさらに悪化していく。女の新しい恋人は、まともな奴ではなかった。

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